作品
二章 桂香月・壱
風が緑の香りを孕んで吹き抜けていく、桂香月。
内宮の一角・瑠璃宮に、リョーマの困惑したような声が響いた。
「ねぇ、本当にこれ着るの?」
「あったりまえにゃ!普段はともかく、公式行事は正装というのが決まりだもん」
指をずいっと突き出して、言い切った菊丸に、リョーマは助け舟を求めるように不二に視線をむけたけれど。
彼女は困ったように笑いながら、首を傾げる。
「こればっかりはねぇ」
二人が持ってきたのは、数日後に控えた『藍(らん)の儀』と呼ばれる儀式に出席する際に身のまとう正装。
『藍の儀』というのは、桃の木から作った弓と、桂の枝を削った矢を用いて、北辰王が邪気を払う神事で天領国でも、大切な公式行事の一つだ。
列席する諸官や貴族はもちろん、私官も含めて正装でなくてはならない。
一年の初めと終わりに定められた儀式を除いては、月を神聖視する天領国において、公式行事は満月期に集中している。
というわけで、リョーマに用意された正装は当然女物。
異世界・天領に召喚されて、一ヶ月。
こちらの生活には随分慣れたけれど、女性に変化するのはまだ二度目だ。
今朝起きたら、身体は女に変わっていて、最初のときほどじゃないけどやっぱり一瞬焦ってしまった。
そうして世話係を引き受けてくれている不二と菊丸が朝食の席にやってきたとき、二度目の変化をしたリョーマを見てなにやら意味ありげに含み笑いを浮かべていた理由が、彼女らの持ってきた正装なのだと悟らされた。
すでに満月期に入っているため、菊丸も女性の身体になっている。
新月期以外は女性の身体のままであるという不二は言うに及ばす。
「2人もこんなやつ着るの?」
「そうだよ」
「まだ二回目の変化だから女の格好には抵抗あるのわかるけど……そのうち絶対慣れるよん。それに着飾るのもけっこう楽しくていいもんだって思えるようになるにゃ。絶対にね」
ウインクしながらの菊丸の言葉はやけに確信的だ。
「君は『加護女』だから、正装を身につける機会は必然的に多くなるよ。今回はその第一歩だと思って」
そうなのだ。
『藍の儀』で弓に番える桂の矢を北辰王である手塚に渡す役を仰せ付かっている。
この役目は北辰王の対たる『加護女』の役目だが、去年までは国一番の法術師である不二が代役を務めていた。
それをリョーマがやる、ということは彼女が『加護女』であるということを諸官や貴族らに示すということ。
リョーマを本格的に『加護女』として立てる。
決断した手塚の行動は早く、そのための準備は、月が変わってから着実に進められてきた。
まずは天領国に新たな戸籍を作ってもらった。
漢字は故郷と共通している文字だけど、リョーマの名前は本来片仮名表記。
こちらにはない文字だから、漢字に当て嵌めて『越前凌真』というのが、戸籍に記された名前。
『真実を凌ぐ者』という意味を込めて手塚が考えてくれたのだ。
あくまで便宜上のものではあるけれど、リョーマはそれがとても嬉しかった。
貴族や諸官からの反発も考えて、異世界から召喚されたということではなく、定住生活をせず、戸籍を持たない流浪の民出身だということになっている。
それはそれで官はともかく一部の貴族は快く思わないだろうということから、王への謁見と内宮の一部までの立ち入りを許されている正位貴族の中でも特に有力な貴族に後見人となってもらった。
七星剣と呼ばれる私官の中で、唯一の正位貴族出身である桃城の父親だ。
桃城の父親は、先代の北辰王……つまり手塚の父の私官でもあり、幼い手塚の教育係でもあった。
現在は相談役ということで、太師の役職を賜っている。
太師というのは私官たちを取り纏めるのが仕事で、大抵が先王の時代に私官を務めたものが、現王に請われてその任を受けるらしい。
リョーマも何度か対面したけれど、穏和で博識な御仁だった。
どう見ても武闘派の桃城とは正反対の人物なのが面白い。
そう簡単に文句は言えない人物の後ろ盾を受け、こちらに暮らすのには充分すぎる用意がされて。
リョーマを正式に『加護女』として迎える準備は整ったのだ。
リョーマ自身、自分を受け入れてくれた手塚やみんなの心遣いが嬉しいから、手探りでもきちんと『加護女』の任をこなしていこうと決めていた。
自分が女の身体に変化するのは、揺るがしがたい事実であり、真実。
いつまでも女女した格好はいやだと、駄々を捏ねるような真似をしていては手塚たちの迷惑にもなろう。
菊丸たちだって初めは女の格好に違和感を覚えたけれど、慣れたというのだから、自分だってこちらにいるうちにそれが自然なものになるかもしれないし。
