作品
一章 櫻霞月・九
櫻霞月も末。
あと数日で桂香月を迎える昼下がり。
吹き抜ける風にも青葉の香りがそこはかとなく感じられ、季節は初夏へと移り変わろうとしている。
午前中の執務を滞りなく終え、用意された昼餉を急ぎ足で胃袋に治めたのは、少しでも早く午後の執務に取り掛かるためだったはずなのだが……
いざ書類に目を通そうとしたその頃合を計ったかのようにやってきた不二に、半ば無理やり執務室どころか太極殿からも追いやられてしまった手塚は、途方に暮れて溜息をついた。
常より深く眉間に皺を刻み、身の置き所のないような気分を味わいつつも、内宮の敷地内に設えられた庭園を散策する。
『とりあえず手塚、行方不明になってくれない?』
本性を知らないものがみれば、うっとりと見蕩れるような笑顔で不二が詰め寄ってきた瞬間感じたのは、どうしようもない悪寒だった。
彼女が仲間内でそんな風に笑うのは、恋人の河村に対しての純粋なものか、そうでなければ何か企んでいるときだからだ。
もちろん自分に向けられるということは、何か企んでいるときで……
理由もなくそんなことができるかと言えば、取って置きの理由を持ち出してきた。
『天城のご当主殿が、姫君と一緒にご機嫌伺いに来るそうだよ。こないだここで会ったときから、式神に様子を伺わせていたんだ。ただでさえ老獪で厄介な天城殿に加えて、あの姫君がついてきたら君、執務どころの話じゃないのが目に見えてるだろ。君がどこかに行方をくらましててくれると、追い返すのがとっても楽なんだけどなぁ』
確かにそうだろう。
自分が執務室にいるなら謁見するまで帰ることはない。
しかし、居留守でなくいないのなら、納得させるために執務室に通した上で、しらを切り通すなど不二や乾には造作もないことだ。
天城だけならともかく、娘が一緒というのは手塚にとっては果てしなく厄介でしかない。
確かに美しいが、美しさだけなら不二のほうが遥かに優る。
手塚が彼女を苦手とするのは、その性格だ。
家柄を誇るのではなく鼻にかけ、家名や位階だけが判断基準。そして何より、手塚に向けられた執着さえ感じられる媚。
あの眼差しを思い出すだけで胸が悪くなるほどだ。
父親になにを言い含められたか、さも自分が手塚の加護女であるかのように振舞うのも、癇に障った。
彼女に『確信』など感じたことはただの一度もない。
そう……あの子供に感じたような、確信は。
『半陽』の子供。
今は少年に戻った……越前リョーマ。
水に濡れたリョーマの顔を一目見て走った確信。
零れそうに大きな瞳か自分を見上げたときの感動は、言葉では言い尽くせない。
腕の中に簡単に収まってしまう華奢な身体。
護ってやりたかった。
大切にしたいと、心から思った。
けれども戸惑いは深くなるばかりで。
だから、リョーマに逢いに行くことすら躊躇ってしまう。
不二からもたらされる報告を聞くたびに、逢いたいと、不安や寂しさを自分こそが慰めてやりたいと思うのに。
それができないのは、多分。
(…………罪悪感)
陽射しが溢れる庭園で、手塚は瞠目する。
リョーマの存在を喜んでいる自分に、手塚は深い罪悪感を抱いていた。
彼は召喚された。
元いた世界から、手塚の加護女となるべく強制的に。
選ぶ自由などなく。
母が一族を棄てたように、代々の加護女たちも様々なものを捨てざるをえなかった。
けれど彼女たちには、離れても家族があった。二度と逢えなくても友がいた。彼女らは世界のものであり、世界は彼女らのものだった。
つまり世界の理を護ることは、すなわち懐かしい人たちや彼らの生活を護ることでもあったから、それに意義を見出せた。
大切なものを捨てる代償を、加護女であることに求めることができたのに。
リョーマには何もない。
この世界で何かを為さねばならぬ義務さえも、そもそも科せられるべきではないのだ。
家族だけでなく、友だけでなく……加護女の天命を受けることで、リョーマは世界さえも失ったのと同じことだ。
何故、己が生まれ育った世界でない、天領のためにリョーマが天命を負わねばならない?
