庭球小説

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0 思い出の雪

 吐く息が白い。
 そのことに今さらながらに気づいて、リョーマは『あぁ、冬が巡ってきたのだな』と思った。
 何度目の冬だろう。
 もはや数えるだけ空しい。
 リョーマの過去には、人間には有り得ぬほどの長い時間が横たわっている。
 覚えていることもあれば、覚えていないこともあり、これからもそうだと思うと、唇から零れ落ちるのは溜息ばかりだった。
 人でない父を持ち、人の身の母からリョーマが生まれたのは、遥かな昔のこと。
 それがいつのことだったかも覚えていないし、『リョーマ』と名乗るようになったのがいつだったかも覚えてはいない。
 ただ、名付けたのは両親でないことは確かだ。
 父は海を越えてやってきた異形・美貌の魔物だったと言う。
 伝達形式でしか語れないのは、リョーマが父を知らないからだ。
 処女の血を好む魔性。
 ヴァンパイア。
 吸血鬼。
 今でこそその存在を明らかにする名称がこの国にも伝わって来てはいるが、当時は異国の魔物としか言いようがなかった存在。
 まだ母の胎にいることさえ定かではなかった頃に、朝廷に属していたのか、流れのものかは定かではないが恐ろしく腕の立つ陰陽師に、調伏されたと聞いている。
 種族を越えて出会った両親の間に何があったのかは知らない。
 いかに美貌に秀でていようとも、言葉も通じぬ魔性の子を孕み、それを産み落とす決意をさせるだけの何かが確かにあったのだろうと想像するのみだ。
 人の子が胎内にある倍以上の年月、母は身の内でリョーマを育て……人々の奇異の眼差しから逃れるため、身重の身で旅をして……その代償のように、若くして亡くなった。
 すでに生まれたときには、言葉を解し、不可思議な力を使うことができたリョーマ。
 外見上は、瞳の色が少し薄いくらいで、この国の人間と大差なかったが、血に秘められていたのは明らかに人外の力であった。
 自分を生んで以来、床に伏しがちだった母に言い聞かされたのは、その力を人前では決して揮ってはいけないと言うことで、その教えは正しかったのだろう。
 顔を思い出すことも困難になって久しい母の、それが唯一強烈に焼き付いている思い出。
 おかげで今日まで、人の中に紛れて生きることができた。
 そうと知られれば、排除されたかもしれない。
 最も自分を殺すことのできる存在がいるかどうか……自分ですら、死に方などわからないと言うのに。
 人と吸血鬼のハーフ。
 それは吸血鬼としてのあらゆる制約から解き放たれ、身体が成長を止めた後は不老不死を約束された存在だと言う。
 事実、日のあるうちも人間と同じような出で立ちで外を出歩けたし、人間と同じ食べ物を摂取することで命を繋ぐことも出来るから、頻繁に血を求めることもない。
 そのくせ身体能力に秀で、不可思議な力……魔力と言うべきか……を用い強大な魔法を使うことも出来るのだ。
 それでも、いかに不可思議な力を持っていても、こうして街から街へと転々とするのは、昔から変わっていない。
 どう言うわけか、子供のまま一向に成長しなくなってしまったのだから、一所にいられる期間は短いが、そうやっていろんな場所を渡り歩くことで余計な火の粉を被ることを避けてきた。
『眠り』のための結界を張った隠れ家のような場所はいくつか持っているけれど、こうして起きているときは一・二年が限界で、定住することはない。
 もう少し成長していたならば、事情は違っただろうが『成長しない子供』は不信を招く以外なにものでもないから。
 自嘲気味に微笑んで、リョーマは見知らぬ街を歩く。
 人は成長する、街も変わっていく。
 かつて住んでいた場所を訪れても、決してそこはリョーマを優しく迎えてはくれない。
 当たり前だ。
 己がそこにいたときの痕跡を消し去ったのは、己自身。
 それなのに。
 諦めることにも飽くほどの長い年月を過ごしながら、忘却の痛みにだけは慣れることがない。
 忘れてしまうことも、忘れられることも。
 ふと、視線を巡らせると色とりどりのディスプレイがされた街の様子が目に入る。
 今日が、クリスマス・イブなのだと言うことは、にぎやかな街を歩いているうちにわかった。
 行き交うのは、家族が待つ家に帰る人々や、愛し合う恋人同志たち。
 リョーマは一人、白い息を吐きながら歩いている自分に、どうしようもない孤独を覚える。
