作品
一章 櫻霞月・壱
その国は、世界の芯といってもいい。
世界の中央に涛々と水を湛える広大無辺の湖・天海。
湖上の中心に浮かぶ大陸こそ、天領の国土。
世界と同じ字を冠することを許された国土を治めし者こそ、天帝によって世の理を調律せし役目を与えられたる北辰王。
天領国・央州には首都・春蓮。
花の都と誉れ高いその場所は、まさに春の盛り。
街を十字に渡る水路が交わるところには、その名の如く相応しい『芯』と名づけられた人工の湖。
街の五分の一ほどの大きさだろうか、それこそがまさに、世界の臍なのだ。
『芯』は春蓮に暮らす民の生命の綱。
そして……そのはるか上空には、独楽の形状をした浮遊城塞が、眼下に民の営みを見下ろしている。
その城塞は紫電宮、と呼ばれて久しい北辰王の居城。
上部はぐるりと高い塀に囲われて、その内に王が政務を執り行う太極殿、官吏の集う府庁(やくしょ)、王やその近親者の私的な空間である内宮、祭祀の場である星彩の塔などが配置された、いわゆる政の中枢と言えた。
季節は春。
桜の花が、ようよう散り始めた頃だ。
ちらりはらりと薄紅色の花弁が風にさらわれて、開け放たれた窓から房内に舞い込んできた。
太極殿は、北辰王の房。
執務室の隣に設えられた、王が休憩を取るための書室。
ひらひらと舞う花びらに、そっと手を伸ばして捕まえたのは、天女のように優しげな美貌の若い女だった。
藤色の莎麗を見事に着こなした彼女は、淡い青の瞳をそこに集った面々に向ける。
「間違いない。あの子は『加護女』だよ」
女性というにはやや低く、しかし男の声というのとも違う中性的な声音はきっぱりと言い切った。
「確かに『天鈴』は加護女以外のものには扱えない神器。加護女の腕以外に収まる場所はない。歴史を紐解いてみても例外はないからな」
頷いたのは、度のきつそうな分厚い眼鏡で表情がさっぱり読めない長身の男である。
「それが本当ならめでたいって喜ぶとこなんだろうけど……わからないことがたくさんある。その最たることは加護女となるべき人間がいるなら、どうして今まで『天鈴』は反応しなかったってことだ?」
そう切り出したのは、温和そうな顔立ちの男。
傍らにゆったりと腰掛けている主を気にしながらの問いかけのようだった。
「少なくともわかっているのは、彼女がこの国の人間ではないであろう、ということかな。少なくとも俺の知るどの国の人間でもないよ。あんな衣装は見たことないからな。もっとも書物にも載ってない、他者との一切の交流を絶った少数民族がいないともいえないけどね。加護女の選出基準は、人である身には理解できないな……不二?」
眼鏡の男が、女……不二に視線を向ける。
「いくら僕が法術師でも、それは専門外。推測しかできない。加護女が国籍を問われないのは、前例を見るまでもなく明らかだよ。何せ、先代様がいい例だろう?加護女を選ぶのは西王母といわれているけど、実際は北辰王の心次第だと僕は思ってる。でも……彼女の場合は、天が選んだと言い切るしかないかもね。少なくとも北辰王と一面識もない女の子が、加護女になった例はなかったはずだよ……ね、乾」
「史書に記されていることが偽りでない限りは」
乾は眼鏡を直しながら頷く。
「大石の言ったことも含めて、確かに彼女には疑問を抱かざるを得ない点が、山ほどあるけど……でも、『天鈴』がその腕にはまっている以上、彼女こそ『加護女』以外のなにものでもないってことは違えようのない、歴然たる事実だもの。……手塚、君、当事者なんだから少しは発言したらどうなの?」
心当たりは欠片もないのか、と詰問調で鋭い眼差しを投げかけてくる不二に、当事者といわれた手塚は頬杖をついていた腕を動かして膝の上で組みなおし、大儀そうに美貌の法術師の顔を見た。
「心当たりなどあるか……だか、不二のいうとおりあの娘が『加護女』であることは確かだろう。『七星剣』が『天鈴』に共鳴しているのを感じる」