あの子はまだ……
(子供なのに)
深夜、こっそりと瑠璃宮を訪ねるのは、リョーマが紫電宮にやってきて以来手塚の日課となっていた。
日中は手塚も執務に忙しいため時間を割くことはできないが、身体が空く深夜なら何を気に留めることもなかったから。
既にリョーマは眠りの中にあるのはわかっていた。
顔が見れないことを承知で毎夜足を運んだのは、とても……とても気になったからだ。
夜になれば、不二も菊丸も別室で休む。
一人で過ごす異世界の夜に、彼が泣いてはいないか、昼間見せている顔が強がりではないのかと……
あの夜、感じた祈りの波動。
祈りを波紋のように世界に渡らせることができるのも、それを感じることができるのも、天にも地にも一人ずつしかいない。
すなわち加護女と北辰王。
無意識にだろう、何を祈ったのかまではわからない。
しかし確かに感じた。
切なく、慕わしいリョーマの祈りを。
いつものように深夜訪ねた瑠璃宮の庭で。
そうして偶然出逢ったのだ。
寝付けないと、散歩する彼と。
もどかしく視線を彷徨わせながら、時折こちらに寄越した眼差しは何か言いだけで……
その仕種がとても稚く、また愛しかった。
だからこそ、先ほどの無意識の祈りが、手塚の胸には痛くて。
話をした。
彼の口から聞いた家族のこと。
声音に雑じっていたのは、あの切なさと慕わしさで……あの祈りはきっと家族のことを思ったのだろうと、納得できた。
ことに飼い猫のことを語る口調は熱っぽく。
代わりになどなるはずないと思っていても、それに代わるものをと贈らずにはいられなかった雷獣の子供。
あの後、騎獣を駆って自ら捕らえてきた。
霊獣は子を産み落とした後育てることはしない。
子は自らの力のみで育つし、それだけの能力を生まれたときから備えている。
それだけに親の反撃や報復は心配なかったが、子供は姿を隠す術に長けているため、見つけることは易しくない。
夜通し辺境を探して、ようやく見つけたのが生まれたての雷獣の子供。
出来れば扱いやすい幻獣の子の方が良かったが、加護女であれば問題はないだろうと納得して、連れ帰ったときには朝議の始まるぎりぎりの時間だった。
雷獣の子には『真珠』と名をつけたのだと、不二に聞いた。
毛並みの光沢が、似ているからそう名付けたのだと……とても可愛がっていると聞いて、夜を徹した甲斐があると嬉しさを覚えた。
それがとても自分らしくないことだとはわかってる。
購えばいいものを……と乾や大石に呆れられたが、そうはしたくなくて。
あの子を加護女とし、それを自分が喜ぶことで、結果的にリョーマから奪ってしまったものを、その代わりとなるなら自分の手で何とかしたかったから。
とはいっても、結局自分で届けることもできなかった。
あの眼差しに見つめられたら、喜びと罪悪感とに激しく苛まれることがわかっていたから。
きっと喜ぶ気持ちのほうが大きい。
そしてそれが更なる戸惑いとなって、手塚を留めるのだ。
はっきりしなければならないのはわかっている。
自分の心が決まらなければ、本当の意味でリョーマを護ることなどできようはずがない。
手塚は、腰の七星剣を抜き放ち、その刀身を見つめた。
七つの宝石を嵌め込まれた至高の刃からは、白銀の光が零れ落ちる。
異世界から召喚された加護女。
しかし、あんな子供から世界までもを奪ってなお……
「帝(てい)よ、加護女は必要なのですか……そうでなくては世界を守れないというのなら……俺は加護女など必要なかったのに……」
呟いたのは独り言。
独り言であったのに、返事があった。
返事は……誰かが何かに躓いた気配。
自分に気配を悟らせることなく近付ける人間は、決して多くない。
視線をやった先には、今にも泣き出しそうに顔を歪ませた、己の加護女。
腕には手塚が贈った雷獣の子供……真珠が抱かれている。
「……越前」
呼びかけに、とうとう涙は零れ落ちた。
泣かせたいわけなんてもちろんない。
何か言わなくてはと足を踏み出せば、同じ数だけリョーマは後ろに下がった。
「越前……俺は……」
リョーマは頑是無い幼子のように首を振って手塚の言葉を拒絶した。
一言だって聞きたくないのだと……
そして次の瞬間、憤りと悲しみとが惑乱している瞳で、手塚を睨む。
「……俺のことが、いらないの?」
声は震えていた。
眼差しのきつさとは反比例するように、その声は弱く、か細かった。
「違う……そうじゃない……」
「違わないよ!加護女なんていらないって言ったじゃないかっっ……あんたが……あんたが、俺をいらないっていうなら、俺はなんのために喚ばれて……ここに存在してるんだよっ」
吐き捨てられた言葉は、悲鳴だった。
小さな身体から搾り出された、胸に突き刺さるような心の叫び。
必要ないわけなんてない。
むしろその逆だと……言おうとするのを留めたものは……
己の不甲斐なさを舌打ちしたい気持ちで噛み締め、何とか言葉を紡ごうと口を開きかけるが……
それまでの沈黙を、肯定と取ったか、拒絶と取ったか……リョーマは、くるりと踵を返してその場から駆け去ってしまう。
咄嗟に追わなければと思った。
今追わなければ、自分は永遠にあの子供を失ってしまう。
なのに、まだ戸惑うのか?
