作品
一章 櫻霞月・伍
北辰王の日々は多忙である。
世界の理という大きな枠組みに、歪みが生じていないか、綻びは芽生えていないかと常に監視し、それとは別に一国の王として政を治めていかねばならない。
暇という言葉とは縁がなく、『私』より『公』としての時間のほうが一日の大半を占めている。
だが、手塚はそれを負担に思ったことはない。
天より役目を戴いている以上、そして王としてある以上、当然の義務であると思っているし、それを日々こなすことに誇りも感じている。
『北辰王として相応しくあるよう』
幼いときより、それを求められた。
先代の北辰王であった父と、その加護女であった母。
二人の薫陶のおかげだろう、ともすれば重過ぎる重圧を自らの糧とし、臣にも恵まれてその責務を果たしている。
その両親が鬼籍の人となり、手塚が北辰王を継いで6年。
宮城の中では小さな波が絶えずあるものの、それでも世界は、民は平穏を享受していた。
これからも変わらないと思っていた日常。
それが、変化しようとしていることを手塚は認めざるを得ない。
あの小さな子供。
己の加護女の出現によって。
腕に抱き上げた感触がまだ残っている。
少しでも力を入れたら折れてしまいそうに華奢で、感嘆を覚えるほど軽い。
瞼を閉じた、頼りなげな顔が、焼きついて離れない。
なんとしても守ってやりたくて……
どう表したらいいのかわからない気持ちは、溜息となって手塚の唇から零れ落ちる。
執務中もともすればそんな感じに陥りかねず……正直途方に暮れていた。
「『心ここに在らず』だねぇ。そんなに心配なら、わざわざ僕に報告させないで会いに来ればいいじゃない」
唐突に聞こえた声に、手塚は驚いてそちらに顔を向ける。
立っていたのは、莎麗を纏った美女。
もっとも、黙って立っていればの話だけれど。
「不二……いつからそこに……」
「ついさっき。一応来訪は告げたけど、いつまで経っても返事がないんでね。勝手に入ってきた」
「……すまなかったな」
「別に謝ることはないよ。僕としては滅多に見られないものが見れて面白い限りさ。でも、官の前では慎んだ方がいいと思うね。さっきも、そこで『主上はどうなさったんだ』って噂してるやつらがいたし。官は目敏い。君がそんなんじゃ、あの子を隠しても意味ないだろ」
釘を刺されるまでもない。
そんなことは手塚が一番わかっている。
「不二の言う通りだぞ」
衝立の向こうから、分厚い紙の束を抱えて乾が顔を出した。
午後の執務で目を通さねばならない、諸官からの奏上やら、書類やらを執務机にどんと乗せる。
「どういうことだ、乾」
「どうもこうも……おまえが不二たちを連れてばたばたと越前を迎えに行くのを目撃した官やら、内宮に新たな住人が増えたのを敏感に感じている女官やらもいてな。宮城内では、越前の存在を噂する者も出てきている。まぁ、あの子が加護女とまでは察するものはいないようだか……必要な対処をする覚悟はそろそろしとけ」
「…………考えておく」
そうは言っても。
手塚の中には、迷いがある。
これまで生きてきて、このような迷いを抱えたことはない。
いくつもある答えの中から最良を選ぶための吟味はしたことはあっても、何もかもが手探りの霧の中に迷い込んだような心もとなさを味わったのは、これが生まれて初めてのこと。
加護女。
幼い頃は、この言葉に、存在に憧れもした。
互いにとって唯一無二の、絶対存在。
揺るぎないその絆は、父と母に間近に接することによって手塚の中に刻まれ、なおさら憧れを駆り立てた。
だから。
北辰王を継ぎ、己の加護女に出逢ったなら、心から大切にしようと決めていた。
その存在はきっと、自分にとって何よりも宝になるだろうと。
しかし、現実は違った。
6年.
