作品
2 気付きたくなかった波紋
抑え気味ではあるものの、ラケットを振るいボールを追いかける姿に一部の隙もない。
真夏の太陽を遮る木陰から、その姿を見つめて、リョーマはほっと息をついた。
全国大会へ向けての夏合宿。
関東大会の一回戦ではどうなることかと思った、手塚の肩と肘。
なんとか復調しているようで、安堵の念を隠し切れない。
だって、あんなに無茶をしたのだ。
危うく再起不能になるところだった……見ていたリョーマの耳には聞こえた、骨が、筋が限界を越えて軋む音が。
試合を続ける手塚を止めなかったのは、彼自身が試合を続けたいと言う意志に満ち満ちていたからだ。
本当は止めたかった。
けれど、あの時……不動峰戦のときのことを思い出し。
彼がとても頑固であることを思い出して。
結果として勝てなかったけど、リョーマは……生まれて初めて、誰かを心から尊敬する気持ちを覚えた。
毅然として、諦めず……己を貫く、そのプライドに。
見ているほうは、とても胸が痛い想いを味わったけど。
見ているこちらの痛みに気付いていないわけではないだろう。
それでも己を貫くことを選んだ、尊大なワガママさには怒りも呆れも通り越して、尊敬するしか出来なかったといったほうが正しいかもしれない。
言えたことは一つだけ。
『負けるな』と、それだけ。
『俺は負けない』
自分にだけ聞こえたその言葉を、リョーマはなぜか誇らしく胸に刻みつけた。
本来なら病院に一瞬でも早く行った方がいいのに。
彼はそのまま自分の試合を見ていてくれた。
決して負けられない。
ますます叶えたい。
彼の、『全国』への願いを。
これは感謝の気持ちからなのかと、自問自答したこともある。
覚えていなくても、欲しかった言葉をくれた彼への。
答えは、否。
あのときの彼と一緒だ。
自分がそうしたいから……しているだけ。
幼かった彼と同じ気持ちで、動いているのだと思うと、くすぐったいような気もしたけれど。
医者に不審に思われない程度に、けれど決して彼がテニスを諦めなくてもいいように……こっそりと壊れかけていた肩と肘を癒したのは……心配した分、許されることだろうと言い聞かせて。
こんなに強く、誰かのために何かをしたいと思うのは、彼……手塚にだけだ。
まだ輪郭の見えない、初めての気持ちは、リョーマの中で日に日に育っていくばかり。
ここにいる間に……彼を見つめていられる間に、その答えは見つかるだろうか。
見つかって欲しいのと、見つかって欲しくないのと……半々の気持ちで、今は、彼がテニスをしているのを嬉しく思いながら眺めていた。
「越前」
名前を呼ばれることにもようやく慣れて、リョーマは顔を上げる。
そこには黄金ペアが二人して、こちらを心配そうに覗き込んでいる顔があった。
「大石先輩、菊丸先輩」
「大丈夫か、おちび?」
「具合はどうだ?」
間を置かずに聞いてくるのが可笑しくて、笑いながら大丈夫だと答える。
「本当に日射病とかじゃないんだよな?」
穏和な顔を難しくしながら、大石が言う。
「違いますよ。ほら、向こうの夏とこっちの夏って違うでしょ?湿度がこんなに高いのって慣れてないから……ちょっとばてちゃっただけっス」
この、人がいい先輩に嘘をつくのは心苦しいけれど、リョーマは納得しやすいような言い訳を口にした。
「そうか、ならいいけど」
「ほら、おちび、これ飲むといーよ」
差し出されたボトルは、とても冷えていて、リョーマはそれをありがたく受け取った。
練習中に木陰を陣取っているのには訳がある。
本来ヴァンパイアは、雨が降っているか、どんよりと曇った日以外太陽のある時間は外に出ることはできない。
その制約から解き放たれているリョーマだが、やっぱり日の出の光や、夏の強い陽射しはちょっと苦手なのだ。
人間で言うところの貧血に近いような状態になってしまうこともしばしば。
その苦手な夏の陽射しの下で、激しい運動をしたものだから、この体たらくだ。
(……カッコ悪い……)
突然コートにへたり込んでしまった自分をみんな心配してくれて、竜崎からは具合が良くなるまでは練習参加禁止を言い渡されてしまった。
