庭球小説

  • 戻る
  • 作品一覧
  • 作品検索
  • 管理者用

作品

序章 誘いの響き

 空は晴れていた。
 パステル調の優しい青は、この季節に相応しい。
 街のいたるところを彩るピンク色の花霞とあいまって、この世の全てが春を謳歌している……そんな気分にさせられてしまう。
 それはリョーマも例外ではなかった。
 この春から通う中学への入学式。
 物心ついて以来異国の地で過ごしてきた少年は、初めて実感する故郷の春を楽しみながら、学校までの道のりを歩いていた。
 真新しい詰襟の制服。
 着慣れない、ぎこちなささえもなんだか胸が躍って。
 らしくもなく早起きして、家を出た。
 早朝の街並みに人通りは少ない。
 それでもリョーマはそんなことは気にしなかった。
 引っ越してきたばかりだから周辺の地理にもまだ疎い。
 ついでに、探検と散策を兼ねるつもりだったので。
 周囲をきょろきょろ見回しながら、まだ通ったことのない道に足を踏み入れてみたりもした。
 ふと、リョーマの足が止まる。
 とても不自然に。
 なにかに驚いたように。
「…………鈴」
 唇から零れ落ちたのは独り言。
 変声期を迎えていないその声は、少女のものといっても通るほど高く澄んでいた。
「響こえる」
 呟きは自らへの問いかけのようだった。
 問い掛けることでその事実をうやむやにしてしまおうとでも言いたげな。
 それでも。
 その音をした。
 リョーマの内から。
 耳にではなく心に響く、鈴の音。
 鈴というよりは、教会の鐘の音に似ているかもしれない。
 けれど似ているだけで、かつて現実においては聴いたことのない音だった。
 荘厳で、清冽……
 しかしそれが響こえてきたのは、初めてのことではない。
 いつからか音は、リョーマの内にあり……波紋が広がるのと同じように心の中でだけ、その音色を響かせた。
 だってリョーマ以外には聞こえない音。
 父も、母も、同居をすることになった従姉もみな首を横に振って否定した。
 気のせいではないのか、と。
 気のせいではない、とリョーマが訴えても誰の耳にも心にもその音は響かない。
 音に敏感なはずの飼い猫さえ、リョーマの心にその音が響いても素知らぬ素振りで耳をぴくりとも動かさなかった。
 そうして悟った。
 この不可思議な、でもどこか懐かしい鈴の音は自分の心にだけ響いているものなのだと。
 だか、今日のこれは今までとは明らかに違う。
 かすかに、ともすれば気のせいと紛らすこともできるほど微かにしか届かなかったこれまでとは。
 音は、次第に大きくなる。
 リョーマの中で、いくつもいくつも音が共鳴しあって飽和する。
 意識に霞がかかったようだった。
 リョーマは確かに自分がここにいるという自覚があった。
 自覚はあったけれども、実感は薄れていくばかりなのだ。
 恐怖はない。
 むしろ自分が幽霊にでもなってしまったような感じがして、愉快だった。
(喚ばれている…………)
 確信。
 ずっとずっとそう思っていた。
 この鈴は自分を呼んでいる、と。
 誰が、何のために。
 そんなことはわからないし、どうでもいいとすら思った。
 ただ、呼ばれている。
 誰かが、自分を必要としている。
 そして自分も、その『誰か』を必要としている。
 たぶん。
 根拠なんてちっともなかったけれど。
 漠然として思いは願望に似ていたかもしれない。
 そうであったらよいのに……という。
 それが、今、この瞬間。
 ぼんやりと霞のかかったような状態にもかかわらず、雷鳴のように轟く実感となってリョーマの内に閃いた。
 呼んでいる。
 喚んでいる。
 鈴の音が幾重にも重なって、リョーマを誘う。
 何処とも知れぬ、その場所へと。
(…………応えたい)
 そう思った。
 そう求めたいと願った。
 自分でも、なぜそう思うのか、わからないのに。
 足は、自然と動いた。
 歩こうなどと考えてもいない。
 身体が意思に従うではなく。
 意思が身体に従っている。
 その違和感を、不快にも奇妙にも感じない自分。
 自らの内に響く音に誘われ、リョーマの足は止まることなく動いた。
 辿り着いた場所は……
 桜の森。
 そうとしか表現できない。
 前後左右、どこをみても満開の桜があるばかりの景色。
 自分の住んでる街にこんなところがあるなんて。
「これ……」
 呆然と零れた声に、自分が我に返ったことを悟ったけれど、そこから動こうとはしない。
 息を呑むほど美しい光景に目を奪われたこともある。
 それ以上に。
 鈴の音が止まない。
 今も響きつづけているのだ。
「ねぇ……どこから、俺を喚んでるの?」
 問い掛ける声に、答える者はいない。
 自分を喚んでいる誰か。
 その人のことを想うだけで、リョーマは胸が潰れそうな痛みを覚えた。
『誰か』に、どうしても会いたかった。
 そしてこの溢れてくる想いのわけがなんなのか、聞きたかった。
「……ねぇ」
 痛みを訴える場所と、鈴の音が木魂する場所は同じ。
 胸の真中を思わず抑えた手に、力がこもる。
(……応えてよ)
