作品
4 誰がために雪は降る
この日しかない、とリョーマは心に決めていた。
もう少し……と願う心が、そうさせたのではいか、と誰かに追求されれば違うとは言い切れないけれど。
それでも、この日が相応しいと、そう思ったから。
惜しむように思い出のある場所を散策して。
今日、この日、全てに別れを告げる。
■
クリスマス・イブ。
時間が経つのは早いもので、もうそんな時期になっていた。
今年も、後少しで終わるのだと、カレンダーを見ながら手塚が考えていると、階下から少し早めの夕飯を告げる母の声がした。
「母さんだけですか?」
「えぇ。お父さんはお仕事で、おじいさんは道場の子供たちのクリスマスパーティーに出かけてますからね」
クリスマス・イブなのに……と普段おっとりしている母が、拗ねたような口調で言う。
「国光は明日大石君たちとお出かけするのでしょ?」
ご飯をよそいながら、明日の予定を確認してくる。
「はい。久しぶりに、引退したレギュラーで集まろうと言うことになりました」
「クリスマスですものね。じゃあ……うちでのケーキは、今日食べてしまいましょう。お父さんたちが帰ってきてから」
イベントごとがけっこう好きな母は、付き合いはするが乗りは悪い息子にもめげない。
甘いものが嫌い、と言うわけではないので素直に頷いた。
「レギュラーと言えばね、国光……あの、一年生でレギュラーになった子……越前君」
母の口から零れた名前に、手塚は内心激しく動揺する。
夏合宿で不二に指摘されてから、ことあるごとに意識するようになった存在だ。
最近不二は、あの夜の宣言通り、河村になにかとアプローチしているようで……ときどき一緒にいる二人を見かける。
手塚の目に映る彼らは、とてもいい雰囲気に見えたし、なにより不二の顔に自分の目を引きつけた寂しさの影はどこにもなくなっていた。
嬉しそうにしている彼を見ても、ああそうかと思うだけで、もう『放っておけない』とは思わなかったし、特別な感慨が沸くこともない。
求めるものを投影していただけ。
その言葉はきっと正しかったのだろう。
不二に指摘されたから、と言うのは癪だが、今一番気になっているのは誰かと言われればリョーマなのだ。
新人戦が終わった後の雨の日に会って以来、遠目に見かけるだけで言葉を交わしていない後輩。
どうにも意識的に避けられているようだと、不二たちには鈍いと言われている手塚でも気付いていた。
あの雨の日、最後に見た笑顔が忘れられなくて。
笑っているのに、手塚が不二に投影していた寂しさと切なさと、全てを諦めたような感情が伝わって来た。
自分の言葉に傷ついたのだとわかったのに、なにも言えなくて……
彼の問いになんと答えていいのかわからなかった。
不二を抱き締めていたことを他の誰でもなく彼に見られたことに苛立って。
また八つ当たりのような受け答えをしてしまったのだ。
あの日以来、なにかを言いあぐねている。
それがなんなのかわからないけれど、とにかく何かをリョーマに伝えなければと思っているのだが、言えないまま今日まで来てしまった。
「越前がどうかしましたか?」
なぜ、母の口からその名前が出て来たのだろう。
試合の結果などを教えるときに名前を出したことはあるが、会ったこともない後輩のことなど……
「昨日のことなのだけどね。お買い物でたくさん買いすぎて困ってたら、偶然通りかかった越前君が、荷物を持ってくれたの。小さくて、可愛い子ねぇ」
確かにリョーマは小柄で、勝気そうな顔立ちは、母から見ればまだまだ『可愛い』の域なのかもしれないけど。
「どうして、テニス部の後輩の越前だってわかったんですか?」
「だって、向こうから名乗ってくれたのよ。『テニス部の越前です。手塚先輩にはお世話になってます』って」
それはおかしい。
同級生のメンバーならいざ知らず、リョーマが手塚の母の顔を知っているわけがない。
それなのに、向こうから手塚の母を認識して名乗っただと?
