作品
一章 櫻霞月・参
男の腕に抱きかかえられ、リョーマはもといた部屋へと戻った。
その間、リョーマは彼にしがみついたまま。
だって離れたくなかったのだ。
布越しの温度は温かくて、優しくて、胸の内にある不安をかき消してくれるから。
だから、ベッドに下ろされて、男が離れていこうとする気配に、泣きそうになってしまった。
それを察したのか、男はリョーマに視線を合わせ、諭すように口を開いた。
「足を手当てしなくてはいけないだろう?大丈夫だ。おまえに危害を加えるものはいないし、俺たちにもそのつもりはない」
ぽん、と軽く頭に手をやってから男は服を掴んで離さないリョーマの手をそっと引き剥がす。
それがなんだか、苦しくて、顔を歪ませた。
「不二、菊丸、頼む」
男はそう言い置いて、衝立の向こうに行ってしまった。
何で行ってしまうのだろう。
心臓がぎりぎり痛んで仕方ないのはどうして?
治まったはずの涙が、また零れそうになったとき。
「大丈夫?傷が痛むのかな」
優しい声音に、リョーマは顔を上げた。
インドのサリーのような衣装を着た、美人。
歳は菊丸と同じくらいだろうか。
柔和な面立ちに、心配そうな表情を浮かべている。
この声には聞き覚えがあった。
自分を助けに来てくれた一人。
リョーマは床に膝を付き、下から覗き込んでくるその人に向かって首を小さく傾げる。
「ひょっとして、手塚が行っちゃったのが気になる?」
その声はどこまでも優しくて、リョーマを案じる気配が満ちていた。
手塚。
それが、彼の名前なのだろうか。
頷いていいものかわからなくて、その人の瞳をじっと見つめた。
淡いブルーの瞳。
そう言えば菊丸も同じ色をしていたっけ。
「手塚が行っちゃったのはね、足の手当てももちろんだけど、着替えに立ち会うわけにはいかないって思ったからだよ。だから気にしないで」
男同士なのになんで、と思ったけれど。
リョーマは思い出す。
なぜだかわからないけど、自分は今、女の身体になってしまっていることを。
不安がまた、ひたり……と心に這い寄ってきた。
「いろいろわからないことはあると思うけど、これからそれを一つずつ話していこう?僕たちが答えてあげられることもきっとあるだろうし、手塚も言ってたけど、僕たちは敵じゃないよ」
だから、そんなに不安がらないで……と彼女は言う。
気遣いが伝わってきて、これ以上警戒する必要もないように思えたので、リョーマは小さく頷いた。
「ありがとう」
微笑まれて、リョーマはどきっとする。
こんな美人に微笑まれたら、男女関係なくそうなってしまうだろう。
「不二―、水持ってきたよん」
「あぁ、ありがとう英二」
衝立の脇から姿を現した菊丸の手には、木製の桶。
それをサリーの美女……不二に手渡して、いそいそとリョーマの隣に腰掛けた。
「おちび、大丈夫?」
「……うん」
「泣いてたから、心配したにゃ。ごめん、俺がもっと気をつけてあげなきゃいけなかったのに」
しゅんとなった菊丸は、本当に落ち込んだ猫みたいで。
リョーマは目覚めてから初めて、口元に微かな笑みを昇らせた。
「ううん。菊丸さんが謝ることじゃないと思うし。あの……心配してくれて、アリガト」
「おちび……にゃー、かわいいーーー!!」
ぱっと表情を明るくさせた菊丸に、突然抱きしめられてリョーマは目を白黒させる。
やわらかく豊かな胸に顔が押し付けられる形となって、その感触に顔が赤くなった。
いくらアメリカ育ちのリョーマでも、母親以外の女性から抱きしめられた経験なんてない。
「俺のことは英二って呼んでってば」
すりすりと頬を摺り寄せられ、甘い花の香りが鼻腔をかすめるのがくすぐったくて仕方なかった。
「英二、この子真っ赤になってるじゃない。足を拭いてあげたいからちょっと離れなよ」
「はーい」
不承不承といった態で頷いた菊丸は、それでもリョーマのことを相当気に入ったのか、手を握ったまま離さない。
温かいのが安心したので、振り払ったりはしなかった。
「僕にも君の名前、教えてくれる?僕は不二周助だよ。僕のことも周助って呼んでね」