「北辰王の『七星剣』、加護女の『天鈴』は互いの存在がそうであるように、対となる神器。沈黙していた『天鈴』が『加護女』の出現に反応した……それに『七星剣』が共鳴した、ということか?」
大石が、難しい顔をして首を捻っている。
この感覚は、普通の人間には理解し得ないものなのだろう。
納得しているようなのは、法術師として常人と異なる感覚を有している不二だけで、乾も興味深そうにこちらを見つめていた。
「言葉にすると、それが一番近い……と思う。説明するのが難しいんだが」
人ならざる力を、人の言葉にして表現するのは難しい。
そもそも人には当てはまらない、天から降された力なので当然かもしれないけれど。
確かに自分の力なのだが、どうやってそれを揮うのか?と問われても、そこに在るからとしか答えようがないのだ。
感覚的なものもそう。
手塚は『七星剣』の共鳴を感じる。
あの娘が、『加護女』であると確信している。
その理由を問われても、『そう感じるから』と答えるしかない。
かつて父……先代の北辰王が言っていた。
手塚の母は、その『加護女』であったが、彼女に出会ったときに『そうとしか感じられなかった』と。
かくして、母の身体には『刻印』が現れ、父の『加護女』となったのだ。
出会って、北辰王に確信が芽生え、刻印が現れて、『加護女』は『天鈴』を得る。
父の話、そしていくつもの文献から、漠然とそう思っていた。
北辰王と出会わなければ、加護女は加護女たり得ない。
が、自分はそうではなかった。
彼女を見つけたとき、既に彼女は『加護女』であった。
そもそも手塚は、自分には『加護女』は現れないとさえ、思っていたのだ。
普通、北辰王にはその名をついで遅くとも一年以内には、対の半身『加護女』を得ている。
手塚が父の死と共に『北辰王』の名を継いで六年。
その間、何人もの女性が、『加護女』候補として紫電宮にあがった。
ひょっとしたら、民間にあるのかも知れぬと思い、なけなしの時間を割いては騎獣を駆り国内はもとより、国外にまで足を伸ばしたこともある。
けれど、出会う誰もが手塚に確信をもたらさなかった。
確信どころか、心さえも動かすことはなかった。
それなのに。
(……いまさら)
そんな諦観にも似た心境が、手塚の中にある。
胸の奥、嵐の前触れにも似たざわめきを数日前から感じていた。
不二と大石を伴い、予兆に追い立てられるように向かった先で、彼女を見つけた。
天領国の辺境。
天海に面した岩場に、下半身を水に晒す少女を一目見て、芽生えたのは確信。
その腕に在る『天鈴』。
喜びに打ち震えるように共鳴する『七星剣』。
満月に近い月齢の、月の光を受け淡く銀色に輝いて見えた。
瞼を伏せた顔は、驚くほど幼く、頼りなげで……
だからこそ、なおさら思った。
何故、いまさら……と。
六年『加護女』なしで、自分はやってきた。
これからもそれでいいと思っていた。
なのに何故、いまさら……あんなに幼い少女でなければならないのか。
腕に抱き上げたその軽さ。
子猫でも抱き上げたような、錯覚……感嘆さえ覚えた。
小作りな顔は整っていて、濡れた髪が張り付いたのがなんだか切ない。
彼女の幼さが際立つようだったから。
簡単に腕の中に収まってしまう小さな身体に戸惑い、顔が見えないようにと仰のいたまま頭を胸に寄せた。
間違いない。
彼女こそ、自分の『加護女』。
共に世界の理を守る、かけがえのない半身。
そう思えてしまえた自分に覚えたわだかまりが、心に重く圧し掛かり、平素からさして変わることのない表情を陰鬱に彩っている。
「手塚、何溜息なんてついてるの?」
微かなそれを聞き咎めた不二が、容赦のない声音で声をかけてくる。
「別に……ただ、彼女、どう見ても十歳を越えたくらいだと思ってな」
「十歳だろうと、二十歳だろうと『加護女』は『加護女』だよ。選ばれてしまったんだから、腹を括りなよ。子供だからこそ……君があの子を守らなくて、誰が守るのさ」