流れた歳月に、いつしか探すことも、出逢うことすら諦めて。
予兆は気のせいだと思った。
気のせいだと思う先から、それは手塚の心を突き動かした。
『天鈴』に共鳴した『七星剣』の波動。
喜びに打ち震えるようだったあれが、果たして本当に『七星剣』のもの中か、それとも己自身のものなのか今では、もう、わからない。
けれど、あの小さな身体を腕に抱いた感触と、不安に揺れる眼差しが自分に向けられたときの感動は今も鮮やかで……
それが手塚に迷いを生む。
どうしようもなく戸惑わせ、足踏みさせる。
心から大切にしたい、そう想う気持ちは変わらずにある。
でも、それをどう伝えたらいいのか、わからなくなってしまっていた。
彼女……リョーマが自分の言動に一喜一憂しているのに、気付いているのに。
それを喜びと感じるのに。
突き放すような態度を取ってしまう自分が、堪らなく情けなかった。
「全く、子供以下だね。見てるこっちが恥ずかしくなるよ」
「手塚も人の子だったってことだろ」
不二と乾が肩を竦めあって、自分を評するのに反論もできない。
鬱々と溜息をついて、手塚は不二にここを訪れた本来の目的を思い出させることにした。
「それで、不二、越前の様子は?」
「ん?元気ではいるね。初めての『変化』の影響も心身ともに見られない。実に健全だよ。基礎訓練も始めたけど、筋もいい。飲み込みが早いから、式神の作り方も、もう教えても構わないだろう。多分何か集中力を養うようなことをやってたんじゃないかな。運動神経も良さそうだし、そのうち英二から護身術も学ばせようかと思ってる」
「たった二日で、そこまで」
乾が洩らした感嘆の声に、不二は楽しそうに頷く。
「うん。召喚されてから実質三日の間で、そこまで……だよ。順応も早いしね。字は書けないみたいだけど、書物なんかを読むことはできる。何でも、理解しようと思って読むと内容が頭に入ってくるんだって。話し言葉もそうらしい。リョーマくん自身には聞いたことがない言葉でも、頭の中で翻訳されるって言ってた。初めは、字が浮かぶだけだったけど、書物同様理解しようと思って聞けばちゃんと意味がわかるらしいよ」
「翻訳?字が頭に浮かぶって……こちらの字なのに、それがそうだとわかるのかい?」
「それは僕も疑問に思ったよ。だから聞いてみた。僕らが普段使ってる文字……それがリョーマくんの世界にもあるって言うんだ。あの子の住んでたニホンという国で使われている文字の一つらしくて、『カンジ』というそうだよ」
指でなぞるようにして、不二が机の上に『漢字』と書いた。
「この漢字のほかに、『ヒラガナ』や『カタカナ』という文字があって、それを組み合わせて文章を書くんだって話。他にもいろいろ聞いてみたら、こちらと共通するものもいくつかあるみたいだ。例えば、植物の名前なんかね」
「ほう、それは非常に興味深い。機会があれば、俺もぜひ越前の話を聞いてみたいな」
根っからの学者である乾の興味は、専門である歴史学に留まらない。
その知識と知識欲には敬服するが、時として度を越すこともあるから、やはり常識人からは程遠かった。
「……ほどほどにな」
念のために一言言うと、乾はもちろんと頷いた。
それが、当てにはならないと思いながらも、とりあえず言質は取ったので追求しない。
「リョーマくんからはものすごい潜在能力を感じるよ。目覚めていない状態でああなんだから、覚醒した後が楽しみだ。歴代最強と謳われる北辰王に、相応しい加護女になるだろうと、僕は確信してる。ひょっとしたら、その力は先代である鈴鹿様を上回るかもしれない」
「母上を……?」
自信たっぷりに微笑む不二に、手塚は複雑な顔をする。
母である鈴鹿御前の力は『加護女』であることを凌駕していた。
鈴鹿御前には、『加護女』と選ばれる以前から、力を使うための素養があったけれど……
異世界から召喚され、右も左もわからぬ場所に放り出されたリョーマ。
たった12歳だといっていた。