「越前リョーマ」
「リョーマくんか。よろしくね……さ、足を出して」
言われるままに足を出すと、不二が水に浸した布で、丁寧に足を拭ってくれ、破片が刺さっている傷には、ことさら優しく触れて硝子を取り除いてくれた。
水が傷に染みるたび身を強張らせると、傍らの菊丸が手を握る力をそっと強める。
見知らぬ場所、手塚から離れたことでどうしようもなく込み上げてくる不安にどうしていいのかわからない気持ちも、二人に優しくしてもらううちに、落ち着いていった。
少なくとも、この人たちに敵意や害意がないのは本当で。
むしろ家族みたいに親身に心配してくれるのが伝わってきて、嬉しかった。
「さて、これでよし……と。痛くなかった?」
「うん。ありがとう」
「あとで薬を塗ってもらおうね。僕たちの仲間には医者がいるから」
「そうそう。とーっても腕がいいから、すぐ治るにゃ」
菊丸の人懐こい笑顔と、不二の優しい笑顔。
応えるようにリョーマも小さく笑った。
「お次は、着る服を選ぶにゃ、おちび。大石たちも来るから寝巻きはまずいし」
「そうだね。今は女の子だし。手塚はともかく、他の男の前にこの格好はちょっと……」
今は、女の子。
不二の言葉が引っかかった。
「ねぇ……今はって言ったけど……」
「ん?」
「あの……俺、男だったはずなんだけど……目が覚めたら女になってて……びっくりして……」
「あぁ、だから混乱して、気を乱したんだね。変化したのは、これが初めてだったんだ。『半陽』であることに予兆なんてないから、びっくりするのは当たり前だものね」
得心がいったという表情で不二が頷く。
「まー、そりゃそうでしょ。俺だってはじめて変化したときは、言葉になんなかったもん」
菊丸も同意する。
半陽。
それはさっき菊丸もいってた言葉。
半陽だから、男みたいな名前なのだと。
そう言えば不二の名前も、どう考えたって男のものだ。
「ねぇ、不二さん……」
「周助」
「えと……周助が男の名前なのも『半陽』だから?」
訂正されて、少し躊躇いがちに名前を口にして、問い掛ける。
「そうだよ。『半陽』っていうのは、もともとは男なんだけど、思春期に差し掛かった辺りから、ある一定周期で女性化してしまう存在のことなんだ」
「じゃあ、周助も……英二も、男の人なの?」
まろやかな曲線を描く肢体をまじまじと見つめながら、リョーマは目を丸くした。
「一応、そういうことになるかな。でも『半陽』はそれが発覚した時点で男でも女でもなくなるから。性別は?って聞かれたら『半陽』っていうことになる」
「…………」
「おちび?」
「…………俺も、そうなの?」
恐る恐る聞いてみると、不二は穏やかな表情で頷いた。
悪夢のような現実。
そう認識していたのに、思ったよりもショックはなかった。
むしろ、ショックを受けない自分に、リョーマは驚いていた。
「あのね、リョーマくん。『半陽』の特徴は女性化するだけじゃないんだ。僕の瞳も、英二の瞳も淡い青だろう?それは『半陽』が女性化しているときの固有色なんだよ」
言って、胸元から小さな鏡を取り出し、リョーマに手渡した。
それを覗きこむと。
クォーターゆえ、微かに灰味の強い茶色だったはずの瞳が、不二や菊丸と同じ色をしていた。
(あぁ、だから……)
菊丸は、目覚めたリョーマに『それは、おちびも一緒でしょ』と言ったのだ。
「君の住んでいたところに『半陽』はいない?」
「いない……手術とかで性転換する人がいないわけじゃなかったけど、一定周期で性別が変わるなんて、そんなの……」
変だ、といいかけて口を噤む。
自分の常識ではありえないことだけど、そんな風に言うのはいけない気がしたから。
上目遣いに不二と菊丸を見ると、二人とも気にした風はない。
ただ、不二が少し思案するような表情を見せたのが気になったけれど、リョーマの視線に気づいたのかすぐに笑顔になった。
「そう。わからないことは、これからゆっくり教えてあげるよ。でもその前に着替えよう。そろそろ大石たちも来るころだからね」