「まあまあ、不二。手塚だって戸惑ってるんだよ。自分の半身だって言う存在が、十以上離れてるんだ。例えは悪いけど、まぁ、あらかじめ定められた許嫁だって紹介された娘が十歳だったら、俺だって戸惑うと思うし」
「その例えは、本当にどうかと思うぞ、大石。だが、不二の言うとおり、ここは手塚が腹を括らんことには。それに、北辰王と加護女の年齢が十近く離れている前例もないわけじゃない」
何とかいいほうに捉えようとしてくれる大石の意見は、ありがたかったが、不二の言うことも乾の言うことももっともなのだ。
それは手塚にだってわかっている。
「あの子は、子供で……しかもどこの誰とも知れない。でも『加護女』だ。民や世界はそれでいいかもしれないけど、納得したくないやつらだっている。先代様のこともあるから、なおさら面白くないって思うだろう厄介なやつらが……」
不二の言葉が、胸に刺さる。
手塚は自分の母が、決して全てに歓迎された『加護女』ではないことを目の当たりにしてきた。
自分が生まれた頃には、そんな声も表立ってはなくなっていたが、一部に不穏分子は残っていたことを手塚は知っている。
否、知らされたというべきか。
母の息子である自分にも、その風当たりはささやかながらやってきた。
母が常に毅然としていたように、手塚もそんなものに屈する子供ではなかったから、平然としていた。
不穏分子たちは、手塚が北辰王を継いだ途端手のひらを返すように、礼を尽くすようになったけれども内心ではそんなことはあるまい。
何処のものとも知れぬ子供が『加護女』と知れば、彼らは彼女を標的にしかねない危惧。
「俺たちはおまえやあの子を助けることはできるが、表に立ち断固とした意志を示せるのはおまえだけなんだぞ、手塚」
「わかってるさ、乾」
「なら、早急に『誓約の議』を執り行う調整をしようか?」
大石の提案に、手塚は首を横に振る。
「手塚!」
「彼女のことをいつまでも隠しおおせまい。なら、早いところ『加護女』としての立場をはっきりと示すのが得策と思うが」
たしかにそうだろう。
しかし手塚の心はいまだ揺れていた。
彼女は『加護女』だ。
それはもうどうしたって間違いない。
決めかねているのは、彼女の幼さ。
腕に抱いた……温かくやわらかい、小さな身体。
切なさを呼び起こす、衝動が……手塚に、決意を躊躇わせている。
「『加護女』として立つことは、もはや地上とは縁を切ることに等しい。母上が己が一族を裏切ったように、あの子は家族から切り離される。まだ、子供だ……せめて、素性を調べてからにしてやりたい。その上で、家族が見つかったならちゃんと別れを言わせてからでも構わないだろう」
連綿と続く血脈によってつながれている北辰王とは違い、『加護女』の多くは一代限り。
『加護女』を排出する貴族の家系がないわけではない。
が、それは不二の言葉を裏付けるように、北辰王と目通りする機会が庶民に比べればずっと多いから当然といえば当然なのだ。
貴族の娘であれば、『加護女』となっても家族との縁が切れるわけではない。
官吏でもそうだろう。
が、民間の出自であれば、紫電宮から殆ど出ない『加護女』とその家族が会うのは困難だ。
法に則っては許されているが、実際に家族が面会を申し出た例はない。
『加護女』自身が申し出ても、家族はそれを拒否する。
庶民にとって『北辰王』や『加護女』は天帝や西王母といった天上人と同列の存在なのだろう。
神と等しい存在は、もはや家族として扱うなど恐れ多いのかもしれない。
天領国の者でさえそうだ。
国交のある国もあるが、異国の出身であるなら、世界の芯たる大陸への隔たりは、心の問題だけではなくなる。
天海を渡りきるには、最速の幻獣をもってしても不眠不休で三日はかかるし、そこに至るまでも峻厳な峰峰や砂漠が横たわっているのだ。
心の距離以外にも、現実の距離が厳然として立ち塞がる。
あの少女が貴族や官吏の娘でないというならは、『加護女』になることはその時点で家族があろうとも、友がいようとも天涯孤独になるということなのだ。