「うー、わかった」
不承不承といった感じではあるけれど、頷くと不二も菊丸も明らかにほっとした顔で笑った。
「いい子だね、リョーマくん」
「うん。おちびは素直で可愛いし」
「「やっぱり手塚にはもったいない」」
あまりにことあるごとに口にするので、もはや口癖といってもいいだろう言葉を二人は顔を見合わせながら異口同音に漏らした。
そのお馴染みの台詞に、リョーマも破顔する。
内心、自分にこそ、あんな素敵な人が対の存在だなんてもったいなく思えるのに。
凛々しくて端正な顔はリョーマが知る人物の中ではダントツに綺麗だし、文武にも秀で王としての職務も立派に果たしている。確かにみんなが言うように不器用な面もあって、初めはそれに泣かされたりもしたリョーマだけれど、今は彼がとても優しい人だと知っているからちっとも気にならない。
忙しいのに、リョーマを気遣ってくれる心遣いが、いつもとても温かくて。
見知らぬ世界、今では不安を感じないのは、みんなと……手塚がいてくれるからなのだ。
「ねー、せっかくだからさ、袖通してみたらどうにゃ?」
「えっ」
「そうだね。当日に初めて着るってのもぎこちないだろうし。これから手塚とお茶の時間でしょ。きっと喜ぶから、見せてあげなよ」
不二に言われた言葉に、リョーマは頬が熱くなるのを感じた。
手塚が喜ぶかもしれない。
そう言われてしまうと、頷くより他なくなってしまうから。
「うん……じゃあ、着てみる。透理」
「はい、リョーマ様」
すいっと衝立の影から現れた式神は心得ているように首肯した。
「手伝ってくれる?」
「畏まりました。こちらへいらせられませ」
菊丸から衣装の入った漆塗りの浅い箱を受け取った透理がリョーマを促す。
「英二、周助、ちょっと待っててね」
「楽しみにしてるにゃ」
にこにこ笑いながら言う菊丸と、ふんわりと優しい表情をした不二。
家族のようにいつだって親身になってくれる二人に、リョーマも笑って踵を返した。
リョーマが使ってる部屋は、格式あるホテルのスウィートルームなみに広い。
一人で使うのがもったいないほどの広さの部屋を、いくつもの衝立で区切って用途別のスペースを作り出している。
この世界の間取りは、それが常識なのだという。
壁は最小限に作り、一つの部屋を広く取って、用途や必要に合わせて衝立などで間仕切りをするものらしい。
初めは戸惑ったけれど、今ではそれにも慣れた。
部屋の一番奥がベッドスペース。
寝台の上を見てみれば、真珠が丸くなって眠っていた。
手塚からもらった雷獣の子は、今は眠るのが仕事とばかりに一日の殆どをリョーマの寝台の上で過ごしている。
時折長い耳が引く引く動く愛らしい寝顔に笑みが零れた。
リョーマは寝台の置いてあるベッドスペースの隣に設えられた……故郷風に言うなら、ウォークインクローゼットに入っていく。
籐製のチェストが並び、衣桁の置かれた場所。
こちらに召喚されたときに身につけていた真新しい学生服と、テニスシューズはリョーマ自身の意思で奥に仕舞い込まれ、今では随分増えたこちら風の衣装が納められている。
チェストの上に箱を置いた透理が、リョーマを待っていた。
あれから何人かの式神を得たが、一番初めに式神に降した彼女は、今では式神の中でも筆頭の存在である。
男物の官服姿ではあるが、たおやかな面立ちに女性らしさが滲む式神に、リョーマは全幅の信頼を寄せていた。
着替えのために今着ているものを脱いでしまうと、透理は手際よく正装を着せ付けていく。
当然だが初めて身に付ける衣服に、好奇心が刺激される。
知りたいと、思う気持ち。
透理が衣を重ねていく度に、リョーマの頭の中にこちらの常識が新たに書き込まれていった。
その感覚にも、もはや慣れたものだ。
まず女性の正装は、裳衣(しょうい)と言う。
一番下に身に付けるのは襦(じゅ)という下着のようなもの。
和服の下着である長襦袢のようなものだが、袖は筒状で手がすっぽり隠れてしまう長さ。
その上に重ねるのは衣(きぬ)。丈の短い着物、といった感じで、袖はたっぷりしていて、襦のものより短い。
そのため衣の袖口から襦の袖が覗くような具合になる。
下半身を覆うのは、裳(も)と呼ばれる巻きスカート風の衣装。丈は足元まですっぽり隠れるくらい。
衣の上から半臂(はんび)という袖の短い上着を重ねる。生地は紗を用いているので、オーガンジーのように下の衣が透けて見える。
最後に帯を締め、腕に領布(ひれ)をかけて出来上がりだ。