「そだね。おちびはどれがいい?」
いつの間に、持ってきたのか……ベッドの上に広げられていた衣装に、リョーマは戸惑った。
菊丸や不二が着ているものと同じようなのだから、どれも女物なのだろう。
さすがに少し……かなり抵抗があった。
いくら身体が今は女の子とはいえ、リョーマの感覚では女装するようなものだからだ。
「……あまり派手じゃなくて、ぞろぞろしてなくて、動きやすいのがいい」
「うーん……となると、これなんてどうかにゃ。俺もおちび位の時に初めて変化したんだけど、遊びたい盛りでいっときもじっとしてなかったから、女物の服すぐ駄目にしちゃったんだよね。見兼ねた母さんが作ってくれたの」
そう言って菊丸が選んだのは、半袖のアオザイ。
丈も菊丸が着ているものよりもずっと短かったし、揃いのズボンも短くてハーフパンツのような具合だった。
色は淡くくすんだブルーグリーン。
「いいんじゃない。似合うと思うけど……リョーマくん、どうする?」
確かに悪くない。
これだったら、普段自分が好んで着ていたものと、そう変わらないと思うから……
「これにする」
「そっか。着方はわかるかにゃ?」
「多分」
「なら、わかんなかったら聞いてね。僕たちは席を外すけど、衝立の裏に控えてる。着替え終わったら声をかけて」
「うん」
不二と菊丸が衝立の向こうに姿を隠すのを見届けてから、リョーマは選んだ衣服を手にとった。
控えめに置かれていた下着は、多分女物なのだろう。
リョーマは顔をちょっと顰めたが、ハーフトップと、ちょっと変わったブリーフなのだと思い込んで、なんとか身につける。
まだ、女である自分を受け入れるなんて到底できない気持ちが確かにあるから、なるべく下を見ないようにして服を着た。
上着であるアオザイは、ちょうどヒップが隠れるくらい。
ズボンは膝丈で、リョーマが普段から穿いているハーフパンツと変わらないくらいだったので、実際に着てみるとちっとも違和感や嫌悪感は感じなかった。
アオザイは身体の線が如実に表れる衣服なので、微かだけれど確かに膨らんだ胸元に、少しだけ途方に暮れてしまったけれど。
「終わったよ」
衝立の向こうに声をかけると、菊丸がひょいっと顔を出した。
「かっわいい」
「うん。とてもよく似合ってるよ」
二人ともリョーマを上から下まで見下ろして、満足そうに頷き賛辞をくれる。
リョーマはなんとなく気恥ずかしくて、俯いてしまった。
「大石たちももう来てるみたいだし……手塚!リョーマくんの着替え終わったから、ちょっと来てよ」
あんまり優しいからふんわりした人かと思ったのに、手塚を呼びつける不二の声は案外厳しい。
自分に対する接し方とのギャップに驚かされた。
「何故、わざわざ俺を呼ぶ」
眉間に皺を刻みながら顔を出した手塚に、リョーマは胸が高鳴るのと同時に、軋むような痛みを覚える。
面倒くさそうな、迷惑そうな……そうだったらどうしよう、と思ったら。
「今の僕たちじゃ、この子を抱きかかえるのはさすがにきついからね。靴はまだ用意してないし、足も怪我してるんだよ。まさか君、それでも歩かせろ……なんていう気じゃないだろうね?」
きりリ、と睨みつけられて手塚が溜息をついた。
反論を許さない視線に諦めたのか、手塚はベッドに腰掛けたリョーマのもとにやってくる。
「ちゃんと掴まっていろ」
淡々と言って、手塚はいとも簡単にリョーマの身体を抱き上げる。
ここに連れてこられたときとは違う、いわゆるお姫様抱っこ。
浮遊感に、慌てて彼の首に腕を回した。
間近で見る綺麗な顔。
凝視なんて、とてもできなくてリョーマは顔を俯けた。
いつまでも触れていたい温もり。
伝える言葉を形にできなくて、ただしがみつく腕に力を込める。
「不安がらなくていい」
ぼそっと口に出された台詞は、危うく耳を通り過ぎてしまうところだった。
盗み見た表情は相変わらず固いけれど、そのささやかな言葉が嬉しい。
この気持ちはいったいなんだろう。
不思議な、見知らぬ気持ちが溢れてくるのはどうして?
