作品
1 緩やかな微熱
青春学園の図書室は、さすが私立だけ合って蔵書の数もさることながら、その広さも充分過ぎるものがあり『図書室』というより『図書館』というのが相応しい。
閲覧スペースは、大きな明り取りの窓の近くにあって快適だし、自習スペースもある。
なにより、他の特別教室のある棟の一角ではなく、全くの別棟として建てられているというのが自慢らしかった。
初夏の日差しが入ってくる室内。
カウンターの中でハードカバーの本を広げて、リョーマは放課後を過ごしていた。
『人間』として生活するようになって、早2ヶ月近い時が流れている。
そんな風に過ごすのはどれくらいぶりだろうか。
覚えてはいないけれど、久しぶりの『人間生活』は、リョーマに新鮮な気持ちをもたらした。
ちょうどこの春に青春台に越してきた夫婦の子供として、この学校に通っているのだが……
もちろん、それは魔法による暗示で、本当は越前夫妻には子供はいない。
だが仮初とはいえ家族のいる生活は面白かったし、リョーマが入部したテニス部の……特にレギュラー+αの面々は一筋縄では行かなくて、退屈とは無縁の時間を約束してくれる。
まるで止まっていた時間が動き出したかのような錯覚。
この2ヶ月近い時間は、リョーマがこれまで過ごしたどの時間よりも心を潤してくれていた。
それに…………
「越前」
一瞬手が止まったけれど、リョーマは慌てて顔を上げる。
名字に限らず名前を呼ばれるのには慣れていない。
名字は仮初のものだし、自分の名前を呼ぶ者などもはや遠いと言っていい記憶の向こうにしかいないから。
だから一瞬誰のことを呼んでいるのかと、思ってしまうのだ。
見上げた先で、リョーマのこと呼んだ声の主は呆れたような表情を浮かべていた。
「本を読みながら眠っていたのか?」
職務怠慢だぞ、と眼差しが語っている。
それに肩を竦めることで応えた。
「寝てないっスよ。集中してたから、反応遅れただけ」
まさか、自分が呼ばれたと思わなかったから、とは言えないのでそう誤魔化す。
「そうなのか?」
疑わしそうな視線に、いったいこの人は自分のことをどう思っているんだ……と思いながら軽く唇を尖らせた。
こんな風に表情が俄然豊かになったのは、ここへ来て人間の生活を始めてから。
それまでは、目の前の彼みたいに、仏頂面とまでは行かないが、表情の変化には乏しい方だった。
長い時間を生きている弊害というやつだ。
とにかくなにに対しても興味が薄くなってしまうと言う、どうしようもないもの。
それがどうだろう。
今まで浮かべたことのない……否、浮かべたことはあるかもしれないけれど、とうの昔に忘れてしまった表情を取り戻している。
自覚しているだけに、内心でリョーマは苦笑した。
「それで手塚部長。今日は返却?それとも貸出?」
「貸出の方だ。こちらを頼む」
そう言って差し出してきたのは、今月入ってきたばかりの新刊。
しかも洋書だ。
しかし、目の前の彼が洋書を好んで借りて行くのを知っているので、特に驚きはしない。
「今日の部活のメニューってなんスか?」
「……たしか、レギュラーは練習試合だと思ったが」
「なにそれ、ずるいよ。俺がいないのに」
ぷっと頬を膨らませると手塚は、やれやれ……という表情を浮かべた。
「仕方ないだろう。おまえは図書委員で、今日は当番なんだから」
「ちぇ」
ぶつぶつ言いながら手を動かし、貸出処理を終えた本を手塚に渡そうとして……彼が、あるものを見つめていることに気づく。
読みかけの本。
リョーマの視線に気付いたのか、手塚は居心地が悪そうに、自分が借りる本を受け取った。
「おまえが読書好き、と言うのは意外だな」
「失礼っスね。本を読むのは好きですよ」
何せ、諦めるということにすら飽いてからというもの、起きているより眠っていることの方が多くなったリョーマにとって、眠っている間に出版された本を読むのは暇潰しとして最適だったから。
「そうか……越前」
「なんスか?」
「その……傷の具合は、もうすっかりいいのか?」
問いかけにリョーマは驚く。
「あんた、目、ちゃんと見えてる?俺もう眼帯してないでしょ?平気っスよ。すっかり良くなりました……一応、心配してくれての発言だと思うんで、ありがとうございますって言っときますけど」
生意気な物言い。
それを特に咎めようとはせずに、手塚は『ならいい』と言って、図書室を出ていった。
おそらくこれから部活に向かうのだろう。
リョーマは預かった図書カードを仕舞おうとして……そこに書かれた名前にそっと指を這わせた。
『手塚国光』