「君って人は、大概しょうがないねぇ」
口調は軽口だが、その声に含まれてるのは紛れもない苛立ちと怒り。
「……不二」
「リョーマくんが真珠のお礼、直接君に会って言いたいっていうから、お膳立てしてあげたのに、よりにもよって泣かせるなんて」
眼差しは厳しい。
優しげな面立ちだけに、その怒りのほどが窺い知れた。
「じゃあ、天城が来るというのは……」
「それは本当だよ。姫君ともども無事追い返したけど、まさかこの上執務に戻ろうなんて思ってるんじゃないだろうね!」
「馬鹿な……!!」
「そう、追いかけるつもりは一応あるわけだ……ねぇ、手塚。君が何を悩んでるのか、本当のところは僕にもわからない。見当はつくけど、僕は君じゃないからね。でもね、手塚……あの子は確かに子供だけど、物事を選び、決断できないわけじゃないんだ。誰かに何かを決めてもらわなきゃいけないほど、子供でも、頼りなくもない。あの子は選んだ。そして決めたんだ。君の『加護女』であること。君自身を。手塚、大切なことってなんだと思う?見つめなきゃいけないのは、あの子がどうしたいのか、君がどうしたいのか……その気持ちなんじゃないのかな」
不二の声音から怒りは消えて、諭すようなものとなっていた。
あの夜の、リョーマの言葉を思い出す。
『それに俺、ここ嫌いじゃないし。帰れるにしたって、ここで知り合ったみんなと別れるのも嫌だもん』
あのときの、勝気で真摯な眼差し。
あれは多分、リョーマの真実からの言葉だろう。
なのに自分は『仕方ない』……そう言わせてしまったことばかりに目が向いて、それ以外の言葉の意味を考えようともしなかった。
何より自分がどうしたいかなど、問われるまでもなく決まっている。
護りたい。
大切にしたい。
傍に……傍においておきたい。
『そうとしか感じられなかった』
かつて父の言った言葉の意味を、今初めて正しく理解したような気がする。
加護女だからそう思うのではない。
リョーマだから、だからあの子が『加護女』なのだ。
罪悪感がなくなったわけではない。
これから先の未来、手塚は何度でも申し訳ない気持ちを噛み締めるだろう。
リョーマの家族に、友に、かつていた世界に。
リョーマを育んできた、全てのものに、彼を奪ってしまったことを。
けれど、もう迷いはない。
戸惑いもない。
彼が捨てなければならなかったもの、同じものは与えられなくても、それに代わるものを自分が与えたいと思うから。
天領を、そして自分を選んだことを後悔させたくはない。
「心は、決まった?」
「あぁ」
「ならやることは決まってるね。リョーマくんを泣かせた分、優しくしてあげて構ってあげること。言っとくけど今日は、執務室に戻ってきても入れてあげないよ。大石にも乾にもきびしーく言っておくから。ついでに、今日は僕も英二もリョーマくんの部屋での夕食は遠慮させてもらう」
つまりは、リョーマと一緒に夕食まで食べて、ちゃんと寝付かせるまで傍にいろ……ということなのだろう。
否と言うつもりなんて、さらさらない。
「わかった……いろいろすまなかったな、不二」
「ふふ、この借りはでかいよ」
「心しておく」
言い置いて、手塚はその場を後にした。
続く
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