作品
3 定まった夢の行方
「ちぇ、ついてないの」
昇降口から、どんよりと雲が垂れ込める空を見上げてリョーマは呟いた。
新人戦も終わり、久しぶりに部活のない放課後。
帰りのHRが始まった頃に、降り始めた雨に、足止めされている。
学校生活は、相変わらず楽しい。
部活は、全国大会を終えた後三年生が引退してしまったせいで、物足りない部分もあるが、黄金ペアや乾などはわりと頻繁に顔を出しにくるので、やっぱり退屈とは無縁だった。
空疎で切ない、胸の軋みにさえ目を瞑れば、本来定めてあったタイムリミットまで、いい思い出を作れそうだった。
おそらくその思い出は、これから先もリョーマが生きていく永い時間に、こっそり取り出しては懐かしむ大事なものになるだろう。
そんなことを思いながら、ますます強くなる雨脚を確認して、溜息を付く。
越前家は、徒歩で青学に通えるくらいなのでそう離れてはいない。
走れば、十五分かかるか、かからないかくらい。
この雨ではずぶ濡れは必至だろう。
リョーマは雨に濡れるのが好きではない。
いっそのこと魔法を使おうかとも思ったが、ここにいる間は出来るだけ『人間』のように……と決めているから、それもしたくない。
己が魔物としても人間としても本来縛られているはずの制約から解き放たれていることを自覚したとき、決めたのだ。
ならばせめて、自分自身が課したものは、貫こうと。
そうしなければ、見失ってしまう気がしたから。
さてどうしたものかと、リョーマは空の様子を覗う。
こんなときに限って、堀尾たちはさっさと帰ってしまっているし、やっぱり濡れて行くしかないかと覚悟を決めたとき。
「越前」
その声に名前を呼ばれて、リョーマの心が震えた。
ここしばらく、聞いていない……誰より慕わしい、その声。
気付かれぬよう深呼吸して、だてに長生きはしていないポーカーフェイスを取り繕うと、背後を振りかえった。
「手塚部長」
そう呼ぶと、彼は呆れたような顔でこちらを見る。
「俺はもう部長じゃないぞ」
「そっか……じゃあ、手塚先輩、どうしたんスか?」
「それはこっちの台詞だ……傘を忘れたのか?」
「そうっスけど」
大丈夫。
普通に会話できる。
あの夏の夜。
偶然見てしまった光景が、また脳裏に蘇りそうになって、それを慌ててかき消した。
翌日注意深く二人の雰囲気を探ってみたが、やっぱり恋人同志というような感じではなくて。
結局確かめることの出来ないまま、今日まで来てしまったけれど、気付いてしまったものはもう誤魔化すことが出来ない。
自分の気持ちと。
不二と実際のところどうなのかはわからないけれど、手塚が誰かを特別に思う可能性。
だからなるべく、平静を装って。
密かに見つめ続けた。
それくらいは、許されるだろうと思ったから。
部活を引退して以来、面と向かって顔を会わせるのはこれが初めてで。
ちょっとだけ心配していたのだ。
動揺が、表に出てしまったらどうしようって。
少なくとも表面上は杞憂だった。
心の内は、ぎりぎりと締め付けられるように胸か痛かったのだけれど。
いずれ彼の中から消えてしまうとはいえ、彼の前では誰よりも『越前リョーマ』でいたいから。
「仕方ないやつだな。折り畳みだから小さいが、途中まで一緒に帰ろう。バス停から俺の家は近いから、バスに乗る前に貸してやる……明日にでも下駄箱に返しといてくれればいい」
「は?」
「濡れて帰りたくないから、ここでいつまでも足踏みしているんだろう?」
きょとんとしていると、手塚はてきぱきと鞄の中から折りたたみの傘を取り出す。
リョーマの返事も聞かずに。
呆然と見ていると、鞄から、何かかひらりと落ちてきた。
地面に落ちたそれには見覚えがあって、リョーマは慌てて拾う。
藍色のお守り袋。
あの時……幼い手塚が探していた大事なもの。
小さく笑って、リョーマはそれを手塚に差し出す。
「これ、落としたっスよ」
「あぁ、すまない。ありがとう」
手渡されたそれを大事そうに見つめる眼差しは、変わっていない。
「気をつけないと、またなくしちゃいますよ。大事なものなら、なくしちゃダメでしょ?」
「…………」
その台詞に、手塚はどこか驚いたような表情を浮かべる。
「なに?」
「…………いや。バスの時間もある、さっさと来い」
もはや断れない雰囲気でそう言われて、リョーマは彼の申し出を受けることにする。
雨に濡れないと言う点では在りがたいが、こんなに間近にいるのは戸惑って困るのに。
距離を置いて見つめるって決めた心が揺るぎそうになる。
そんな気持ちを抑えて。
一つ傘の下、並んで歩きながら……時折思い出したように会話をぽつぽつと交わす。
会話といっても、部活の先輩後輩の範囲を出ない一般的なものだ。
調子はどうだ、とか。
その程度のこと。
雨音に紛れて届く手塚の声は、低くてとても心地良かった。