あのときの子供が、たった十年であんなに大きくなったことに、唇が弧を描く。
彼に会うために、リョーマは再びこの街を訪れ、『人間』としての生活をしているのだ。
彼が中等部を卒業するまでの、ほんの一年間。
案の定彼は『約束』を覚えてはいなかった。
リョーマとて、覚えているわけがないとわかってはいた。
覚えているにしたって、十年経っても姿に変化のない自分をあのときの少年と同一人物だとは思うまい。
夜のヴェールに隠されて、夜目の利かない人間の子供には、ちゃんとリョーマの顔を認識できていたかも怪しいのだし。
『ずっと一緒にいる』
そうとは知らず、自分が最も欲していた言葉を、頑ななまでに約束してくれた幼い手塚。
胸に落ちた僅かな失望は、リョーマの感傷なのだ。
覚えていないのなら、覚えていないのでかまわない。
失望よりも、嬉しい気持ちの方が大きかった。
また、彼と会えて。
彼はちっとも変わっていない。
確かに身体も心も成長はしたようだけれど、真摯なところも、純粋に一途なところも。
根幹はあの頃のままで……リョーマには、それが嬉しかった。
覚えていなくてもいい、期限付きでもいい、もう一度あの瞳に会いたくて、ここにいる。
テニス部に入ったのも、彼を近くで見ていたかったから。
もともと身体能力に優れている人外の身体だ。
魔法によって人の域を逸脱しない程度に抑えてはいるが、人間の楽しんでいるスポーツをこなすには問題ない。
幸いなことに、南次郎が元テニスプレーヤーだったので、青学に入学するまでの間に南次郎本人はそうとは知らずに指南してもらった。
さらに幸いだったのは、レギュラーになれたこと。
これで手塚にもっと近付けると思った。
わざわざ思い出させるつもりはない。
忘れているものを揺り起こすより、今の彼を見ていたいと思うから。
この気持ちをなんというのか、リョーマは知らない。
あたたかく心を満たす初めて得たそれを、ただ大事にしたい。
そのためには……
もう少し慎重にならなくては、とも思う。
手塚が心配してくれた傷。
地区大会で負ってしまったそれは、人間だったら、失明にまで及んでいたかもしれない。
大量の血が流れて、一時は試合中断かと言う騒ぎにもなったが、実は竜崎の止血されてからほどなく塞がり始めてしまったのだ。
念の為病院に行ったときは、不信さを誤魔化すために無理やり塞がりかけていた傷口を開いて誤魔化した。
いくら人間であることを装っても、人間ではない。
手塚に再会出来た喜びに浮かれているばかりではいけないのだと、自分を戒めた。
(……でも、あの時も……)
みんなが心配してくれる気持ちは嬉しかった。
誰かの気持ちを嬉しいと思えることも嬉しかった。
自分にもまだそんな心があったのかと。
それ以上に嬉しかったのは、手塚がリョーマの意思を汲み取ってくれたこと。
青学でテニス部に入って、負けず嫌いな自分を知った。
今まで自分とは無縁だった『勝負』という世界。
負けたくなかった。
その気持ちを、手塚はわかってくれたのだ。
送り出してくれた瞳は今も脳裏に蘇る。
『勝て』と言っていた。
まっすぐな瞳。
そして非公式に試合を申し入れられたときも、彼の眼差しはただ直向で……
手塚は強かった。
抑えていたとはいえ、人間に負けてしまって。
あれはおそらく、テニスへ情熱の差なのだろうと思う。
『青学の柱になれ!』
その言葉が、胸に痛かった。
だってリョーマは一年後にはいなくなる。
なんの痕跡も残さずに消えるから。
彼の期待は嬉しかったけれど、決して応えられない。
(だって俺は、あんたに会いたくてここに来たのだから)
手塚のテニスへの真摯さが伺える言葉だからこそ、申し訳なさが沸きあがってきた。
リョーマにできるのは、手塚が夢を果たすための力となることだけ。
全国へ行く、その力に。
手塚のため。
そして、好意を持っている先輩たちにも、いい思い出をあげたい。
そこから自分は、消えてしまうとしても。
この一年は、それくらい意味のあるものだと……そう思うから。
これまでの時間、これからの時間。
永い永い刻。
至上のものになる、予感が、あった。
リョーマは、大切そうに手塚の図書カードをしまい、読みかけの本に手を伸ばした。
■
「今日は、越前君いないんだね」
いつものように部員たちを監視するように手塚が立っていると、隣に不二がやってきた。
優しげで、美少女のような面立ちをしていながら、なかなかに苛烈な性質を内に秘めた彼は、入部してきた途端レギュラーの座をもぎ取った一年生のことを気に入っている。