当然人ならぬ力を揮うための素養など皆無で……
強大な力を操るには、いまだ器は小さく未成熟だから。
大きすぎる力に、彼女が壊されまいかという懸念が、胸に湧き上がる。
「手塚の心配性。リョーマくんなら大丈夫さ。あの子は本質的にとても強くて、しなやかだ。己の力に負けることはない。君が『君』の力を御していられるようにね」
「……不二」
「だいたい眉間の皺を増やすくらい心配なら、会いにおいでってば。リョーマくんも、待ってるよ。君のこと、すごく気にしてる。あの子が不安なのは、身も知らない場所で暮らさなきゃいけないこととか、突然降って沸いた天命とかじゃなくて……そっけない、君のことなんだからね」
多分この世で誰よりも自分に厳しい不二に、珍しく優しい口調で諭されて、手塚は困惑する。
「おまえがその気なら、大石たちと相談して、そのための時間くらい捻り出すぞ」
乾にまで言われてしまっては、観念するしかないだろう。
一度はちゃんと、話さなければならない。
話さなければならないことが、ある。
「……頼む」
「まぁ、すぐには無理だが。我らが有能な主上におかれては、それこそ山のように仕事が待っているんだからな」
「それでも、手塚がその気になったんだから。リョーマくんも喜ぶよ。戻ったら、教えてあげよう。手塚も、あの子が笑うの見てごらん。喜ばせたくて仕方なくなること請け合いだよ!」
空気が少し和んだところで、女官から来客の報がもたらされる。
府庁(やくしょ)では、午後の執務がそろそろ再開されようという頃合だ。
もちろん、それは手塚も例外ではない。
諸官は、遠慮してよほどの危急の出来事でもない限りは王の執務に割り込むような真似はしてこないものだ。
誰が来たのかと問い質して、一同はややげんなりした顔になる。
ここで撥ね付ければ、後がうるさい。
そう思った手塚は、件の来客に入室を許可した。
すると間もなく、一人の男が女官に伴われてやってきた。
「これはこれは主上におかれましては、ご機嫌麗しく。ご休憩中とのことでしたので、お目通りさせていただこうとまかりこしました」
慇懃な態度で拱手し、礼を尽くすのは壮年の貴族。
王に容易く目通りを許される正位貴族の中でも有力な天城家の長を務める男である。
王家にも近く、古くからの家柄だけにそうそう無視もできない。
この男はそれがわかっているからこそ、こうして執務を再開しようかという時間を狙ってやってくるのだ。
もちろん手塚は隙を見せるようなことはしないが、侮れない男であることは間違いない。
「これより執務を再開するつもりだが……何用か?」
「用、というものは取り立ててございません。ご機嫌伺いを兼ねましてお礼に参ったのでございますよ」
「礼?私はそなたに礼を言われるようなことをしたつもりはないが」
「私にではございません。先日の櫻宵之宴にて、我が娘にお声をかけてくださったとのこと。主上からのお言葉をもらえるとは、娘も大変喜んでおりました」
櫻霞月の吉日。
夜桜を愛でる宴は、公式行事の一環である。
貴族たちや官を招いて行うそれで、誰に声をかけたかなど手塚ははっきり言って覚えていない。
むしろあの時は、加護女降臨の予兆を感じ始めていて、それどころではなかったのだ。
「そうか、だがあいにくと覚えてはいないのだがな」
正直に言ってやれば、天城の顔がひくりと引き攣る。
そこへ第三者の声が割って入った。
「あの折は、主上におかれましては、ご挨拶にみえる皆様に等しくお声をかけてらっしゃいましたので、ご失念あそばしたのでしょう」
やわらかな声音に、猫を被った不二である。
「法術師殿か……」
ちらりと、不二・乾の両名に視線を走らせる。
その眼差しは、二人を蔑んでいる気持ちを隠そうともしていない。
天城から見れば、不二たち近臣の存在は苦々しいことこの上ないのだろう。
近臣とはいっても、官位はなく、王自らが選び、国庫とは関係なく王の私財によって俸給を賄われている存在。