「その子が、加護女か?」
ベッドを離れて連れてこられたのは、籐の長椅子が置かれた、おそらくはリビングスペース。
口調に全く抑揚が感じられない声に迎えられる。
そちらに顔を向けると、腕に木箱を持った温和そうな男と、分厚いレンズの眼鏡で表情がさっぱり読めない長身の男が立っていた。
「……本当に、ずいぶん幼い子供なんだな」
先ほどの声の主もこの男らしい。
感心している風情で、眼鏡の方の男が言ったのに、リョーマはむっとする。
自分は決して大人ではない、子供なのだと自覚はしているけれど、それをあからさまに指摘されるとむっとしてしまう、微妙な年頃なのだ。
「可愛くていーじゃん。こんなに可愛い子が加護女だなんて、手塚は果報者だと俺は思うね。文句なんて言ったら罰が当たるにゃ」
ねぇ、と後ろからついてきた菊丸が傍らの不二に同意を求める。
「その意見には賛成だね。嫌われる前に少しは愛想ってものを覚えたら?手塚」
「余計な世話だ。大石、足を診てやってくれ」
「了解。じゃあ、座らせてやってくれよ」
穏やかな声音。
朦朧とした意識の中で聞いた三つの声の、最後の一人。
(……この人もあの場所にいたんだ……)
じっと見つめてしまったリョーマに、指名を受けた彼……大石は、にっこりと微笑んだ。
その笑顔はこちらもにっこりしたくなる優しさを持っていた。
そのせいだろうか。
椅子に下ろされ、手塚が離れていっても、さっきよりは不安を感じなかった。
大石は持っていた木箱を床に下ろし、自分も膝をついた。
そしてリョーマを見上げる。
「初めまして。俺は大石秀一郎だよ」
「越前リョーマ、デス」
本日三度目の自己紹介。
「越前か。よろしくな。足、診せてもらうぞ」
どうやら、彼が菊丸たちの言っていた医者らしい。
医者にしてはずいぶん若いように思うが、手馴れた動作にリョーマは、疑うことはせず大人しく足を預けた。
「いくつか質問があるんだけど、構わないかな?」
問い掛けてきたのは、眼鏡の男。
「別にいいけど。俺の質問にも答えてくれるわけ?」
「それは、もちろん」
「じゃあ、あんたの名前は。俺はもう名乗ったよ。名乗りもしないでなにか聞こうなんて、失礼なんじゃないの」
ようやく、いつもの調子が戻ってきた。
目覚めてからはとにかく不安が前面に出ていたので、生来の勝気さはなりを潜めていたのだ。
「確かにそうだな。俺は乾貞治。そっちは……」
「手塚国光だ」
離れる寸前縋るような眼差しを向けてしまったためか、さして距離を置かず長椅子の傍らに立っていた手塚が矛先を向けられて名乗った。
心の中で、我知らず彼の名を繰り返す。
まるで宝物のように。
「これでよし。傷はそれほど深くないから、すぐに治るよ。念のため、化膿止めを塗っといた」
「ありがとうございました」
殊勝に礼を言ったリョーマに、大石はどういたしましてと笑った。
そこでリョーマは、改めて三人を見回す。
三人の格好は、どう見ても中国風。チャイナ服だ。
形状は微妙に違うし、丈の長さもそれぞれだけと、パオと呼ばれている上着。
チャイナタウンに住んでた華僑の友達に、家業が仕立て屋という子がいて、リョーマもパオを作ってもらったことがあるから、間違いない。
菊丸のアオザイ、不二のサリー。
この部屋の家具や造りに共通しているのは、東洋系。
オリエンタル趣向であるということだが、リョーマの知っているものとは微妙に雰囲気が異なっている気がする。
首を傾げたリョーマに、乾がそれを見計らっていたように声をかけた。
「じゃあ、始めようか。まず、越前、君の年齢は?」