けど、悪いことばかりじゃない。
ここまで運んでくれたのは、誰あろう手塚だったのだ。
おそらく部長としての義務感と、ちょうど打ち合っていた相手だからというのもあるだろうけれど。
あれほど近くに手塚の顔を見たのは、彼が幼い頃以来。
幼い頃から凛々しかった顔立ちは、成長して大人っぽさが加わり、ますます端正になっていた。
眼鏡の薄いレンズの向こうには、黒く澄んだ瞳。
あからさまにならないようにしながら、リョーマは子供の顔ではなく、大人の男に近付きつつある手塚の顔を間近に見ることができて、嬉しいような寂しいような心持を味わった。
そう言えば昔は手だって、リョーマの手の平で包み込んでしまえるほど小さくて、手袋越しにも柔らかそうなのがわかったのに、今では自分より一周り以上大きくて、骨ばった手に成長している。
すっかり育った彼は背だって高いし、声も高いものから硬質のテノールへと声変わり済み。
いつの間に目が悪くなったのか、眼鏡までかけていて、はじめはちょっとびっくりした。
内面は変わっていないけど、外見は随分成長した彼。
なのにちっとも変わらない自分。
それが少し切ないだけ。
「おちび?」
「大丈夫っスよ、菊丸先輩」
「もう少し、休んどくか?」
「そうするっス」
「そうか、無理するなよ」
ぽん、と頭を撫でてから、二人が練習に戻って行く。
あの二人。
たぶん、お互いを特別に好きあっているのだろうな……とリョーマは思う。
気持ちを伝え合っているかまでもわかんないけど。
もしそうなったら、あの二人は、ずっと一緒にいられるかもしれない。
だって、同じ年を重ねて行けるのだから。
タイムリミットまでは、まだ余裕があるけれど……自分はここからいなくなる。
そのことを少しだけ実感してしまった。
変わらない自分と、変わっていく手塚。
本当はもうすっかり具合はいいのだけれど。
ここからで構わないから、しばらく手塚を見ていたい。
この目に焼き付けておきたい。
だからもう少しだけ。
具合の悪い振りをしていようと、木の幹に背中を預けた。
■
話がある、と不二に呼び出されたのは合宿所の裏庭。
すでに消灯の時間は過ぎていて、部長としては気が咎めたけれど、不二の真剣さに結局折れた。
呼び出しておいて、なにも言わずに前を歩く彼に、とりあえず声をかけようとしたとき、まるでそれを計ったようにぴたりと足が止まる。
「越前君、もうすっかり具合良くなったようで良かったね」
ようやく発した言葉がそれで、手塚は眉間の皺を深くする。
「それが話したいことなのか?なら、俺は休ませてもらうぞ。明日も早いんだ」
「待ちなよ、手塚。君は心配しなかったわけ?」
「しないわけがない。部長として部員を心配するのは当然だ……だがレギュラーとして体調管理できていないのは、困る」
確かに今日の陽射しは強かった。
日本の夏は湿度が高く、それに慣れていないのは仕方ないと思う。
レギュラーとしてだらけた練習は許されないが、それと無理を押すことは違うのだ。
重要な試合ならいざ知らず、練習中のこと。
へたり込む前に、ブレーキをかけるのも大事だろう。
自分の体調を把握することも、必要なことだ。
納得できる理由を言えば、無理をさせるほど自分や竜崎だって鬼ではない。
しかもよりにもよって自分と打ち合いをしているときに。
目の前で、小柄な身体が崩れていくのを見せつけられた身になって欲しい。
「君ね……二言目には、『部長』『部長』って……そりゃ、大事な役職だって言うのは、僕にもわかってるよ。君は実際良くこなしてると思う。でも僕が聞いたのはそうじゃない、君個人の話だよ」
「俺、個人?」
「そう」
くるりと振り向いて、不二がキツイ眼差しを向けてくる。
月明かりに見上げてくる顔は、誤魔化すことも、目を背けることも許さないと告げていた。
「具合が悪い人間を心配するのは、やはり当然だろうな」
ごく常識的なことを口にしたのに、不二は気に入らないらしい。
「僕は、君個人のことだって言ったと思うけど?」
「ちゃんと俺の意見を言ったじゃないか」