血筋に拘らず、位にも拘らない。
そんな存在が自分たちを差し置いて、王の近くに侍り、身内のように遇されているのを、天城のような男が快く思っていないのは明白だった。
「天城様にはお久しゅう」
「お元気そうですな。乾殿も」
言葉を受けた乾は、素知らぬ顔で拱手する。
「そう言えば、内宮に新たな方を迎えられたそうですな。先ほどそのような噂を耳にしました」
ねちねちとした口調は癇に障るが、手塚も慣れたもので、それを表に出すことはない。
官吏の中には、有力貴族の間者の真似をするような者もいるのだ。
ご機嫌伺い云々は口実で、自分にとって目障りになりそうな人材を増やしたのかどうか知りたかったのだろう。
彼には娘があり、できることならその娘を手塚の『加護女』にしたいと目論んでいる節があるのだ。
リョーマの存在を隠すのも、彼らのような存在があるから。
「それは本当ですよ、天城様」
「不二?」
彼女の目が、任せておけと言っている。
手塚は、彼女に任せることにした。
天城が、不二の美しさに、例え『半陽』であっても好色な目を向けていることを知っており、同時に頭の切れる彼女を苦手にも思っているのもわかっていたから。
やんわりと微笑んだ顔は、まさに傾国の美姫、といった風情があるが、不二の本性を知るものたちから見れば薄ら寒いだけだ。
最も本性を知るものたちのほうが少ないので、天城も見惚れている。
「あれは、私の弟子として迎えたもの。霊力甚大ではありませど、それゆえ危険と我が姉の伝により私が預かることとなったのです。主上にお願いし、このたび内宮に招かせていただきました。まだ10を越えたばかりの子供でございますれば、傍に暮らしたほうがよろしいかと判じましたので」
「ほう。そうでありましたか」
嘘ではない。
少なくともリョーマは、不二に力の使い方を習っているのだから、弟子といえば弟子だろう。
しかも、子供であることを強調し、性別を明かさず『加護女』候補(……真実加護女ではあるが……)かもしれないという彼の最大懸念事項から、目を逸らせている。
10歳を越えたばかりの子供が、20歳を越えた手塚の加護女とはそうそう思うまい。
本人だって、リョーマを見つかったときは目を疑ったし、いまだにそのことに対する戸惑いはついて回っているのだから。
にこにこと優しげな笑みに紛らして、相手からの質問も反論も封じてしまう辺り、さすがである。
「それでは、主上。私はこの辺で御前を失礼いたします」
天城の手前いつもの砕けた口調はまずいとわかっているが、不二にそういった言葉遣いをされると悪寒が走って仕方がないのも事実。
「ああ、ご苦労だったな……不二」
それでも、これだけは言っておかなければ。
大切にしたい気持ちを上手く表せない、自分がしてやれることを。
「なんですか、主上」
「その子供には、くれぐれも寂しくないようしてやるといい。親元から離れて心細いことのないようにな」
リョーマが過ごしやすいように、と。
すると不二は、面白そうに笑みを浮かべて、御意と首肯し退室していった。
リョーマのことは、不二や菊丸に任せておけば大丈夫だろう。
それから、手塚は天城に向き直る。
「悪いが午後の執務を始めたい」
「は、それでは私もこれで失礼いたします。いずれまた娘とともにご機嫌伺いに参りますれば」
「承知した」
天城も退室したのを見送って、手塚は乾に視線を向けた。
「……越前のこと。考慮はする……が、慎重な姿勢は変えん。万が一の事態を許すわけにはいかないからな」
守らねばならない。
あの子供を。
大切な、彼女を。
「わかった。だが状況によっては臨機応変で頼むぞ、手塚」
「あぁ」
『半陽』特有の淡い青の瞳。
その眼差し。
刻みついてはなれない面影に、手塚は深く決意していた。
続く
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