「そうそう、それでね、越前君ってお兄さんとかいるのかしら?」
「え?」
いきなりなにを言い出すのだと、顔に出ていたのだろう。
母親は、困ったように微笑んだ。
「昔ね、越前君にそっくりな子を見たことがあるのよ」
「いえ……一人っ子だと聞いていますが」
「そうなの?」
「はい」
じゃあ、赤の他人かしら……と首を傾げる。
「国光、貴方覚えていないかしら、十年前のことよ」
十年前、と言う言葉に自分の中でなにかがどくんと大きく震えたような気がした。
まぁ、小さかったものね……そう言って母は言葉を続けた。
「ちょうどクリスマス・イブだったわね。貴方、おばあちゃんの形見のお守りをなくしたってこっそり家を抜け出したのよ。もうすぐ暗くなるって言うのに、貴方がいなくなってお母さんたち、すごく心配して探し回ったんですからね……真っ暗になっても貴方は見つからないし。でもね、今の越前君くらいの男の子で、顔もそっくりな子がわざわざ家の近くまで貴方を連れてきてくれたのよ。しかも、貴方がお守りを探すのを手伝ってくれたっていうのに……結局名前も聞けなかったし、お礼も言えなかったことが心に残っているからずっと覚えていたの。もし、越前君のお兄さんか誰かだったら、改めてあの時お礼を言いたいと思ってたんだけど……残念だわ」
どくん、どくんとまるで警鐘のように、頭の中鼓動が響く音がうるさいくらいで、母の言葉は途中からほとんど聞こえていない。
「そんなことが、あったんですか」
「あらやだ、本当に覚えてないの?まぁ、あの後、国光は風邪を引いてしまって、熱の高い日が何日か続いたから仕方ないかしら。年明けまで寝込んでいたものねぇ……じゃあ、覚えてないのね。そのときの『お兄さん』と貴方、なにか約束したって言ってたわよ。約束は絶対守るんだって、帰り道でお母さん、耳にたこが出切るかと思うほど聞かされたんだから」
約束。
絶対守ると……幼い自分がした約束。
『気をつけないと、またなくしちゃいますよ。大事なものは、なくしちゃダメでしょ』
最後に間近で接したときのリョーマの台詞が蘇る。
あの時、一際強く感じた既視感。
リョーマは確かに『またなくす』と言った。
小さい頃から持ち歩いていたお守りを一度はなくしたことなど、今母から言われるまで覚えていなかった自分に。
そして。
『ならもうなくしちゃダメだよ。大事なものなら』
そう言ったのは、いったい誰だったろう。
『一人なんだ、俺』
寂しそうにそう呟いたのは?
『そ。これまでも、これからさきも』
諦めと孤独が伝わってくる、その声の主は誰?
ページを捲るように朧げに蘇る、記憶。
暗くなり始めた道を、不安いっぱいの気持ちで歩いていた自分。
純粋に怖いと言う気持ちと、大事なお守りが見つからなかったらどうしようと言う気持ちをなんとか奮い立たせながら。
『探しもの?』
そうかけられた声が。
『どんなもの?俺も一緒に探してあげる』
どれだけ心強かったか。
怒涛のように溢れてくる記憶。
夕闇に、顔はよく見えない。
記憶の中の幼い自分が目を凝らすより先に。
『お礼じゃないです!俺、お兄さんのこと寂しくさせたくないと思ったから、自分で一緒にいたいと思ったから、たから!』
『わかった。十年経ったら、もう一度会いにくるよ。そのときもし君が俺のことも、今言ったことも覚えてたら、俺と一緒に来てほしい』
『本当ですか?』
『本当だよ。君が覚えてたらね』
『俺、絶対忘れません。約束は破っちゃいけないって、お母さんたちにも言われてます』
見上げた先に、見つけた顔は……リョーマのものになっていた。
「国光?」
どうしたのと、母が言うより先に、箸と茶碗を老いて手塚は立ち上がった。
「出かけてきます」
「えっ。外、雪が降り始めてるし、まだご飯途中じゃない」
「食事はまた後で食べるので取っておいてください。とにかく急用を思い出しました」
言うが早いか、自分の部屋に戻りコートを引っ掛けると、手塚は靴を履くのももどかしく、白い花弁が空から舞い落ちる外へと飛び出す。
焦り。
どうしようもない想いに駆り立てられるまま。
ただ、確かめなければ、と言う思いで……住所だけしか知らないリョーマの家を目指した。
■
結局最後に行きついたのはここだった。
リョーマは、唇の端に小さな笑みを浮かべて、あの頃からちっとも変っていない小さな神社の境内を見回す。
「ここも俺と同じだね」
時が止まったような錯覚に、自嘲気味にそう口にした。
ちらちらと雪が降っている。
十年前の今日と同じ、リョーマが魔法で降らせた雪だ。