 切なさに唇を噛み締めたそのとき。
 桜の森を一陣の風が吹きぬけた。
 薄紅色の花弁が視界を覆い尽くすほどに舞い上がる。
 鈴の音が、一際強く澄んで響いた。
 瞬間。
 リョーマの足元から地面が消えた。
 それを理解したのは、思わず息を吸い込んだ瞬間に大量の水を飲み込んでしまったとき。
 水の中に落ちた。
 理解はしたけれど、身体のほうがそちらに追い着かない。
 いったい何故。
 どうして自分が水の中にいるのか?
 さっきまで桜の森にいたはずではなかったか?
 リョーマの身体が必死にもがく。
 酸素を求めて、腕を伸ばす。
 もともと泳ぐことはあまり得意ではない。
 あっという間に溺れてしまった。
 浮上さえも困難なほど、身体に水がまとわりついて……
 助けて……そう形作ろうとした唇から、ごぼごぼと空気が零れるばかり。
(……助けて……助けてよ……誰か……死んじゃう……死にたくないよぉっっ……)
 もはや苦しさも感じない。
 もがく力もなくなって、ゆらゆらと落ちていく身体。
 駄目だと思いたくない。
 諦めたくない。
 だってまだ、その人に出逢ってすらいないのに!!!
 最後の力を振り絞ってリョーマは手を伸ばす。
 自分を喚んだ、誰かに向かって。
 途切れそうになる意識の中、また、鈴の音が響こえた。
 沈んでいく一方だった身体が、突然何かに押し上げられる。
 水面に向かって。
 引力にしたがって、林檎が地表に落ちるように、リョーマの身体は浮上していく。
 頬に風を感じた。
 咳き込みながら飲み込んでしまった水を吐き出し、酸素を貪ったのは本能。
 リョーマの意識はいまだ、茫洋としていた。
 そうこうしているうちに、何かの意志が働いているかのように身体が波に運ばれていく。
 濡れた服の感触だけがリアルで、気持ち悪い。
 気付いたときには、頬の下には固い感触。
 うっすらと目を開けてみれば、上半身が岩に乗り上げているのがわかった。
 だが、もう起き上がる力なんて残ってない。
 身体はとてもだるくて、皮膚の下がなんだか熱いように感じて。
 目をこれ以上開けてなんていられなかった。
 考えることも億劫なリョーマの耳に、何かが聞こえた。
 人の声……かもしれない。
「手塚、こっちだよ!」
 男とも女ともいえない、とても中性的な……やっぱり確かに人の声。
 何かが空から舞い降りて、着地する音。
 近付いてくる、気配。
(……俺、助かるの?……)
 助けてくれるのか、と胸の内で問う。
「この子が『カゴメ』なのか?いったいなんだってこんなところで……しかも、ずいぶん変わった服を着ているぞ」
 穏やかな、これは明らかに男とわかる声。
 カゴメ……加護女。
 その男が口にした耳慣れない言葉が、リョーマの頭の中でそのように変換された。
「間違いないよ、大石。だって見て……」
「これは……天鈴!?どうして……星辰の間に安置されてるはずじゃなかったのか?」
「それは、たぶん……」
 中性的な声の主が何か言いかける。
 が……
「不二、大石、話はあとだ。とりあえず今は、こいつを宮城に連れて行く」
 硬質な声音が、それを中断した。
 感情の機微など殆ど感じられないけれど、耳に心地よく響くテノール。
 足音が近付いてきて、リョーマのすぐ傍で止まった。
 そうして、ぐいと強い力によって身体が浮かんだ。
 たぶん抱き上げられたのだろう。
 背中と膝の裏に温かく逞しい腕の感触を感じる。
 とても、安心できる……
 リョーマはそれが誰なのか、どうしても知りたくなった。
 その衝動のまま、強いて瞼を押し上げる。
 まだ霞む視界。
 飛び込んできたのは、見たこともないくらい大きな月。
 満月……なのだろうか。
 視線だけを動かして、リョーマは自分を抱く人物の顔を見つめた。
 逆光で、よくは見えなかったけど……今までリョーマが出逢った誰よりも整った顔をしている、青年……だった。
(……綺麗……)
 そう思ったのは、銀色の月光を投げかける月に対してか、この青年に対してか……混濁していく意識の中で、浮かんできた言葉はそれだけ。
 もっとちゃんと見たいと思っても、身体はリョーマの意思とかかわりなく視界を閉ざす。
 途切れそうになる意識の片隅。
 大きな手のひらが、仰け反ったままのリョーマの頭を広い胸にそっと凭せ掛けてくれたのを感じる。
 とくんとくんと伝わってくる、彼の鼓動。
 それに全てを委ねて意識を手放した瞬間に……リョーマは自分の中で、あの鈴の音が震えたのを感じていた……




                                 
続く

  • 2011/05/31 (火) 15:17

タグ:[比翼連理]

  • 前のページ
  • 次のページ

タグ一覧

  • 比翼連理 (83件)
  • 短編 (9件)
  • 誰がために雪は降る・完結済 (6件)

作品検索

検索フォーム
キーワード


Web Gallery / Designed by KURAGEYA / Graphics by Atelier Black/White