「一般的な意見が聞きたかったわけじゃないよ」
「そんな話がしたかったのか?なら俺は本当にもう寝るぞ」
珍しく歯切れの悪い物言い。
核心を突かない会話は、疲れるだけだと判断した。
「手塚……僕はね、そろそろはっきりさせたほうがいいと思って、君と話がしたいと思ったんだ」
「はっきりさせる、だと?」
返しかけた踵を戻し、手塚は腕組して不二の話の続きを促す。
なぜかこのまま立ち去った方がいいと、直感じみたものが警鐘を鳴らしたけれど、その場に止まった。
「ねぇ、手塚……僕は、タカさんが好きだよ」
「知ってる」
「でも、タカさんは、自分が男の僕からそういう意味で好かれてるなんて、想像もしてない人だ。好意は持ってくれてると思うけど……だから、僕、この気持ちはずっと言わないでおこうと思ってた」
恋心を胸に秘めて、河村を見つめている不二。
そのことは誰より、手塚自身が一番良く知っている。
「言わないでいられるって思ってたんだけどね」
優しげな顔に、苦い笑みを浮かべて不二は満月を見上げた。
「最近自信がない」
「…………」
「だってさ……タカさん、高校入ったら、板前の修行を始めるから……テニスを止めるんだって」
それは手塚も聞いている。
技巧的には問題のある部分がないわけではないが、あれだけのパワーテニスを展開できる選手は少ないので、プレーヤーとして心からもったいないと思ったものだ。
だが、本人が決めた道であるならば、他人がとやかく言うことではない。
心にかけている不二の想い人という、手塚にしてみれば複雑な存在ではあるのだが、河村の人間性は認めていた。
「タカさん……テニス辞めちゃったら……僕たちの間には、接点がなくなっちゃう。昔同じ部活に所属してたっていう過去にしかない接点……夏が終わって、引退したら、本当にそれだけしかなくなっちゃうみたいに急に思えて……そしたら、このままでいいわけないって思ったんだ」
不安が不二にそう言わせているのだろうか。
彼の弱音めいた言葉を聞くのは、これが初めてで、手塚は戸惑う。
それなのに、月を見上げる不二の瞳には迷いも一転もない。
河村のこと見つめ、語り、考えているときの……切ないような、苦しいような……諦めたような、そんな光がなくて、じりじりと苛立ちが胸を灼いた。
「……言うのか?」
「いきなりは言わないよ……でも、少しずつでも、僕がタカさんを好きだと想う気持ちは伝えていきたい。最終的にはちゃんと伝えるつもりだけどね。彼は僕が言ったとしても、この気持ちを論ったりはしないと思うから。玉砕しても、タカさんの心に残れるなら、それでいいよ」
少女めいた外見に似合わず、不二は頑固だ。
それは不二に限ったことではなく、どうにも青学でレギュラーを座をもぎ取れるほどの実力を持つ人間は、一様に我が強く、それを譲ることをしない矜持の持ち主が多いのだが。
決めたというなら、その決意は覆すつもりはないのだろう。
「はっきりさせるというのは、そういうことなのか?」
手塚の気持ちは手塚のもの。
だから捨てろとは言えないけれど、あの時は容認した気持ちを、切り捨てろと。
今さら固辞すると、そういうことなのか。
「こういうときだけ、そんな怖い目で見るのはやめてくれる?」
「なに?」
「僕がはっきりさせようと思って、と言ったのは意味が二つある。一つは僕の気持ち、もう一つは君の気持ち」
「…………俺の気持ちなら、とうにはっきりしている」
そう言っても、不二は静かに首を横に振って否定した。
「違う……君の気持ちは、僕よりもずっと混沌としてるよ。君は僕を放っとけないとは言ったけど……好きだとは一度も言わなかったよね」
そうだったろうか?
けれど。
「おまえが特別だとは言ったはずだが?」
「それは聞いたよ……でも、君が特別だと思ったのは、本当に僕?」
「何を言って……」
寂しそうな眼差し。
諦めたように、河村へ想いを胸の内に秘めていた不二。
それに気付いて、見守るうちに気付いた心のざわめき。
そんな顔をさせてはいけないと思った。
放っておけないと、強く。
それはとても特別な感情ではないのか?