この紫電宮のなかに、心通う存在を得るまでは。
ふとした瞬間、胸の内に蘇える幼く、頼りなげな顔。
心揺さ振るその表情が、哀しみに、寂しさに歪むのは見たくない。
手塚なりの優しさだった。
『加護女』となったものの境遇は、不二たちもわかっているはず。
それを持ち出されると何もいえないのだろう。
「……それは、そうだよな。あんな小さな子に、覚悟も何もなく家族と別れろって言うのはこくだもんな」
まず、大石が頷いた。
あの少女の姿を思い起こしたのだろう、その声音はしみじみと深い。
「素性を確かめる、というのは必要なことだな。こちらが何も知らないでは、いざというとき弱みになりかねない」
策略的なことを加味して、乾も頷く。
だが、不二は……
「素性、というものが本当にあるならね」
優しげな面立ちに、厳しい表情を浮かべながら言った。
口調も、驚くほど真摯だ。
「それは、どういうことだ。不二?」
残る二人の心を代弁したのは手塚。
「どういうって……言葉どおりの意味だよ。彼女がずっと……この世界のどこかにいたなら、今の今まで『加護女』が現れなかったことは本当におかしいことだ。彼女は『加護女』。今回に限っては、真実、天に選ばれたといってもいい……この世界にいたなら『天鈴』はとうの昔に反応して、六年もの歳月を無駄にしなかったはずだと、僕は思ってる」
「…………」
「これは、僕の推測だけどね……彼女は、突然現れたんじゃないかな。『加護女』になるべく、この世界の何処かからではなく、この世界じゃない何処かから」
「……それは、ありうることなのか?」
「ありえないことじゃない、なんて君がいうなら、僕は思い切り笑うよ、手塚。『天』が人の枠に当てはまらないことは、ほかならぬ君こそがよく知ってることだろう?」
挑むように見据えられて、手塚は黙った。
代わりに口を開いたのは、乾。
「仮にそうだとして、その根拠は?」
「根拠?さっきの推測だけじゃ納得してもらえない?」
「いや、可能性としてはないとは言えないと、俺も思う。でも、不二は可能性だけで安易にそういうことを口に出したりする可愛げなんてないだろう?」
視線を交し合う不二と乾。
眉間に深く皺を刻む手塚。
一瞬凍りつきかけた空気に、大石がおろおろと三人の顔を見比べる。
「一応、誉めてもらったと仮定して話を進めるけど……なんていうのかな、あの子自身の気配……とても、不思議な気配がしたんだよ。今まで感じたことのない、世界そのものに馴染んでいないような……そんな感じ。曖昧な表現だけど、確かに感じた。誰かさんも冷静になってれば、感じたと思うけど、あの子があまりに子供だったんでその戸惑いに目隠しされて、それどころじゃなかったみたいだしね。手塚が彼女に触った途端、その不思議な気配は消えてしまったから、今ではもう感じない……」
言い終わるか終わらないかというところで、手塚ががたんと大きな音をさせて立ち上がった。
不二も、顔色を変えているので、大石と乾は只事でないと直感する。
腰の『七星剣』に手を伸ばした手塚と、目を閉じた不二は二人して何かを探っているようだった。
「彼女が目を覚ました」
「彼女って、『加護女』?」
緊張した声で大石が問う。
「そうだ」
「でも……すごく気が乱れてるよ……これは、危険だ」
「彼女をどこに運んだ?」
存在を内密にするため、手塚は彼女の処遇は不二に任せていた。
「瑠璃宮だよ。英二がついてる」
「そうか、不二は俺と来てくれ。大石は念のため薬を用意してから来い。乾、諸官の内宮への立ち入りを禁じろ」
「官だけでなく、正位貴族の出入りも禁じたほうがいいな」
「ああ、頼む」
指示を言い終えた手塚は、不二を伴い本人も意識しない焦りを抱えて、書室を後にした。
続く
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