違うのは……この雪には、ちょっとした仕掛けをしてあること。
その効果は、きっと少しずつ表れ始めているはず。
でも。
「あんたが俺を忘れるのは、一番最後だよ」
それくらいのワガママはいいだろう。
最後の瞬間まで、記憶の中に留めて欲しい。
ささやかな願いだ。
手塚と初めて出会ったのは、十年前の今日。
あの日を境に、止まっていたと思っていたリョーマの心は動き出した。
動き出した心は、忘れていた感情、生まれて初めての想いを得たけれど……しかし、それもまた、ゆっくりと止まっていくだろう。
永い永いとき……たった一人では、そうしないと生きていくのが苦しいから。
忘れられない、今日と言う日。
明日になって、この雪が止んだなら、この街に来てからリョーマかかかわった全ての人の記憶から自分は消える。
『越前リョーマ』として存在した痕跡は全て消して。
「けっこー、楽しかったよ」
仮初の家族がいた日々、学校という狭い世界で出会った人たち。
忘れられるのは切ないけれど、どうか彼らのこれからが『幸せ』でありますように。
自分は忘れない……とはリョーマには言えないけど。
出切るだけ長く、貴方たちと過ごした日々のことは覚えていたい。
上を向いて、自らが降らせた雪を受けとめた。
また眠りにつこう。
今度は百年くらい目覚めないのがいいだろうか。
その眠りの中で、祈るから。
(……手塚先輩……ううん、国光……あんたが幸せな生涯を過ごすことを)
やっぱり見守ることは出来そうにない。
だって自分が恋した瞳に映るのは、自分ではないから。
仕方ないこと。
呪文をまた繰り返そうとしたリョーマの耳に。
「越前!」
聞こえるはずのない声が聞こえた。
幻聴かと思う。
そこまで自分は往生際が悪かったのだろうか。
「越前」
しかしそれは幻聴などではなく、リョーマは恐る恐る後ろを振り向いた。
彼が、いた。
幻なんかじゃなく。
積もり始めた雪が足音を消していたのだ。
なぜこんなところにいるのか。
遠目にもわかるほど、肩で息をして。
リョーマは心の動揺を隠しながら、努めて平静を装った。
「先輩、コンバンワ。イブの夜に、なにやってるんですか?」
近付いてくる彼に、これまでと変わりなく声をかける。
「おまえこそ、なにをやってる」
「なにも、雪が降ってきたから散歩っスよ。ホワイトクリスマスは、東京じゃ珍しいって親父言ってたから」
「………………『親父』とは誰のことだ?」
「えっ?」
「さっきおまえの家に行ってきた……そしたらな、越前家には『リョーマ』という子供はいないと言われたよ」
なんで手塚が越前の家に行ったのだろう。
いや、それよりもこの場をなんとか誤魔化さないと。
「先輩、騙されたんじゃないんスか?親父、そう言う冗談よくやるっスからね」
「応対に出てくれたのは、若い女性だった」
奈々子さん。
南次郎の姪。
従姉として、まるで姉のようにリョーマに優しく接してくれた人。
越前家の人たちは、仮初の子供の記憶をすでに失ってしまったのか。
「家を間違えたのかと思って、住所を確かめるため、大石に電話をしてみた」
「…………」
「寝ぼけているのかと心配された。いったい誰のことだとな」
大石も……
覚悟はしていたけれど、やはり辛いものだ。
気を張っていないと、その辛さのあまり膝が崩れてしまいそうなほどに。
「どういうことだ?おまえはいったい……」
リョーマは観念した。
信じる信じないはともかく、どうせ朝になれば忘れてしまうのだから。
「……俺は俺だよ。リョーマって言うのは本当の名前。まぁ、あんまり、気にしないでよ……明日になれば、あんたも忘れてるんだから」
「なに?」
「忘れるんだよ、全部。俺って言う存在をね。この雪が、俺を知る全ての人の記憶から、俺と言う存在を覆い隠して消していくんだ。そういう魔法だから」
「…………魔法」
「そう。人じゃないから、そう言うこともできる。信じなくてもいいけどさ。どうせ忘れちゃうんだし」
できるだけそっけない物言いで言い捨てる。
さて、手塚はどんな反応をするだろう。
「……人じゃないというのなら……やっぱり、あれはおまえなのか?」
「!」
「十年前、ここで俺がお守りを捜すのを手伝ってくれたのは」
「…………」
「家にもいない、学校にもいない……おまえがあのときの『お兄さん』と同一人物なら、ここにいるかもしれないと思って、俺はここに来たんだ」
手塚はらしくもなく焦っているような雰囲気だった。
焦って、切羽詰ったように言葉を発している。
なんのために?
なんのせいで?