「先輩、また、背、伸びました?」
「あぁ……そうみたいだな。ちゃんと計ったわけじゃないが、乾と前よりも視線の位置が近いから」
「ふーん」
「おまえは、ちっとも変わらんみたいだな。牛乳は飲んでるのか?」
「飲んでますよ。親父も三年になって急に伸びたって言ってたから、俺もそんな感じじゃないんスかね。テニスは身長でやるもんじゃないし」
誤魔化すための嘘を口に乗せるのももう慣れた。
今だ成長期の手塚と違い、リョーマの成長期は、もう何百年も前に止まったままだから。
心の中でそんなことを言い訳して。
「そうだな。おまえには、これからますますテニス部を盛り立てていってもらわないと困るぞ」
淡々とそう言われて、せっかく気を逸らすことが出来ていたのに、夏の夜から軋みつづけている胸の痛みが、こちらに気付けと自己主張をしてきた。
これから……
手塚は、そう言うけれど、彼が卒業するとともにリョーマはここから消える。
託されても……応えられるはずがない。
手塚が言うなら、その通りにしたいと思っても。
一年のうちはなんとかこの外見のまま変わらないのを誤魔化すことも出来るだろうが、二年・三年と『学校』という小さな世界にい続けるには今の外見年齢は不自然過ぎるのだ。
それに、青学の名前がますます全国に轟くようなことがなって、その立役者を演じるならば……さすがのリョーマにも完全に痕跡を消すことは難しくなる。
今は異例のルーキーとしての名前が先に立っているだけ。
全国へと勝ちあがって行ったメンバーは、個人個人で充分スタープレーヤーの素質を兼ね備えていたため、リョーマ一人への注目が集まることはなかった。
分散している分、人々の記憶から抹消しやすい。
ふと思った。
なにも手塚が卒業するまで待つ必要なんてない、ここらが潮時じゃないのかと。
これ以上ここにいたって、気持ちが募るだけだ。
想いが募った結果、手塚の意志を捻じ曲げてしまうかもしれない。
それだけはしたくないのだ。
本当は、僅かな期待があった。
ひょっとしたら、手塚が思い出してくれるのではないか……と。
でもそれもいいかげん諦めるべきなのかもしれない。
手塚の夢を果たす、その力の一端にはなれたではないか。
充分だと、思うべきだ。
まるで強迫観念に急かされたようにその思いが広がって行くのは、己の心を守ろうとする自己防衛の表れかもしれない。
それでも。
あと少しだけ。
もう少しだけと。
諦めの悪い心が、袖を引く。
痛みだけが待っているとわかっているのに。
「……先輩」
俯いたまま、足を止める。
バス停は、この角を曲がればすぐだ。
「なんだ、どうした?」
訝しそうな手塚の問いかけ。
……潮時なんだ。
いや、本当の潮時は、手塚が引退したときだったのかもしれない。
それをずるずると、その予定だったからと、タイムリミットを言い訳に、引っ張ってきただけ。
もう離れた方がいい。
まだ彼を見つめていたい。
その気持ちがせめぎあって……
決断を、しなければいけない。
「越前?」
「先輩って、不二先輩と付き合ってるんスか?」
単刀直入にきり込む。
別に質問に対する確固たる答えが欲しいわけではなかった。
リョーマに決断をさせてくれるだけの言葉。
自分を傷つけるとわかっていても。
一人では、いつまでも結論を出せそうにないから。
案の定手塚の表情が不快そうなものに変わる。
「夏合宿のとき寝つけないで外を散歩してたら、偶然見ちゃったんです。先輩たちが抱き合ってるとこ。あ、別に非難するとかそう言うんじゃないっスからね。俺、偏見はないつもりだから」
それがときどき気になって……と、誤魔化すのはすっかり慣れたはずなのに、しどろもどろに言い訳じみてしまうのは、心のどこかで聞きたくないと……思っているからだろうか。
強い視線を受け止めるのが辛くて、俯いてしまう。
耳に届いた答えは、そっけない一言。
「おまえには関係ない」
ああ、なんて、充分な言葉。
リョーマは、瞼を下ろしてその宣告を受けとめた。
「そっスよね。プライベートなんだから……すみませんでした」
決まった心が揺らがないうちに。
リョーマは、顔を上げて、不機嫌そうにこちら見下ろしている手塚に、小さく笑いかける。
それがそのときリョーマにできた、唯一の表情だった。
「先輩、バス、来ちゃってますよ……俺、やっぱり走って帰りますから……」
手塚がなにか言いたそうな表情をしたけれど、構わずリョーマは雨の中に駆け出して行く。
そのまま振りかえらない。
だって関係ないのだから。
手塚の『これから』に、自分という存在は関係ない。
いっそう激しくなった雨に打たれながら、リョーマは自分に言い聞かせるように、その言葉を繰り返した。
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