「12歳。冬に13歳になる」
「なるほど、手塚とは九つ離れているわけだな」
ということは、手塚は今21歳。
(それにしては貫禄ありすぎるんじゃない?)
気難しそうな表情をしている彼に対する率直な感想。
もちろん、心の内で囁いたに過ぎないが。
「家族構成は?」
「親父と母さん。それから従姉の奈々子さんに猫のカルピン」
「カルピン?おちびの飼い猫?」
「そうだけど」
「変わった名前だにゃ」
そうだろうか、確かに初めて聞いた人は大抵妙な顔をするから、少し変わったネーミングなのかもしれない。
「確かに変わってるけど、猫の名前はとりあえず置いといて……越前、出身地は?住んでた場所はどこだ?」
「出身?生まれたところと国籍はアメリカだよ。この春日本に引っ越してきたんだ。住んでるのは東京」
「あめりか?にほん?どこだ、それは?」
首を傾げたのは大石。
「俺もそんな国名は聞いたことがないし、これまで読んだ書物にもそれらしい名前はなかったと記憶しているが……」
乾も眼鏡の位置を直しながら、思案げに呟く。
「それはどういう国なんだ?」
「どういうって……アメリカはアメリカだし、日本は日本だよ……」
要領を得ていないのは、リョーマにもわかっているが、そうとしか答えられなかった。
漠然とはわかっている。
でも、漠然としたものを、言葉にするのは苦手だった。
当のリョーマでさえそうなのだから、乾たちは顔を見合わせるばかり。
またぞろ不安がこみ上げてきて、リョーマは手塚の顔を恐る恐る見上げる。
すると手塚は、視線に気付いて、大きな手のひらで宥めるようにリョーマの頭を優しく叩いた。
それだけで、安堵する。
「ねぇ、リョーマくん」
「なに、周助」
宥められて安心したせいか、表情も声も強張ってはいない。
「きみはここが何処か、知っている?」
「……知らない。多分、俺の知っているどの場所でもないってことしかわからない」
「君のいたところに『半陽』はいない、と言ったね」
こくりと頷くと、不二は乾と視線を合わせた。
それからすぐにリョーマに向き直り、傍らに腰を下ろす。
「『北辰王』や『加護女』といってわかるかな?」
どのような字をあてはめるのか、頭の中でごく自然に翻訳は行われたが、その意味はわかろうはずがない。
「わかんない。それってなに?」
「『北辰王』は手塚のことで、『加護女』はきみのことだよ」
「?」
「北辰王と加護女は、天より、世界の理……つまり世界が均衡の取れた状態で存在するための枠組みを守るお役目を預けられた存在のこと。この二つは対の存在でもあるんだ。でも、手塚が北辰王に就いて6年……その間、彼の加護女足り得る存在は現れなかった。それが……数日前から、世界が震えるような予兆を僕は感じていた。手塚もだ。僕と手塚、そして大石は僕の占いによって顕れた場所を目指して……そして、天海のほとりで君を見つけたんだよ、リョーマくん。君は目覚める前、どこにいた?何をしていたの?」
天海のほとり、とは自分が溺れて、何者可の意志により辿り着いた場所のことだろうか。
少なくとも自分の住んでいた世界では、不二たちの言う『北辰王』だとか『加護女』だとかいう存在は荒唐無稽でしかない。
『天』が神だというのなら、リョーマはそれは人の心の中にしかいないものだと思っていた。
でも、この世界では、違うらしい。
もはやこの世界は自分が生まれ育った世界でないことをリョーマは本能で実感していた。
