作品
一章 櫻霞月・弐
目を覚ますと、見知らぬ天井が視界を埋めた。
白い地色に、黒い格子状の木枠。
それが天井なのだと気付いたのは、目を開けてしばらくだってからだ。
それまでは、ぼんやりと目に映るものを見上げてていただけ。
現実だとか、夢だとかではなく、単純に現状が把握できていなかった。
「……ここ、どこ?」
わかっているのは、自分の知らない場所だということ。
「気が付いたにゃ?」
思わず洩らした疑問に、答える声がある。
ぎょっとしてそちらを見るより早く、上から覗き込まれた。
くるんとした大きな瞳が、リョーマを心配そうに見下ろしている。
淡い淡いブルーの瞳。
リョーマはその色に引き込まれそうになった。
「痛いところはない?」
こくりと頷く。
「寒気とかしない?大丈夫?」
また、頷くとその人物はにっこり微笑んだ。
整っている、といってもいい部類に入る顔立ちなのだが、綺麗というよりは愛嬌があるという表現がこの人には似合うように思えた。
視線を動かしてみれば、なだらかな線を描いている上半身が眼に入る。
女の人だった。
高校生くらいだろうか。
「おちびちゃん、名前は?」
女の人にしては、ちょっと声が低い。
しかし、人懐こい雰囲気はリョーマの中から警戒という言葉を消し去ってしまった。
あからさまな子ども扱いも、なんだか許せてしまう。
「越前、リョーマ。あんたは?」
「俺?俺は菊丸英二って言うにゃ」
男みたいな喋り方をする人だなぁ、とは思ったがリョーマは深く気にしなかった。
物心つくころからアメリカで育ったリョーマには日本人の、男言葉とか、女言葉とか言う概念がよくわかっていなかったので、特に違和感も感じない。
それよりも。
「男みたいな、名前だね」
「う?まぁ、『ハンヨウ』だからにゃ」
耳慣れない言葉は、『半陽』と頭の中で翻訳された。
意味まではわからなかったけれど。
「でも、それはおちびも一緒でしょ」
「?」
「まだ、ボーっとしてる?俺はとりあえずおちびが目覚めたことを知らせてくる」
ぎしっと音を立てて、彼女はベッドから腰を上げる。
なんだか不安がこみ上げて、リョーマは我知らず縋るように菊丸を見た。
「あの、菊丸……サン……」
「英二でいいよ、おちび。大丈夫、すぐ戻ってくるから。そうだ、おちびの元の服は乾かしてるから、起きれそうなら代わりの服を持ってくるけど」
「オネガイシマス」
「リョーカイ。それ、寝巻きだから俺が帰ってくるまで部屋の外には出るなよ?大人しく、待ってて」
素直に頷く自分をリョーマは借りてきた猫みたいだと思った。
もっとも、目の前のこの人の方がよっぽと猫のようだけれど。
リョーマの頭をよしよしと撫でてから、菊丸は衝立の向こうに消えた。
しばらくして、扉が開閉するらしい音が耳に届く。
菊丸の格好は、変わっていた。
見たことがないわけじゃない。
そう、あれはベトナムのアオザイに似ているのだと、思い至る。
以前連れて行ってもらったベトナム料理店のウェイトレスが着ていたのを思い出したのだ。
ウェイトレスが着ていたものは、長袖だったけれど、菊丸はノースリーブ。
ペールグリーンの上着と、同色のゆったりしたズボン。
腕には、天女の羽衣みたいに白い布をかけていた。
一見ガードが固く見えて、しかし身体の線がはっきりと出るアオザイはスタイルがよくないととても着こなせない。
レストランのウェイトレスはなんとなくぎこちなかったが、菊丸はとても自然で似合ってた。
そんなことを思いながら、リョーマはゆっくり身体を起こす。
ベッドの感触は、ふかふかで上質。
見回してみて、それがいわゆる天蓋付きの物であることを知る。
オーガンジーのような素材のカーテンは、隅で綺麗にまとめられいた。
ベッドサイドには、黒檀のサイドテーブル。
その向こうにはベッドスペースを区切るためだろうか、目隠しがわりなのかはわからなかったけれど、屏風のような衝立が立っている。
それも黒檀でできているようで、螺鈿で描かれた絵が細工してあった。
あまりそう言ったことに興味のないリョーマにも、それが価値のあるもののだということがわかる。
きょろきょろと見える範囲を見回して、中国風の部屋だなと漠然と思った。
アメリカにいたころ、チャイナタウンにいた友達の家が、こんな感じだった……とぼんやり思い出す。
もっとも、家具などの質はこちらの方が格段に上なのだが。
リョーマは自分の姿を見下ろす。