他の誰にも抱かなかった気持ちなのに、それを疑われるのは心外だった。
「昼間も言ったよね。そんなことを言ったわりには、君はものすごくそっけない。君が僕を好きでいてくれるとして……君の気持ちには、誰かを特別に好きになったときの、『熱』みたいなものが全然感じられなかった。特別だって、言ってくれたときですらね。だから僕は、きっぱりと拒絶したりしなかったんだ……僕も片想いだってことが、辛くてたまんない時期だったから。その点は、君のこと利用したみたいで、悪いことをしたって思ってる」
「…………」
「だってね、普通、好きな相手に、他に誰か想う相手がいたら、もっと苛々したりするものなんじゃないの?君が公平で、公私混同する人じゃないのはわかってるけど、僕だったら、こんな中途半端な関係で、タカさんに他に好きな人がいたら、絶対に耐えられない。どうにかして、僕の方に振り向かせようとするだろうね。まぁ、そこまではしないにしたって、もうちょっとはっきりさせたいって思うのが普通なんじゃないの?」
でも、君はそんなことしようともしなかった、と静かに続けられて手塚は言うべき言葉が見つからない。
「さっきも言ったけど、君からは情熱というか、激情というか……そういうのが一切感じられないんだもの。君は僕のことが特別なんじゃない。放っておけないと思ってるのも僕のことじゃない。ただ……勘違いしてるだけ」
不二はどこまでも真剣だ。
その真剣さが癇に障って、手塚は苛立つ。
それに気付いていないわけではないだろうに、彼は言葉を続けた。
「君は僕を放っとけないと言った」
「おまえにあんな顔をさせたくないと思ったんだ」
「あんな顔ってどんな?」
「…………寂しそうな、諦めたような顔。おまえは河村を見ているとき、いつもそんな顔をしていた」
「へぇ……自分では、わかんないけど、そんな顔してたんだ。ポーカーフェイスには自信があったんだけどな……まぁ、気付いてるのは君だけみたいだけど」
自分の心の行方を定めたせいか、不二の顔は晴れ晴れとしている。
こういうのを覚悟を決めた顔、というのだろうか。
河村のことを語るときよりも、手塚をはるかに苛立たせる、その表情が。
「放っておけない……そう言ったくせに、君は状況を改善するために動いたりもしなかった。冷静に、成り行きを見ていただけ……僕が辛さに耐えかねて、近付いたときは、黙って傍にいてくれたけど。そのまま掻っ攫うようなこともしないし……ますます僕は、確信したよ。君は……僕を好きなわけじゃない。過去に放っておけないと思った誰か、僕がしていたような表情をさせたくないと思った誰かがいて……たまたま僕が目に付いて、その『誰か』を投影させてただけなんじゃないの?」
「そんな相手はいないっ」
「そうかな?覚えていないだけなんじゃないの?」
「覚えていないだと?そんな相手なら忘れるはずがないだろう?」
「普通はね……でも、忘れてしまうことだってあるんじゃない?最近のことならともかく、小学校低学年の頃とか、それ以前のことなんて覚えてることのほうが少ないよ。大事な記憶が、いつでも一番上に仕舞われてるとは限らないんだし……」
それはそうかもしれないけれど、そんな幼い頃にそこまで思いつめることなどあるわけない。
反論しようとした手塚を、不二の静かな眼差しが制する。
「こういうのに大人も子供も関係ないよ。覚えていなくても、君にはそんな『誰か』がいたんだろうと、僕は思う。反面僕は、気持ちを胸にしまっておくのが苦しくて、それを分け合える誰かが欲しかった。もちろんその『誰か』はタカさんであって欲しかったけど……僕たちは、お互いが望む相手をお互いに投影していただけだ」
なぜそんなにはっきり言い切れる。
彼の気持ちはそうでも、どうして手塚の気持ちまで不二が計ろうとする。
「俺の気持ちを勝手に決め付けるな!」
募る苛立ちは、言葉となって溢れ……それなのに反論することが出来ない矛盾に、手塚は獣のように唸って目の前の華奢な身体を抱き締めた。
それは不二への気持ちが嘘ではないと……伝えるためではなく。