最もそれは不二に限ったことではなく、一癖も二癖もある面々は、みな彼のことを気に入っているようだけれど。
「あいつは、委員会の当番で今日は休みだ」
「なーんだ。残念」
試合できるかもと思ったんだけどな、と笑う不二から視線を逸らした。
「…………君ってさ」
「なんだ?」
「僕のことを放って置けないって言ってたわりには、そっけないよね」
「…………」
眉間の皺を深くすると、不二は可笑しそうに笑った。
「誰にも聞こえてないってば……それに、僕、気にしてないし」
そう言って、不二は遠くただ一点を見つめた。
その視線の先には、試合をしている河村の姿がある。
どこか憂いを含んだ眼差しは、手塚の胸をざわめかせたが、言葉にはならない。
「君が気になるのは、僕じゃないんだよ。それに早く気付いたほうがいい」
「……そんなことはない」
「そんなことあるよ」
淡々と言い切って、不二は一心に河村に視線を注いでいる。
ならばそれを見て、ざわめく心はなんだと言うのだ。
不二のこの視線に気付いたのは、いつの頃だったろう。
切なそうに、苦しそうに……そして寂しそうに、河村を見つめる不二の瞳に気付いたとき、手塚の胸に去来したもの。
放っておけない、と本当に思った。
これまで特定の誰かに、そんな感情を抱いたことはない。
だからそれを特別な感情として受け入れ、彼に告げて。
今のような関係に治まった。
『君の気持ちは君のもの。だから捨てろとは言わない。でも僕の気持ちは僕のものだ。君を友人以上には思えない』
不二の言葉に、それで構わないと頷いた。
恋人同士というわけではない。
手塚は不二の想いを知っていて、不二は手塚の想いを知っている。
それだけだけれど……心が一番近い場所にあるといってもいい。
奇妙で、微妙で、曖昧な……そんな関係。
「越前君いないと、なんか活気が足りないような気がするねぇ」
ふと不二が、そんなことを言った。
コートの中では、レギュラー同志の白熱した試合が続けられていて、活気に溢れすぎているような気がしないでもないのだが……
「そうか?」
「うん。英二とか桃なんて、なんか物足りなさそうにしてるじゃない。僕もあの子気に入ってるし」
物足りない?
小柄な姿がどこにも見えないことが?
いつのまにか見慣れていたそれが見当たらないことに、確かにそうかもしれないと思ったけれど。
君はそうじゃないの?
問い掛けられて、手塚はなんと答えるべきか言葉に窮する。
「まぁ、面白いやつだとは思う」
選んだのは無難な言葉。
「それだけ?」
「いけないか?」
「いけなくはないけど」
リョーマに関しては、聞かれても答えられないことの方が多いのだ。
非公式に試合をしたときも、大石に問い詰められて、確固たる言葉を返せなかった。
たとえば顧問の竜崎の強い薦めがあったにしろ、どうしてランキング戦に参加させたのか、とか。
怪我を推して試合に出させたのか、とか。
わかっているのは、初めて会ったとき、彼と交わした視線。
眼差しが手塚を射抜いたとき、既視感を覚えたこと。
青学に入学するちょっと前までアメリカにいたという彼と、出会ったことなどあるはずはないのだけれど。
彼の中の強さを感じ取ったということなのだろうと、今は思っている。
望むと望まざるとにかかわらず、手塚が本気を出せる機会は少ない。
彼はその数少ない機会をくれる相手だと直感したのだろう。
事実彼の試合は、見ていて楽しいという気持ちよりも、自分が反対側のコートに立ちたいという気持ちが強かった。
彼のテニスに欠けているものがあると気付けば、それをどうにかしたいと思った。
ライバルとなり得る存在が身近にいる。
一度だけした試合も、そのなにかが欠けた状態で充分手塚を楽しませてくれた。
それを言葉にするならば、『面白いやつ』ということになる。
「まぁ、それって君にしては気に入ってるってことだよね。君が図書室に行くのって、絶対越前君が当番のときだもんね」
「……そうか?」
「気付いてないの?自分のことまでそこまで鈍感なのは問題だと思うよ」
僕のほうがマシかなぁ、と溜息混じり。
呆れたような物言いに、手塚は不二の視線から逃れるように前を向く。
耳に彼の溜息が聞こえた。
そうなのだろうか。
本が好きで、図書室にはよく借りに行くけれど。
リョーマが当番と意識したことはない。
なかったはずだ。
そう思うのだけれど……
投げかけられた疑問は、胸の奥に落ちて、いつまでも波紋を広げ続けるような……そんな気がした。
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