「……俺は……俺は、中学の入学式の朝で、珍しく早く目が覚めたから、学校に行きがてら散歩でもしようと思って家を出て……気付いたら桜がたくさん咲いている場所にいて、そしたら地面が消えて水の中に落ちたんだ。溺れそうになったんだけど……そしたら身体が自然と水面に浮かんで、波が俺の身体を運んだ。意識が朦朧としてたから、後は良く覚えてない……」
その朦朧とした意識の中で、手塚の姿を月明かりに見たことは言わなかった。
なんだか言うのが恥ずかしいような気がしたから。
「そう……溺れそうになった君を助けたのは、君自身の力だよ。『加護女』は万物の力を操ることができるから……」
「だから……だから『天鈴』は越前の腕にはまっていたのか。主となるべき人間を死なせないために」
「そういうこと」
大石の得心がいったというような呟きに、不二が頷くのをまるで他人事のように見つめる。
本能が納得してたって、リョーマの心はまだ現状の把握にすら追い着いていないのだ。
「『天鈴』ってなに?」
「おちびの左腕にはまってるやつのことだよ」
「左腕?」
リョーマはそこで、初めてその存在に気付く。
利き手の手首に、それはあった。
水晶で作られた鈴を連ねた腕輪。
五色の輝きを放つそれ。
こんなに目立つものが腕にはまっていたなんで、今の今まで気付きもしなかった。
「『天鈴』は『加護女』の一部といってもいいからね。例えば普段自分の身体の部位について意識することなんてあまりないだろう?それと同じことなんだよ。君にとっては『天鈴』をはめてることは自然なことなんだから」
「そう、なの?」
「そうだよ。そして『天鈴』をはめられるのは『加護女』しかいない。君はね、リョーマくん。おそらく加護女になるために元いた世界から、この世界……『天領』へと召喚されたんだ」
薄いブルーの眼差しは、とても真摯で。
嘘とか冗談とかは一切感じなくて。
リョーマは頷いた。
なにものかに喚ばれたのだろうことは、リョーマ自身がよくわかっている。
「俺ね……いつからかわかんないけど、ずっと響こえてた。鈴の音。ほかの誰もそんな音はしないっていうんだけど、俺には響こえた。誰かが、俺を喚んでるんだって……思ってた。あの朝も……それはきっとこの『天鈴』の音だったんだね」
『半陽』となったのも不二のいうとおりなら『加護女』になるためなのだろう。
リョーマはもともと男だから。
でも『加護女』はその字からして女でなければならないだろうから。
相応しい形へと、この世界に喚ばれたことにより、変わったのだろう。
不思議と、落ち着いている自分がいた。
喚ばれたからには、帰れないだろう。
それは誰に説明されるまでもなく、わかったことだし、既にリョーマはそのことを納得さえしていた。
なのに、この言葉が口から零れたのは……どうしようもないことなのだろう。
「俺、帰れないの?」
リョーマは、手塚を見上げ、そして不二を見上げる。
手塚の表情は変わらなかったけれど、不二は少し悲しそうな顔をした。
「うん。申し分けないことだけど、僕たちには君を還してあげられる力も術もない。それに君は、既にこの世界の人間として順応してしまっている。
その証拠に、君の『気』は既にこの世界に馴染んでいる。違和感がちっともないんだ。本来交わらない世界のもの同士なのに、言葉が通じているのもそういうことなんだろうね。ただ迷い込んだだけっていうなら、術さえあれば還すこともできるかもしれない。でも異世界の存在となってしまった君を、君の元の世界は受け入れないだろう」
期待をしたわけではない。
それができないことはわかってたし、リョーマ自身も望まない。
もう帰れるはずがない、という想いがある。
