作品
一章 櫻霞月・拾
心が軋んで潰れてしまいそうだった。
彼が戸惑ってることはわかってた。
それについては仕方ないと思ってた。
でも、時間をかければ……少しずつでいいコミュニケーションを増やしていけば、解消すると信じていたのに。
『俺は加護女など必要なかったのに』
胸に突き刺さった言葉。
彼に必要とされているのだと、信じていた。
『越前リョーマ』としてはともかく、加護女という存在としては。
世界にとって、何より北辰王にとって加護女の存在は唯一無二。
彼の加護女になるために、この天領に喚ばれたと思ってた。
今すぐには無理でも、きっと自分という存在も受け入れてもらえると……
天帝でも、西王母でも、この天領という世界でもなく……彼が……手塚が自分をこの世界に喚んでくれたのだと……
(…………信じてたんじゃない…………信じていたかったんだ……俺は)
真珠を腕に抱いたまま、走って走って……
とにかくリョーマは、ここじゃないどこかへ行ってしまいたかった。
今は誰とも、会いたくなくて。
一人になりたかったのだ。
でも、とうとう力尽きて、その場に膝を付いてしまう。
もっと走らなきゃ。
もっと遠くへ。
もっともっと、逃げてしまいたかった。
なのにもう、立ち上がる力さえない。
「うっ……ひぃっく……」
堪えようと思う先から、嗚咽は唇を突いて零れ落ちる。
涙なんて流したのは、何年ぶりだろう。
泣きたくなんてない。
だからどんなに悔しくても、涙を零したことなんてなかったのに。
膝を付いた拍子にリョーマの腕を抜け出た真珠が、心配そうにくるると鳴きながら主の様子を伺っている。
偶然夜の庭で出逢ったとき、思いもかけず話すことができて本当に嬉しかった。
ぎこちなかったし、会話は続かなかったけど、これならきっと仲良くなれるって思えた。
次の日に真珠を贈られたのは、びっくりしたけど、やっぱり嬉しくて……カルピンと同じくらい、否、それ以上に大切に可愛がろうと決めた。
本当に嬉しかったから、直接お礼を言いたくて、不二に無理を言って時間を作ってもらったけど……
あんな言葉を聞くくらいなら……
「……どっか、行きたい……ここじゃないトコ……」
遠くへ行きたい。
けれど不思議と元の世界に還りたいとは思わなかった。
それがなおさら悲しくて、リョーマはしきりにどこかに行きたいと繰り返す。
その頬が乾くことはない。
「……どこにも行ってはなりません」
優しい声が、降ってくるのにリョーマは顔を上げる。
透理が膝を付き、そっと主の肩に両手を置いた。
「リョーマ様がおいでになるのは、ここ……北辰王様のお傍のみなのです」
「でもっ……でも、透理っっ。あの人、俺のこといらないって……加護女なんていらないっていったぁ」
駄々を捏ねる子供のように、首を振るリョーマに透理はそうではありません、と諭す。
「けっして主上のご本心ではありません」
「そんなこと……そんなこと、どうして透理にわかるんだよっっ」
「わかります。主上は、リョーマ様のことをとても大切に想われていらっしゃる」
「…………」
「私の本性は、リョーマ様のお部屋に面した場所に生える李の樹。私は式神としてのこの姿を得る前から、見ておりました。リョーマ様がおいでになってから、主上が夜毎、あの部屋の……リョーマ様のご様子を伺いにいらしていたのを。けっして中に入ることもなく、時には空が白んでくるまであの方は窓の外に立ち、あなた様を案じてらしたのです。北辰王として世界を見守り、国を統べることの過酷さは、人ならぬ私などには想像もつきません。ですが、ご多忙であられることはわかります。その主上が、身体を休めることを差し置いても、いらっしゃるのですよ。それも毎夜。私は主上がそのとき、どのようなお顔をなさって窓を見つめていらっしゃるのか、存じ上げております。主上は、けっしてリョーマ様を必要ないなどと想ってはおられません。むしろ……大切すぎて、どうしたらいいのかわからないのではありませんか?私はそう思いますよ」
リョーマが見上げた先、透理はにっこりと微笑んだ。
それから、官服の袖でそっとリョーマの涙を拭う。
「お泣きなさいますな。主上がご心配なさいますよ……」
言って、透理の姿は陽に透かすように掻き消えてしまう。
「透理?」
周囲を見回して、名を呼ばわっても式神は姿を現さない。
ただ、真珠が、耳をひくりと動かして何かの気配を察したようだった。
「越前」
その声に、リョーマは凍りつく。
一番聞きたくて、聞きたくない人の声。
常と違うのは、その声が荒く呼吸が乱れていること。
「越前、俺は……」
「やだっ。聞きたくないっっ」
ぎゅっと身を縮こませて、本能的に耳を塞いでしまう。
収まったかと思っていた涙が、再び頬を濡らすのを感じた。
力いっぱい。
全身でリョーマは彼を拒絶した……それなのに、力の入った身体を包み込む温もり。
驚いて眼を開ければ、そこにあるのは広い胸。