白い、浴衣のようなものを着ている。
ふと、胸に落ちた違和感。
ぽとりと落ちたそれが、じんわりと染み込んでくるような……嫌な感覚。
胸を掻き毟りたくなるような感覚から目を逸らして、リョーマは床に足を下ろす。
石造りの床は、磨かれていてぴかぴか光っている。
触れた場所からひんやりとした冷たさと同時に、なんだか温もりを感じるのが不思議だった。
立ち上がって裸足のまま歩く。
何かしていないと、胸に広がる染みに追い詰められるような気がするから。
衝立の脇から、覗くようにして見た部屋の中。
室内は、いくつかの衝立でスペースを区切られている。
籐製の長椅子と硝子のテーブルが置かれているのはリビングらしかったし、大きな円卓が置かれているのはダイニングスペースらしい。
この部屋は、ちょっとしたホテルのスイートルームのようだった。
リョーマにしてみれば、馴染んだ西洋的な雰囲気は一つもない、壁で仕切られていない空間。
でも、居心地は決して悪くない。
ひとしきり部屋の探検を終えたとき、リョーマの視界に光が一瞬映りこんだ。
それが気になって、そちらの方に足を向ける。
ベッドスペースから少し奥まったところにある一角。
籐で編まれた大き目のチェストと、衣類をかけるための衣桁、そして姿身の鏡が置かれている。
先ほどの光は、鏡に陽光が反射したもののようだった。
「……ウォーク・イン・クローゼット……みたいなもんかな」
リョーマはそこに足を踏み入れた。
そして鏡に映る自分を見た。
見て、しまった。
「何……これ……」
白い着物を着せられた自分。
目覚めるまではなかったはずのものが、そこにはあった。
スポーツをやっていたから発展途上とはいえそれなりに筋肉のついていた胸。
そう、ついていたのは筋肉のはずで……
平坦であった場所にあるのは、微かな膨らみ。
着物のせいだと、思いたい。
なだらかな稜線を描くそこに、リョーマは手をやった。
ふにゃん、とやわらかい感触を手のひらに伝えてくる。
触られた感触も、確かに自分自身に伝わってきた。
じっと見つめた手のひらに、呆然とする。
「どういう、こと?」
耳に届いた声は乾いていた。
我知らず、帯に手を伸ばす。
解かれた帯は、絹独特の音を立てて足元に落ちた。
はらりと肌蹴た前身ごろ。
女の子のように膨らんだ胸が視界に飛び込んでくる。
母親や従姉、それから菊丸みたいに豊かとは言いがたいけれど、はっきりと存在を主張する程度には存在感がある膨らみ。
いけない、駄目だ……そう頭が危険信号を発している。
でもリョーマの視線は、恐る恐る下半身へと移っていった。
着物の下は何も身に着けてはいない。
「………っっっっ」
驚愕は音声にならなかった。
引き攣れるように息を飲み込む。
「……ウソ」
現実が、急速にリョーマの心に這い上がってきた。
見慣れない部屋。
見知らぬ人。
自然と落ち着いていた心も。
今までは夢でも見ているような気分だった。
目の前の鏡に映った自分自身。
男だったはずだ。
昨日の晩、風呂に入ったときは確かに男だった。
まだまだ子供の骨格で、中性的な感じは否めなかったけど、生まれたときからつい昨日まで男だったのに。
目が覚めたら、女になってるなんて。
これが悪い夢でなくてなんだというのだろう。
なのにどうしようもなく現実だと、無意識に理解しているのがリョーマには耐えられなかった。
慌てて前を掻き合わせて、拾い上げた帯を夢中で締め直す。
「なんだよ……これ……どうして……どうなって……」
リョーマの動揺が伝わったかのように、周囲の空気が震えだし、衝立などががたがたと音をたてて揺れ始めた。
「嫌だよ……こんな……こんなの……わけわかんないっっ」
現実を拒否して瞼をぎゅっと閉じた途端、がしゃんと何かが壊れた。
音に驚いて開けた目に映ったのは割れた……というより砕けた鏡。
粉々に散ったそれは、しかしリョーマには傷一つつけはしなかった。
床には四方八方に飛び散っているのに。
家具の揺れが酷くなる。
リョーマの困惑は深くなるばかりで……
「もぉ、やだっっ」
誰にでもない……自分自身に叫んで、リョーマはそこから駆け去る。
途中衝立などにぶつかりながら、無我夢中で扉を開けて部屋の外に飛び出した。
建物の間取りなどさっぱりわからないのに、外を目指す。
一瞬だって、ここにいたくはなかった。
いくつかの扉を乱暴に開けて、とにかくここから逃げることだけを考える。