だって。
(……やっと出逢えた……)
それが全てだったから。
今、ここにいることこそが正しいのだと思いたかったから。
リョーマは手塚を見た。
視線が合う。
それだけで胸がぎゅっとなった。
「そっか……なら、仕方ないよね。気にしないでよ。聞いてみただけだから」
神妙な雰囲気になってしまったのを解きほぐすようにリョーマは明るく言った。
すると後ろから、菊丸が抱きついてくる。
「心配しなくてもだいじょーぶだからな、おちび。俺たちがついてるから」
そう言って、頬を摺り寄せる仕種が、なんだか嬉しかった。
「ありがと、英二。でも……俺『加護女』とか言われても良くわかんないし、この世界のことも良くわかんないんだけど……」
「『加護女』を引き受けてくれるのか、越前?」
心配そうに眉を寄せる大石に、リョーマは頷く。
「引き受けるもなにも、俺ってそうなんでしょ?」
「それはそうだが……いいのか?」
「だからいいも悪いもないって」
そう言って笑うと、大石はどこかほっとしたようだった。
「それにしても『半陽』であることはともかく、異世界の人間が『加護女』だなんて、前例がないな」
「そんなの俺のせいじゃないもん」
乾の言葉にも勝気に言い返した。
「それはそうだな。もともとが異世界の人間なら、こちらにしがらみもあるまい。『誓約の儀』は越前がこの世界に慣れるまで先延ばしにするにしても、『加護女』として立てる分には問題ないな」
「あぁ。こちらの戸籍も用意して……身寄りも後ろ盾もないなら、立場だけでもはっきりさせてやらないとかわいそうだし」
乾が提案すれば大石が頷く。
そのとおりに行くかと思いきや。
「待て、二人とも先走るな」
待ったをかけたのは今まで沈黙を守っていた手塚。
「異世界の人間だからこそ、慎重になる必要があるだろう。慌てて事を先行し、隙を見せることになった結果、間違いがおこっては元も子もない」
その言いざまが、そっけなくて、冷たくて。
リョーマは全身に通う血が、一瞬で凍りついてしまったかのような心地を味わう。
まるで自分を否定するような、拒絶するような……そんな風に感じて。
「手塚!そんな言い方ってないだろ」
隣にいた不二がリョーマの気配を察してか、厳しい声で詰った。
「本当のことだ」
「手塚!!!」
「まぁまぁ、不二。よく考えてみれば手塚の言うことも一理ある。しっかりとした基盤を作らないうちに、越前を表舞台に出すのは、越前を標的にしてください……とろくでもない輩に宣伝するようなものだ」
「それは……そうだけど」
乾のとりなしに、不二も不満そうではあるが頷く。
「しばらくの間は、越前の存在も公には伏せる。不二、菊丸、越前のことはおまえたちに任せる。いいな」
きっぱりと言い切って、手塚が退出しようとするのに、リョーマは堪らなくなった。
「どこ、行くの?」
思わず零れた問い。
彼と離れることがとても不安だから。
「執務が残っている。おまえのことはその二人に任せたから、わからないことや不自由なことがあったら頼るといい。大石、念のため越前の身体を診てやってくれ」
「わかった」
「行くぞ、乾」
迷うことなく踵を返した背中が、胸に痛い。
気遣うような不二の視線も、菊丸の温もりも慰めにならない。
(……好きでこの世界に来たんじゃないのに……)
後悔にも似た弱音はとても苦くて。
リョーマは願った。
お願いだから、拒絶しないで……と。
続く
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