「さ、これでよろしいですよ」
促されて姿見を覗き込んでみる。
鏡に映った自分は、昔読んだ絵本でみた天女のような格好をしている。
見慣れない感じはするものの、違和感は特にないみたいだから、似合わないわけではないようだと安心する。
「とてもお可愛らしくていらっしゃいますよ、リョーマ様」
「ありがと、透理。本当におかしくない?」
「ええ。主上もきっと喜ばれますわ」
「…………もう、透理までそんなこと言うなよ……」
「なぜですか?」
面白そうな式神の口調に、リョーマは顔を赤らめた。
「……透理、最近、周助に似てきたぞ」
「まぁ、さようでございますか」
小さく笑う透理を軽く睨んで、リョーマは鏡の中の自分に視線を移す。
襦の色は白。
衣はクリーム色で鳳凰の羽根が地模様になっている。
浅葱色の裳には花菱文様。
銀糸で刺繍の施された半臂は明るい若草色。
藍染めの帯には白牡丹の刺繍。
初夏らしい爽やかな色合いは、リョーマの好みに合っていた。
布地は全て最高級品らしく、着心地は抜群。
それに思っていたより動きにくくはなさそうだ。
「リョーマ様、靴はこちらです」
差し出されたのはいつも履いてるサンダルとは違い、布製の靴。
つんと先が上向いている靴は黒で、こちらにも銀色の糸で細かい文様が刺繍されている。
リョーマの足にぴったりと誂えれられたそれの感触はやわらかく、歩きやすかった。
鏡の前でくるりと一回転。
(……英二のいうとおりだ。けっこう……悪くないな……)
手塚はなんて言ってくれるだろうか。
いや、何も言ってくれないかもしれないけれど、好ましく思ってくれればいいな……と思った。
王としていつも政に終われている手塚だけど、何とか心を通わせることができるようになってからは、極力時間を取ってくれるようになった。
執務を終えてから、Uターンするのは面倒くさいだろうに就寝前には顔を見せてくれるし、毎日ではないけれど午後の執務の合間を縫って、一緒にお茶を飲む時間を作ってくれる。
本当にささやかではあるのだけれど、リョーマには夢のような時間だ。
忙しい手塚が自分のために何かしてくれることが嬉しいから。
「おっ、似合うじゃん」
リビングスペースに戻ってきたリョーマは、菊丸の賞賛をくすぐったく受け止めた。
「うん。よく似合ってる。こんなに似合うんだもの、見立てた手塚も本望だと思うよ」
不二の微笑みながら賛辞に、聞き捨てならない言葉。
「これって国光の見立てなの?」
「そうだよ。内緒にしてろって言われたけど、リョーマくん喜ぶだろうから、教えちゃう」
人の悪い笑みを浮かべる不二に、リョーマの胸のうちは喜びで満たされる。
我知らず頬が紅潮し、唇が孤を描くのを止められない。
「当日身につける装飾品なんかも、職人に率先して意見を言ってたから、楽しみにしとくといいよ」
「装飾品?」
「そ。耳環(みみかざり)とか戒指(ゆびわ)とか……その他諸々にゃ」
「リョーマくんは華美なのは好きじゃなさそうだから、最小限のものだけど。まぁ、手塚も物を贈る喜びに目覚めちゃったみたいだから、受け取ってあげるといい」
手塚にはすでにたくさんの物をもらっている。
自分には何も返せないから、悪いとは思いつつも、リョーマが礼を言うと手塚の表情が少し和らいで、なんだか嬉しそうだから、彼からの贈り物はありがたく受け取ることにしていた。
何も返せない分、嬉しい気持ちを極上の笑顔で告げる。
それしかできないから。
「うん……でも、周助。戒指はともかく、耳環は俺、耳朶に穴あいてないからできないよ?」
こちらで耳を飾るアクセサリーといえばピアスなのだ。
ピアスホールがあいてないから、せっかくもらっても身につけることができない。
「あぁ、それはね。リョーマくんさえよければ、手塚にあけてもらうといいよ」
「えぇっ?」
「俺は大石にあけてもらったにゃ」
「僕はタカさんにあけてもらったよ。別に決まり事でもなんでもないんだけど、耳環を初めてつけるときは、大切な異性につけてもらうと幸せになれるって言い伝えがこの国にはあってね。だから『この人だ』と思える相手に出会えるまでは、耳環というのは身につけないものなんだ。『加護女』にとって北辰王以上に特別な存在はいないだろう?手塚にお願いしたら、喜んで引き受けてくれると思うな」
不二の笑みはどこか意味深だが、そういう顔をしているときの彼女の考えていることは、リョーマにはとても読めないので首を傾げるばかり。
「んでもって、手塚のはおちびがあけてあげるにゃ」