広い建物の中には、誰もいない。
それがことさらリョーマの不安を煽りたてた。
突如としてひらける景色。
眩しく降り注ぐ日差し、薄紅色の霞がそこにはあった。
薄紅色は桜。
はらはらと舞い落ちるのがその花びらと気付いたとき、リョーマは唐突に思い出す。
ずっと聞こえていた鈴の音のこと。
入学式の朝、その音に導かれ桜の森に足を踏み入れたこと。
突然、地面がなくなって、何でかわからないけど水に落ちて溺れたこと。
もう駄目だと思ったときに、身体が浮き上がり、いつのまにか助かっていたこと。
それから、人の声。
月の光と……抱き上げられた温もり、その人の顔。
「おちび!?」
その声にはっと我に返る。
振り向くと、渡り廊下になっているところに菊丸の姿が見えた。
人懐こそうな表情はなく、慌てているのと心配しているのの半々の感情がその顔に見て取れた。
後ろには菊丸以外の人影がいくつかあって……
リョーマは反射的にそこから駆け出してしまった。
「おちびっ……おちび、待ってよ!」
その声を振り切って逃げる。
怖かった。
何故だか無償に怖かった。
怖くて……走っていなければ、壊れてしまいそうだった。
自分というものが、なくなってしまいそうに思えて……
一生懸命走ったのに。
いつしかそこは行き止まり。
どちらを見ても桜の樹があるばかりで、道はない。
視界を埋める薄紅色の色彩に、リョーマの混乱と恐れは頂点に達しようとしていた。
空気が震える。
風が取り巻く。
何かが、爆発しようとしているのが、リョーマにはわかった。
「駄目……駄目だよっっ」
ぎゅう、と身を縮こませたそのとき……
耳元で鳥のはばたきが聞こえた。
瞬間、大きく身体に圧力がかかった……ような気がした。
が、すぐにその感覚は失せた。
かわりに全身から力が抜けて、へなへなとその場に座りこんでしまう。
途端に涙が溢れた。
意識してのことではない。
怖くて、怖くて、その感情が涙となって溢れてきたのだ。
「間に合ったみたいだね」
聞き覚えのあるような、やわらかい声。
「おちび、大丈夫か?」
菊丸の心配そうな声。
聞こえる都度に、リョーマは身体を震わせた。
背後に人の気配を感じて、身体が固まってしまう。
振り向くことができないリョーマの耳に……
「大丈夫か?」
感情の温もりを感じない硬質のテノールが響いた。
硬質な、その声は……しかしリョーマに落ち着きを取り戻させてくれた。
この声も、聞き覚えがある。
朦朧とする意識の中に聴いた、自分を助けてくれた人の中の一人。
目の前に影が落ちて……
リョーマはようやく顔を上げた。
自分を覗き込むその顔は、月灯りの逆光に見たその人。
明るい日差しの中で見た彼の顔は、やっぱりリョーマが今まで出会った人の中で、誰よりも綺麗だった。
細いフレームに薄いレンズの眼鏡。
理知的な印象を与えるそれの向こうに、闇を凝ったような黒い瞳があり、そこには自分の姿が映っている。
それは不思議な感動を心にもたらした。
名前も知らないその人は、手を伸ばし、リョーマの頬をそっと撫でる。
温もりに、新たな涙が零れ落ちた。
そう、これは……自分を抱き上げてくれた人と同じ温もり。
ここが何処か、とか。
自分がどうなってしまったのか、とか。
そういった不安が溶けていくようにすら思える、安心を与えてくれる人。
頬を慰撫していた手が、涙を拭い……
「落ち着いたか?」
覗きこむ眼差しに答えるように、小さく頷くと、彼はリョーマの身体を子供のように抱き上げた。
「……何?」
問い掛ける声が震える。
高くなった視界には、菊丸と、もう一人インドのサリーみたいな衣装を着た綺麗な女の人が映った。
二人とも、安心して、とでも言うように穏やかな表情を浮かべている。
「足を怪我している」
愛想など欠片も感じられない声で、男が言った。
ふと見下ろすと、確かに紅く血が滲んでいる箇所がいくつかあった。
たぶん、硝子の破片の上や地面を裸足で走ったからだろう。
声はぶっきらぼうだが、仕種や温度は驚くほど優しくて……
リョーマは手を伸ばした。
それから男の服をぎゅっと掴み、逞しい肩に顔を伏せる。
頑是無い幼子のように。
男が何も言わず、背中を叩き宥めてくれたのに、リョーマは自分の心に何かが溢れてくるのを感じていた。
続く
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