何が起きているのか、しばらくは理解できなかった。
それを理解したとき……
「やっ……ヤダ、放してよ!!」
手塚もその場に膝をついて、そしてリョーマを抱き締めている。
身体の体温が上昇して、恥ずかしくて、さっきまでとは違う意味でとにかく逃げ出したかったのに、力強い腕は一向にリョーマを放す気配はない。
「放して!」
抗えるのは言葉だけ。
なのに。
「駄目だ。絶対、放さない」
「…………」
「何があっても、放すものか!」
耳に囁きこまれた声。
リョーマは初めて聞いた。
手塚の、硬質な声音に感情の響きが篭るのを。
とても切羽詰った。
とても真摯な。
熱く響く、彼の声。
彼の、言葉。
「……いらないって、言ったくせに……」
「あぁ、言ったな。でもそれは……おまえをいらない、という意味じゃない」
わずかに生まれた隙間。
それが酷く惜しく感じたけれど、リョーマは手塚の腕の中から、彼の顔を見上げた。
闇を凝ったような漆黒の瞳が、真っ直ぐにリョーマを見つめている。
「おまえは、この世界の人間じゃない。俺は……おまえの生まれた世界から、そこにいる家族から、友人から……おまえを奪ってまで『加護女』は必要な存在なのかと、天に問わずにはいられなかったんだ……きっと、その罪悪感はいつまでも消えないだろうから……」
手塚の眼差しが、困ったように揺れた。
「6年.俺は加護女なしでやってきた。ならこのまま出逢わなくても、やっていけるだろうと思ってたんだ。そう思ってきたから、おまえに世界も何もかも捨てさせてまで加護女であることを強いる必要があるのかと思った。おまえはまだ子供で、何かを捨てさせるのも、世界を背負わせるのも……正直、胸が痛い。できることなら、させたくないと、まだ思ってる。けれど……おまえが俺の加護女であるというなら、それはけっして悪いことではないように……そう、思う」
とつとつした口調で語られる言葉は、あまりに不器用で。
リョーマにさえもそれはわかるくらいなのだから……でも。
手塚の言いたいことは、伝わってきて、リョーマを小さく微笑ませた。
「加護女とか北辰王とか言われても、俺にはまだ良くわかんないよ。だってここは俺の生まれた場所じゃないから。でも、還る方法がないから、ここにいるしかない、とか、手塚さんが言ったみたいに全てを捨てるんだ、とか……そういう風には思いたくないよ。ここに来たから、得るものだってあると思う。ここでしか得られないものも……あんたが俺を必要としてくれるなら、俺はここを『おれの世界』って言えるようになるかもしれない。『いるしかない』じゃなくて『いることを選んだ』って俺は思いたい……思いたいんだ」
元の世界のこと、家族のこと。
手塚が罪悪感を感じ続けるというなら、自分も……きっといつまでも懐かしく思い出し、その度に胸が痛むかもしれない。
二度と会えない場所を選んでしまったことを、詫びる気持ちを。
でも、故郷より、家族より……手塚に出逢えたこと、彼の傍にいることが今のリョーマには一番大切なことだった。
北辰王とか、加護女とかじゃなく。
手塚は手塚として。
自分は、自分として。
想いを込めて、それが伝わることを願ってリョーマは手塚の瞳を見つめる。
手塚の表情が、ふっと緩んだ。
苦笑……というよりは、何かを観念したような表情。
「……手塚さん?」
問い掛けた瞬間、再びぎゅうっと抱き締められた。
「て、手塚さん?」
「……国光でいい」
「えっ?」
「国光でいい。北辰王の名を呼べるのは、両親と加護女だけだ。俺の両親はすでに亡い。だから……世界でただ一人、おまえだけが俺を名で呼ぶことができる」
「……くにみつ?」
初めて舌に乗せた彼の名前は、言葉にできないくらいの幸せをリョーマにもたらした。
「……くにみつ、毎晩、俺の様子見に来てくれた?」
「あぁ」
「心配だったから?」
「そうだ」
透理の言葉は嘘じゃなかった。
さっきまでとは違う意味を持つ涙が、ぽろりと頬を伝う。
「………………ありがと」
「礼を言うことじゃない。結局俺は、おまえを泣かせてしまった。それだけは、したくなかったのにな」
「もうしないよね?」
「あぁ、もうしない。おまえを泣かせない。おまえを護って、誰より大切にするよ」
優しく優しく囁かれて。
「おまえが俺の加護女だ……リョーマ」
名前を呼ばれた喜びを、どうやって表したらいいだろう。
嬉しくて。
幸せなこの気持ちを。
初めてこの人と、心が触れ合った気がする。
心だけじゃ足りない、と欲張りな気もちが訴えてくるから。
リョーマは腕を伸ばす。
そうしてぎゅっと、運命の人に抱きついた。
それこそが、二人にとって、真実始まりの瞬間だった。
天領国暦 玉悠五年 櫻霞月
遥かなる地より、天海の辺にて加護女降臨す。
『櫻霞月』/完 『桂香月』へ続く
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