 仕方のないことだ……これまで何度も言い聞かせていた言葉を胸の内繰り返して。
 自分の正体を知っても態度を変えず、親しく付き合ってくれる人間もいた。
 そう言った人間とは、彼らの命が尽きるまで交流を持っていたこともある。
 でも、誰も……リョーマと共にいてくれるとは言ってくれなかった。
 望めばそれを与える力が自分にはあった。
 しかし彼らは、リョーマの正体にも、力にも恐れを抱かず、時に血を提供してくれることもあったが、この瞳に宿る孤独の闇の深さを畏怖し、『永遠』が決して楽しいことではないのだと敏感に感じ取り……結局その言葉をくれる人はいなかった。
 一人を痛感するたびに願わずにいられない。
 いつか最後が訪れるのだとしたら、そのときまでずっと一緒にいてくれる存在。
 決して揺るがない絶対の感情を、リョーマにくれる人。
 そしたら自分は、もう孤独にはならないだろう。
 そのただ一人の人を、心から愛するだろう。
 そんな夢が……叶うならば。
『永遠』ではなく、自分を求めてくれる人が欲しい。
 言葉にするほどの勇気もなく、胸の奥に秘め続けているたった一つの……
 初めて訪れた街は、年に一度のイベントに浮かれていて、その光景は胸を切なくさせる。
 この街は辞めよう……
 去来した想いに、リョーマの足は自然と速くなる。
 人に紛れる生活から暫しは遠退き、永い刻をやり過ごすための眠りに入ろうか。
 そう考えながらにぎやかな通りを抜け、人気の絶えた街の外れのほうへと向いた足。
 リョーマは己の視界に飛び込んできたものに首を傾げる。
(……子供?)
 他者の目から見れば自分も充分子供なのだが、目の前を通りすぎて行った子供はリョーマよりさらに幼い。
 小学校に上がるか上がらないかくらいで。
 冬の日が暮れるのは早い。
 時間から言えばさほど遅くはないはずだけれど、傾いた陽はほとんど空の際へと隠れようとしており、夜の気配が漂い始めている。
 あれくらいの子供が、一人で出歩く時間ではない。
 気にすまいとは思ったが、見過ごすことが出来ず、リョーマは子供の後を追った。
 男の子のようだが、彼はどんどん人気のないほうへと行ってしまう。
 街灯もない薄暗い道。
 夜目が利くリョーマにはなんのこともない。
 しかし、子供の目にはどうだろう。
 ある程度距離を置きながら、下ばかり見ている子供の後を追った。
 果たして辿りついたのは、小さな神社だった。
 昼間であれば、子供たちのいい遊び場と言った所だろうが、最近の子供はどうなのだろう。
 彼はそこで何かを探しているようだった。
 リョーマはその子に近付いたが、彼は気づく気配もない。
「探し物?」
 声をかけると、子供はびっくりしたように顔を上げる。
 ちょっと見たことのないような整った顔の子供だと思った。
 日本人形のように凛々しく、子供らしくない落ち着きまで備えているようだ。
 リョーマを映す瞳の色は黒く、澄んでいて……忘れていた何かを呼び覚ますような、そんな光に満ちている。
「探し物をしてるの?」
 少し警戒しているような彼と視線を合わせるためにしゃがみ込み、リョーマはなるべく優しく問いかけた。
 すると男の子はこくりと頷く。
「でも、こんな時間に、危ないんじゃない?お母さんが心配してると思うよ」
 諭すような口調ではなく、それより親しげな口調で言うと、彼は『お母さん』のところで表情を曇らせる。
 どうやらわかってはいるらしい。
 それをおしても、探さなければいけないものなのだろうか。
 彼にとっては。
「……大事なものだから」
 小さな声で子供は言う。
「どんなもの?俺も探してあげる」
「お兄さんも?」
「こう見えても物を探すのは得意なんだ」
 夕闇に見えているかはわからないが、リョーマは安心させるように笑った。
 すると彼は少し逡巡して……
「お守り……先月死んだおばあちゃんに貰ったんです。ずっと大事にして、持ち歩いてて……昼間お母さんと出かけたときに落としたみたいで……それで昼間歩いた道を探してるんです」
 まだ幼いのにしっかりした口調で礼儀正しく話す子供は、真摯に言い募った。
「ここにも来た?」
「はい。買い物帰りにここでお参りするのが習慣なんです」
「探してること、家の人には?」
 小さく首を振る。
「黙って出てきちゃったわけか……なら、早いところ探そう」
 リョーマの言葉に、子供はきょとんとした表情を作った。