駄々っ子のように、そうしていないと、これまで頑なに信じてきたものが崩れそうだと思ったから。
その行動こそが、あたかも、彼の言葉を肯定しているようで、懊悩が手塚を襲う。
そっと不二の手が背中に回される。
抱き締める、と言うより……宥めると言う意味合いを込めたような手の動き。
ぽんぽん、と優しく叩く仕種に、彼の肩に額を押し付けた。
「そう言えば、こんな風に抱き合うのは初めてだね」
最初で最後になるだろうけど……とくぐもった声が言う。
「手塚……自分じゃ気付けなくても、第三者の目から見たらわかるってこともあるんだよ?」
「…………」
「思い込みに目隠しされないで……よく考えてみて……たとえば、どうして越前君のことを考えないようにしてるのか、とか」
「……さっきから……どうして越前のことばかり言うんだ……」
「わからないの?君は越前君に対してだけ、妙に感情的になるときがあるんだよ?彼が具合悪くしたときだって、一目散に駆け寄って行って抱き上げたじゃないか。言っとくけど、去年、僕が同じことになったとき、君は見てただけで、僕を運んでくれたのは英二と大石だったんだよ」
本当に放っておけない相手に、そんなことしないでしょう?
不二の苦笑が胸に痛かった。
彼の言うことは最もで……、一度も欲望を覚えたことのない身体を腕に抱いても、ただその温もりがもたらす違和感に途方にくれるばかり。
リョーマと初めて出会ったときに感じた既視感。
その『誰か』がリョーマだとでも、腕の中の彼は言うのだろうか。
青学に入学するまで、あったこともないのに?
されるがままの不二の身体をいっそう強く抱き締めて、今はまだ認めたくない気持ちに瞼を閉じた。
■
夏の夜は、特別。
特に満月の夜は、リョーマの中の魔性にある血をざわめかせる。
ヴァンパイアは『夜の一族』とも称されることがあるから、それはとても自然なことなのかもしれなかった。
目が冴えてとてもじゃないけれど眠れない。
与えられた部屋をこっそり抜け出して、リョーマは合宿所の外に出て、夜の散策をする。
夏の夜の『夜の気配』はとても濃密だ。
気取られないように、ことさら『人間』を装っているけれど、こんなときはどうしても誤魔化せないものがあるな、と妙に昂揚した気分で歩を進める。
レギュラーはもちろん一般の部員たちにも厳しい練習が課せられている合宿。
みな泥のように眠り込んでいるのか、リョーマが扉を開けても誰一人気付きはしなかった。
夜の気配と満月に当てられて、興奮している夜は、うかつに人間の傍にいるものではない。
人間の食べ物で充分栄養を賄えるため、人の血を糧とすることはほとんどないが、それでも……血を好まないわけではないのだ。
多少献血しても倒れそうにないのが、ごろごろしていて、うっかりとその気になっては困る。
(誰の血でもいいってわけでもないけどね)
興奮しているときは、あまりそういうことを考えないこともあるから。
万が一見咎められても、そのときは暗示で切り抜ければいい。
普段だったら、魔力を使うことはあまりしないようにしてるのに、そんな風に考えてしまうのはやはり常にはない昂揚感のせいだろう。
見上げた満月。
ふと思い出すのは、手塚のことだった。
誰の血でもいいわけではない……そう思ったとき、頭に浮かんだ顔。
(……そんなの無理に決まってる)
あの首筋に牙を立てたが最後、己の血を与え、手塚が覚えていないにもかかわらず、永遠の道連れにしてしまいそうだ。
それほどあの約束は、リョーマにとって甘美なものだから。
再び出会うまで十年。
眠りの中で……手塚はあの頃のまま……幼い彼だったけれど、約束を果たし、共にいる夢を見続けていた。
とても幸せな夢だった。
脳裏に描いていた夢の残像……幼かった手塚が、今の手塚へと変わっていく。
「絶対忘れないって、言ってたのにね」
寂しい微笑みが、リョーマの口元に浮かぶ。
覚えている確率のほうが低いと、十年前のあのときから、そう覚悟できていたじゃないか。
それでもいいと、思って再び彼の前に現れたのは自分。