「…………そうだって言ったら、どうするの?」
「約束を……約束を果たしに来てくれたんだろう?なのになぜ、記憶を消していこうとするんだ」
思い出している。
完全にかどうかはわからないが、あの日、リョーマと交わした約束を。
けど、今さらどうしろと言うのだ。
何もかも諦める決意をせっかく固めたと言うのに。
「約束は……あんたが覚えてたらってことだったし……俺が青学に入学しても、あんたは気付かなかったでしょう?いつ思い出したか知らないけど、ちゃんと覚えていなかったんだから、無効だよ。律儀に守ることはない。まぁ、俺も久しぶりに人間の生活して、けっこう楽しかったからさ、それでチャラってことでどう?」
リョーマの言葉を彼は信じられないような顔で聞いている。
そうしてキツイ眼差しで睨んできた。
「そしておまえはまた一人になるのか?」
「そうだよ。ま、別に慣れてるしね」
「そうやって諦めるのか?」
その言い様に、リョーマもさすがにかっとなった。
なんで彼にそこまで責めるように言われなければならないのか。
「そうだよ!だって仕方ないじゃないか……俺は、ずっと……ずっと一人なんだから!」
搾り出すように叫んだのは、偽らざる本音であり、精一杯の強がり。
「俺が一緒にいると言った!あの時、そう約束した……約束は、絶対守る」
間髪入れずに手塚も怒鳴り返してくる。
「同情だったら、余計なお世話だよ。そんなの迷惑なだけだ」
「同情なんかじゃない!」
「じゃあ、約束を破る罪悪感?絶対忘れないとか言っといて、忘れたくせに!」
あぁ、こんなことが言いたいわけじゃない。
忘れたことを責めるつもりなんてなかった。
でも、もう引き返せはしない。
彼は忘れてしまうけれど、これから自分は彼に嫌われた記憶を引きずり続けなければならないとしても。
「しょせん、子供の戯言じゃないか」
「そんな風に言うな!」
悲しそうに叫ぶ手塚の声を、リョーマは耳のすぐ傍で聞いた。
それがどう言うことなのか、初めはわからなかったけれど……
「……忘れたのは、俺が悪かった。けど、そんな風に言わないでくれ……何とか思い出すことができたんだ……おまえのことを忘れさせないでくれ……」
囁きが耳に落ちて、ようやく抱き締められていることに気付く。
抵抗は、想像以上に強い力に封じ込められた。
「あの時……全てを諦めてるおまえに、なにかしてやりたかった。けど、俺は小さくて……あんなに小さな身体ではおまえを暖めることも出来なくて……約束することしか、出来なかったんだ」
言い募る、言葉が胸に痛い。
その言葉を受け入れたくて、胸が痛い。
「……不二先輩は?」
ぽつりと、問いかける。
夏の夜、見たくないのに見てしまった光景が脳裏に蘇って。
「不二とは別に付き合っていたわけじゃない……恋人同士ではないし、身体の関係はおろか、キスをしたこともない。おまえが見た光景が、最初で最後だ。これまで信じていたことを覆されて、ああでもしないと自分を保てなかった」
情けないことだ、と手塚は呟く。
「俺たちはある意味同志だった。互いが求める相手を互いに投影して……得られない、見つからない辛さから目を背けていたんだ」
信じるのか?とリョーマは自分に問い掛ける。
信じることができるなら、と彼に恋する自分が答えた。
「都合の言いことを言っているのはわかっている。けど、あの約束はいつも俺の奥底に息衝いていた。全てを諦めてる寂しい誰かのそばに、俺はずっといたいと願ってたんだ……ちょうどそんな顔で河村を見つめている不二を俺は、だから、放っとけないと思った」
「…………」
手塚は腕の力を緩め、そっと身を離し……リョーマの手を心臓のあたりに触れさせる。
「明日になれば俺はおまえのことを忘れる……それを思うと、とても……とても辛い」
約束を果たさせてくれ、と訴える眼差しは真摯で。
あの時と同じ。
本当は、このまま忘れさせたほうが彼のためだとわかっている。
なのに。
抱き締められた温もりをもっと、と求める自分が。
心の奥に再び押込めた密かな願いが暴れ出す。
「…………もう一度、約束しよ」
とうとう唇から零れ落ちてしまった言葉。
自分の一番正直な心。
「あの時は十年って言ったけど……よく考えたらあんたまだ義務教育中だもんね……だから」
俯いたままで、リョーマは言葉を紡ぐ。
「三年……あんたが高校を卒業するまで、猶予をあげる。そのときまでに考えてて。俺とずっと一緒にいるってことは……寿命ってものがなくなることだ。永すぎる命は、人間が考えるほど楽しいことじゃない……それをちゃんと考えて、それでも傍にいたいと思ってくれるなら、約束を忘れず、俺を愛してくれるなら……そのときは連れて行く。花の咲く季節に、あんたをさらいに来るよ」
返事は頬を包み込む両手。
そっと頤を掬われて……唇に感じる温もり。
確かめる間もなく腕の中にまた、抱き込まれてしまう。
「ありがとう、越前」
そう呼ばれて、リョーマはくすりと笑う。
「それは俺の名前じゃないよ……国光」
「……あぁ、そうだな……リョーマ……今度こそ忘れない。もう一度おまえと会える日……その日を待っている」
俺も待っている、とひっそり呟いて。
胸を満たす甘く優しい苦しさ……それが、幸福なのだとリョーマは知った。
そうして雪が止み、朝になった頃。
リョーマのここに存在していたと言う痕跡はなくなり、彼を知る人々の記憶からも消えていた。
ただ一人を除いて。
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