 年相応の表情は、なんだか可愛らしくてリョーマは表情を和ませる。
 止まった時間と同じ、止まったまま動かなかった自身の心が、ほんの少し動いたのに驚きながら。
「怒らないんですか?」
「怒る?どうして俺が?」
「家の人に黙って出て来たこと」
「それはお父さんやお母さんの役目でしょ。それに怒られるのは覚悟の上でこっそり探しに来たんじゃないの?」
 こくんと頷くのに、リョーマは笑った。
 表情は見えないかもしれないから、気持ちが伝わるように、頭にそっと手を乗せる。
 つやつやした黒髪は、子供特有の柔らかさと、ひんやりとした感触を手の平に伝えてくる。
 ちゃんとコートなどは身につけているようだが、それでもすっかり冷え切っているようで。
「ねぇ、お守りってどんなお守りなの?」
「色は藍色で、刺繍がしてあって……」
 つまりスタンダードなお守りなのだろう。
 これと言った特徴もない……けれど、この子には祖母の形見になる大切なもの。
 忘却の痛みから目を背けたくて、最近は人との接触は極力避けてきた。
 だからだろうか。
 とてつもなく久しぶりな気がする、こんなに純粋な真摯さに触れるのは。
 見つけてあげたい、とそう思う自分の心が不思議だったけれど、いやな感じではない。
「わかった」
 頷いて、リョーマは彼と共に探す振りをする。
 わざわざ地面に目を凝らさずとも、自分には彼の探しているものを見つけることが出来るから。
 それがどこにあったとしても。
 特徴はないものだから、リョーマは彼の気配を纏ったもので、祖母の形見と言うことを考慮し彼を案じる、もしくは守護するような念を込められたものを目当てに失せ物を探す魔法を使う。
 この神社の境内にはない。
 街全体に魔力を拡散させて……見つける。
 歩いて探して回るのであれば、とてもじゃないが大人でも見つけ切れなかったかもしれないけれど、魔法を使えば容易いことだ。
 道路の側溝に落ちていたそれをリョーマは手元に呼び寄せる。
 土埃のようなものでずいぶん汚れていたお守りに、ふっと息を吹きかけるとすっかり元通りになった。
 本当になんの変哲もない守り袋。
 けれど、子供がとても大事にしている気持ちが手の平に載せたそれから伝わってくる。
(…………いいな)
 沸きあがってきた心に、とうとう物にまで羨ましがるようになったのかと、リョーマは苦笑した。
 誰かに特別に大事にされる……そんな気持ちを味わうことができたなら……諦めたはずの願いが、今だ押し込めた胸の奥で燻っているのだと思い知らされる。
 放っておけばずぶずぶとはまり込んでしまいそうな気配に、気を取りなおして、地面に這い付く張るように探している子供に声をかけた。
「ねぇ、これじゃないの?」
 リョーマの言葉に彼は、ぱっと顔を上げて駆け寄ってくると、差し出した手元を覗き込んだ。
「どこに……あったんですか?」
「そこの燈明の影だよ」
 もちろんそれは嘘だが、真実を話すわけにも行かない。
「なんで……そんなところ、通ってないのに……」
「風で飛ばされたんじゃない。けっこう軽いからね」
 そう言って、リョーマは子供の手袋に包まれた手の平の守り袋を返してやった。
「ありがとうございます」
 嬉しそうにお守りを見つめていた彼は、ぺこんとやっぱり礼儀正しく頭を下げる。
 きっときちんと躾られているのだろうと、好感がさらに深まる。
「大事なものなんでしょ?」
 頷く彼にリョーマは笑いかける。
「ならもうなくしちゃダメだよ。大事なものなら」
「はい」
「うん、いい返事。じゃあ、お家に帰ろう。家族がきっと心配してるよ。家の近くまで送ってあげるから」
 もう少し、この子供と一緒に痛くて申し出た言葉に、彼は申し訳なさそうな顔をした。
「お兄さんは、帰らなくていいんですか?」
 自分より大きいとはいえ、どう見ても小学校を卒業するかしないかくらいにしか見えないらしいリョーマのことを心配しているらしい。
 これ以上煩わせて、リョーマの帰宅を遅らせるのが躊躇われるのだろう。
「俺のことは心配しなくてもいいよ」
「……でも」
「心配してる人とか、そういうのいないから」
「え?」
「一人なんだ、俺」
「ひとり?」
「そ。これまでも、これからさきも」
 子供相手に愚痴めいたことを言っている自覚はあったけれど、思わず口から零れ落ちた孤独。
 声からなにを感じ取ったのか、子供は自分が悲しいような表情を浮かべている。
「……寂しく、ないんですか……?」
