作品
2,前髪かきあげ(斎千)
ごいんっ。
そんな見事な音がした。
千鶴はチカチカする目を閉じ、額を押さえてその場にうずくまる。
「い、いたぁ……」
自然と滲んでくる涙。
痛いの半分、情けないの半分と言ったところだろうか。
箪笥の一番上の引き出しを開けているのを失念して、立ち上がろうとした結果、うっかり額を強打。
脳天直撃にならなかっただけマシなのか。
角でぶつけなかっただけマシなのか。
いずれにしても五十歩百歩な気がする。
迂闊だった自分がいけないのだ。
救いはこんな情けない場面を夫に目撃されなかったことだろうか。
そう思った矢先に。
「今帰った」
帰還を告げる声。
広くもない家の中だ。
夫の声に顔を上げた千鶴と、玄関できょとんとしている斎藤の目が合った。
斎藤の目線が千鶴と引き出しの辺りを交互に見比べている。
「ぶつけたのか?」
この状況でその結論に至らない者はよほど鈍い人間だろう。
正解であるだけに居たたまれなさで、消えてしまいたい。
恥ずかしくて俯いた千鶴に、斎藤は慌ただしく靴を脱いで駆け寄ってきた。
「見せてみろ」
有無を言わさず顎を掬い上げ、前髪をかきあげて患部を見る。
「ああ、赤くなってるな」
「だ、大丈夫です。鬼なので治りは早いですから」
人間だったらそのまま青痣になってしまうかもしれないが、千鶴は生まれてこの方、打ち身の痣を作ったことなど一度もない。
打ち身は切り傷などに比べて若干治りが悪いのだが、それでもその差は微々たるもの。
だから平気なのだと、斎藤の目から紅くなった患部とやや広いのが気になっている額を隠そうとしたのだが。
「治りは早くても痛みはあるのだろう?早く痛みが引くよう、まじないだ」
斎藤の顔が近付いてきたと思ったのも束の間。
紅くなっているだろう場所に優しく触れた感触が何であるのかと理解した千鶴は、全身から火が噴きそうなほど熱くなった。
「な、な、な……一さんっ」
思わず声もひっくり返る。
「どうした?」
どうしたも、こうしたも。
問う声はしてやったりの響きを滲ませていて。
彼はときどきこうした臆面もない行動を取ってくれるのだ。
「…………もう、どこで覚えたんですか、こんな真似」
「思いついただけだ。よく軽い傷なんかは舐めたりするだろう?ああ、くちづけよりも舐めた方が良かったか?」
しれっとした顔でそんなことを言うものだから堪らない。
「け、けっこうですっ」
これ以上何かされてはかなわないと、夫の胸に顔を伏せる。
そんな千鶴の耳に斎藤が喉の奥で楽しそうに笑う声が届いて、ますます顔を上げられなくなったのだった。
※
斎藤の魅力は天然な所ですが、天然で確信犯なところが手に負えないと思います。
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