動き始めた心は、今から別離と忘却を思うと、痛みを訴えるけど、それは……仕方のないことなのだ。
何度も繰り返した言葉を呪文のように小さく胸の内で呟いて……気付く。
人の気配だ。
自分とは違う理由だろうが寝つけなかったものがいるのだろうか。
裏庭の方。
足音を忍ばせる必要はないがなんとなくそうしてしまって。
建物の影からこっそり覗き込み……
リョーマは前身を支配していた興奮が一気に冷めるのを感じた。
まるで冷たい水を全身に浴びせたみたいに。
遠いけれど、リョーマの目にはそれが誰だかはっきりとわかった。
手塚と……彼に抱き締められている、不二。
「…………」
嘘、と我知らず唇が象った言葉は音声にはならなかった。
縋るように、不二の華奢な身体をきつく抱き締めている手塚の姿に、指先から見る見る体温が奪われていくような錯覚を覚える。
リョーマは咄嗟に踵を返して、その場から駆け去った。
見ていられなかった。
否、見ていたくなかった。
与えられた部屋のすぐ近くまで全力疾走で。
心臓が、ぎゅっと振り絞られるように痛い。
思わず抑えた胸に、リョーマは笑うしかなくてコンクリートに背中を預けた。
そしてそのままずるずると座り込む。
手塚は……不二のことが好きなのだろうか。
こんな時間にあんな風に抱き合っているのだから、恋人同志なのかもしれない。
普段そんな素振りは見せなかったし、どちらかと言うと不二は河村の方を見ていたような気がするから……
裏切られたような気分になってしまう自分をリョーマは笑う。
笑うしか、ないではないか。
いつまでも一緒にいられるわけではない。
期限付きの……一方的な再会。
わかっていたはずなのに……
約束を覚えているとは、思っていなかった。
覚えていて欲しいと思ってはいたけれど、それが自分の願望であることを誰より自分が一番わかってた。
でも……
彼が……手塚が、誰か他の人間を想っているなど、考えたこともなかったのだ。
そんなことあるわけないのに。
よしんば、今手塚が誰かを特別に好きだと思っていなくても……これから先の未来では、いくらでもあることなのだとも想像していなかったのだから、本当に笑うしかない。
自分のいない、いなくなる。
出来るとしても、見守るだけだ。
ここから立ち去った後の自分に許されているのは。
ただ、もう一度会いたいと想っていた瞳に、別の誰かが映る。
それは今まで感じたことのない激情をリョーマの中に呼び覚ます。
魔性の本能のまま、手塚の意志など関係なく、彼の『これから』を奪ってしまえと。
やっぱり自分は人間じゃない。
人間を装って、彼の近くにいたいと、ここに来たけど。
身の内に宿るのは、魔物なのだ。
そうでなきゃ、こんな利己的になれるわけがない。
「……忘れないって、言ったのにね……」
掠れた声の呟きと共に、ぽたりと膝に落ちたもの。
そのまま流れていく雫に、リョーマは首を傾げる。
それを見たのはどれくらいぶりだろう。
この目から、透明な雫が伝い落ちるのは。
もう見ることなんてないと思ってた。
けれど、乾きかけていた心は、潤いを与えられて再び動き出してしまったから……
リョーマは膝に額を押し当てる。
たぶんこれが、恋なのだろうと、初めて知った苦くて甘い痛みを噛み締める。
生まれて初めての恋。
第三者の目でなら、これまでいくつもの恋を見てきた。
けれど、自分が人でないと、もう随分早くから自覚していたリョーマは、己の中からその気持ちを遠ざけたのだ。
人と魔物の恋が成就することなど、砂漠に一粒の宝石を見つけるようなものだ。
種が違う。
在り方が違う。
なにより、過ごす時間の長さも速度も違う。
人間同志の恋ですら難しいのに……
きっと、あの日……一途に真摯に、向けられた眼差しに、自分はとっくに恋をしていたのだと、今さら悟って切なくなる。
変わっていく手塚、変わらない自分。
それでも、もう少しだけ、傍にいたい。
もう少しだけ、傍にいられるだけの心の強さを、リョーマは座り込んだままそこで願い続けた。
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