「寂しい?……そうだな、あまり考えないようにしてる……考えたって仕方ないし」
 人間は、リョーマと同じ寿命を生きられない。
 唯一の方法を望んでくれる人はいなかった。
 こんなに長い時間生きてもいなかったのだから、これからの可能性など期待するだけ空しい。
 空疎な孤独を噛み締めたリョーマの手に、そっと触れる暖かくて小さな手。
「どうしたの?」
「お兄さんも一緒にうちに来ませんか?お父さんとお母さんとおじいさんに理由を話して、俺のお兄さんになればいいから」
 子供心に思いついた優しい提案に、リョーマは口元を綻ばせる。
 気持ちは嬉しいが、それは無理だ。
「それはできないよ」
 やんわりした口調で、きっぱりと気持ちを辞退すると、子供は『なんで』という顔をした。
 しかし口に出さない。
 基本的に気持ちを押し付けることは好まない……子供らしくない性格のようだった。
 彼はまた考えを巡らせるように俯いて。
「それなら俺がお兄さんについていくって言うのはどうですか?お兄さんが寂しくないように、俺がずっと一緒にいる」
 お守りを見つけたお礼のつもりか、子供はとても真剣な面持ちだ。
『ずっと一緒にいる』
 幼い子供の口から出たのは、リョーマがずっと望んでいた言葉。
 誰かに言って欲しいと、願っていた言葉。
 どんな気持ちからであれ、その言葉はリョーマの胸に温もりを落とした。
 それで充分だ。
「君はまだ小さいからダメ。君がいなくなったら、お父さんやお母さんが悲しむでしょ?大切な人を悲しませたらダメだよ」
 リョーマがその気になれば、この子の提案を叶えることは可能だ。
 この街の全てから子のこの痕跡を消して、家族や周辺の人々の記憶を操作して、連れ去ることは簡単なこと。
 けれど、そうはしたくない。
 どれほど真摯であっても子供の言葉を鵜呑みにするほど、浅慮ではないから。
 家族が悲しむ、と言う言葉には彼もぐっと詰まってしまう。
 祖母の形見を大事にしていることから、なかなかに家族想いのようではあるし、自分が幼いという自覚も無意識にだろうがあるようだ。
 それを言い聞かせて、リョーマはさらに言葉を継ぐ。
「お守りを探したお礼のつもりなら気にしなくてもいいよ。君はきちんと態度で伝えてくれたし、俺がしたくてやったことだから……気持ちだけはありがたく貰っとく」
 ぽんぽん、と軽く頭を叩いて、帰ろうと促す。
 これ以上遅くなったら、家族は本当に心配するだろう。
 もう警察への手配もしているかもしれない。
 そんなことを考えながら歩き出そうとしたリョーマのコートの袖を、子供はぎゅっと握って制した。
「今がダメなら、大きくなったらいいですか?」
「だから、お礼のつもりなら……」
「お礼じゃないです!俺、お兄さんのこと寂しくさせたくないと思ったから、自分で一緒にいたいと思ったから、だから!」
 駄々を捏ねるように言い募る。
 この子は存外頑固なようだ。
 まっすぐに自分に向けられる眼差し。
 心が揺らぐ。
 押し込めた願望が、暴れようとする。
 なんとかリョーマを説き伏せようと、言葉を考えている子供に、リョーマは、再び膝を折って視線を合わせた。
「わかった。十年経ったら、もう一度会いにくるよ。そのときもし君が俺のことも、今言ったことも覚えてたら、俺と一緒に来てほしい」
 それは彼を納得させるための妥協作。
 こんな幼い頃の、ほんのちょっとの時間の出来事など彼は忘れてしまうだろうと、見越して。
「本当ですか?」
「本当だよ。君が覚えてたらね」
「俺、絶対忘れません。約束は破っちゃいけないって、お母さんたちにも言われてます」
「そう」
 ようやく納得したのか、子供はリョーマの手に大人しく引かれて歩き出す。
 言葉はなかった。
 彼は小さな手で、リョーマの……手袋をはめていない手を暖めようとでもしているみたいに強く強く握り締めていたけれど……
 住宅街の一角に入り込んだとき。
「国光!!」
 若い女性の声。
 振り向くと、子供は、あ、と声を上げた。
「お母さん?」
 頭を上下させて頷く。
「いっぱい心配かけちゃったみたいだね」
 彼の母親は髪を乱れさせ、走り回ったのだろう、街灯の明かりに肩で呼吸しているのが目に映った。
「ちゃんと謝るんだよ」
「…………はい」
 名残惜しく思いながら、ひとまわり以上小さな手を離し、背中を押してやる。
 駆け寄ってくる母親。
 彼はちらりとリョーマを見上げ。
「約束」
 忘れないで、と視線で訴えるのに頷くと安心したように母親のもとに走って行く。
 おっとりとした雰囲気の綺麗なその人は、安堵の表情で息子を迎え抱き締めた。
 彼は必死になにかを言っている。
 たぶん、お守りを無くしたこと、それを探しに行ったことを話しているのだろう。
 若い母親は、顔を上げリョーマを見つけると、そっと頭を下げてきた。
 こちらに来ようとするのを身振りで止めて、リョーマも会釈し踵を返す。
 背中に、あの子供……国光と呼ばれていたから、それか名前なのだろう……の視線を感じながら、リョーマは来た道を戻った。
 繋いでいた手に、まだ温もりが残っている。
 暖かくない代わりに、冷たくもないと思っていた胸が、久しく感じなかったささやかな温もりに満たされていて、大通りのイルミネーションやそこを行き交う人々が見えてきても、寂しさは感じなかった。
 きっと忘れてしまう。
 果たされることのない約束。
 あの子を家に返さなければという一心で出た言葉だったけれど……本当はリョーマの願望が口を突いて出たのかもしれない。
 十年後に、あの子がリョーマのことを覚えている確率など限りなくゼロに近いのはわかっているのに。
 それを夢に見るくらいはいいだろうと、しばらくの眠りにつくことを決意する。
 途中、恋人同志の会話が耳には行ってきて、リョーマは足を止める。
「せっかくクリスマス・イブなんだよー。たまには雪くらい降ってくれたほうがロマンチックなのにー」
 雪。
 ちょっと子供らしくなかったけれど、あの子も喜ぶだろうか。
 今日はクリスマス・イブ。
 今までリョーマにはなんの意味もなかった日。
 だけど今日は、特別。
 心に温もりをくれたささやかな感謝。
 生まれてはじめての、クリスマス・プレゼントだ。
 目を閉じて、雪を請う。
 再び目を明けたときには、夜空からちらちらと雪片が舞い降り始めて。
 周囲の人たちが足を止め、見上げる。
 願わくば、あの子の記憶の中に、少しでも永く今日のことが刻まれていますように。
 白い息を吐き出しながら、少しだけ暖かくなった胸の内で、リョーマはそれだけを願っていた。


■

 十年後。
 三月も半ば、そろそろ桜がそこここで綻び始めている頃……東京に、季節はずれの雪が舞ったその翌日。
 米国から帰国したばかりの越前家に、一人の客人がやってきた。
「その子がおまえさんの息子かい?」
 いきなり連絡を寄越したかつての教え子と、その息子を前に竜崎スミレは、肩を竦めて問いかける。
「おう。四月から青学に通うことになってんだ。んで、テニス部に入部させるつもりだから、とりあえずあんたに挨拶させとこうと思ってな」
 よく言えば豪放磊落、悪く言えばずぼらで大雑把なかつての教え後……越前南次郎が、相変わらずなことに竜崎は嬉しいような、頭を抱えたいような気分を噛み締めながら、その傍らの少年に眼をやった。
 艶やかな黒髪。
 目の色素が少し薄いようなのは、母親がハーフだからだろうか。
 きゅっとつりあがった眦に、生意気そうな表情を浮かべた……けれど顔は美少女と言っても通用する……小柄な少年。
 黒猫のようだな、と言うのが竜崎の第一印象。
 しかし、南次郎の息子でテニスをやっていると言うのだから、少しばかり期待が持てる……面白いことになるかもしれないという、そんな予感を感じる。
「おらっ、バカ息子、挨拶しろ。こんなばーさんでも一応俺の恩師だからな」
 がしがしと乱暴に扱われて、むっとした表情を南次郎の息子は浮かべたが、むっとしたのはこちらも同じだ。
「なにすんだよ、バカ親父!」
「誰がばーさんだって、南次郎。いつからおまえさんは、そんなに偉くなったのかねぇ」
 ぎろりと二人から睨まれても、かつてサムライと呼ばれた教え子は、悪びれずに笑うだけ。
 息子の方は早々に見切りをつけて、竜崎に向き直り、軽く会釈をして見せる。
「初めまして。越前リョーマっス。ヨロシク」
 勝気そうな眼差しに、予感は現実になりそうで……どんなことをやらかしてくれるのかと、その期待に竜崎は笑って自己紹介をした。



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  • 2011/05/31 (火) 14:55

タグ:[誰がために雪は降る・完結済]

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