菊丸も何か企んでいるように、悪戯っぽく言い募る。
「あ、それいいね。手塚も耳環はつけてないもんね。透理もいい考えだと思うだろ?」
式神までも巻き込む構えだ。
話を振られた透理は、何を心得ているものか、大きく頷いた。
「それはようございますね。主上の耳環はリョーマ様が用意して差し上げるのがよろしいでしょう」
三者の間で話はどんどん盛り上がっていくのをリョーマは呆然と見つめるしかない。
「ちょっと……俺を置いて盛り上がんないでよ!だいたい俺って国光に養ってもらってる身分なのに、耳環なんて用意できないってば!」
「それにはご心配には及びませんよ、リョーマ様。リョーマ様がお作りになればよいのです」
「はぁ?何言ってんの、透理」
「私の本性である李の枝から削り出し、顔料と樹脂を混ぜたものを塗って仕上げればよろしい。『加護女』であるあなた様が力と願いを込めて作れば、それは立派な呪具。いざというとき主上をお守りする力にもなりましょう」
「それだけじゃないよ。透理の本性の一部を手塚が身に付けることは、透理の力の一部を身につけることだからね。君を護るためにも有利に働くことがある」
「それって、手塚も護れておちびの身の安全の保険にもなるってこと?なら一石二鳥じゃん。俺もさんせーい」
どうする?と三人の目が言っている。
手塚を護る力になるかもしれない。
それが本当ならリョーマにも嬉しいことだ。
ささやかかもしれないけど、彼にしてあげられることがあるってことだから。
それに手塚が用意してくれてるものを無駄にはしたくないし。
ピアスホールをあけるのはちょっと怖いけど、彼が開けてくれるのだったら、少しくらいの痛みは耐えられそうな気がする。
でも。
「穴あけるのって痛くない?国光は器用にあけてくれそうな気がするけど、俺自信ないよ。手元狂っちゃったら取り返しつかないじゃん」
「大丈夫。痛みはないよ。術か麻酔で耳朶の痛覚を麻痺させるからね。心配だったら、どこにあけたらいいのか大石に印を付けてもらえばいい。何なら立ち会ってあげるし。仮に手元が狂っても、リョーマくんにはこないだ治癒術の基礎を教えたろ?問題ないって」
笑いながらあっけらかんと不二が言う。
「どうするにゃ、おちび」
八割方傾きかけている心を察しているくせに、わざわざそういうことを聞くんだから。
「…………国光に聞いてみる。国光がいいって言ってくれたら、穴あけてもらうし、耳環作ることにする」
「わざわざ聞かなくても……いいって言うに決まってるにゃ。賭けてもいいよ」
「賭けるって、何をさ、英二」
「菊丸様、不二様、そもそも賭けにもならないことだと存じますよ」
わざと真面目な顔をして言う透理に、菊丸と不二は声をあげて笑う。
悪い人たちではないし、大好きなんだけど、こうやって結託してからかうのは止めてほしいとちょっぴり思ってしまうのは、罪にはなるまい。
文句を言おうとしたそのとき。
「あ、リョーマくん、手塚に預けてた式神が戻ってきたよ」
手塚の執務の進行状況によってお茶の時間はまちまちになるので、執務室を出るタイミングを知らせることができるように不二が手塚に連絡用の式神を渡していたのだが。
不二の言うとおり白い小鳥が、開け放たれた窓から入ってきて、リョーマの肩に止まった。
『これから執務室を出る』
小鳥が伝えた伝言は、手塚が吹き込んだもので、彼の声。
気勢を削がれたリョーマは、言おうとしていた文句を仕方なく飲み込む。
「ほら、行っておいで。手塚、その格好、きっと喜ぶから」
リョーマの気持ちを察しているらしい不二は、悪戯っぽい笑みとともに促す。
文句を言ったところで、たぶん、きっと無駄なことだ。
天領に召喚されて約一ヶ月。
リョーマはそのことをすでに悟っていた。
「そうそう……っと、ちょっと待つにゃ。おちび、こっち来い?」
「?」
「せっかく綺麗な格好したんだから、これくらいは」
そう言って菊丸が取り出したのは、二枚貝。
口紅を携帯するための入れ物である。
ぱかりとあけると、淡い桃色の紅が見えて……菊丸はそれを指に取り、リョーマの唇をそっとなぞった。
「よし、可愛さ倍増。ちゃーんと手塚に耳環のこと聞いてくるんだぞ」
「……わかった」
生まれて初めて紅を塗った唇。
気持ち悪くはないし、自分からは見えないけどなんだか不思議な感じ。
正装と口紅と、手塚がよく思ってくれればいいなと願いながら。
「行ってきます。透理、行こ」
「はい」
見送る二人に手を振って、庭に面した窓からリョーマは外へと飛び出した。
続
タグ:[比翼連理]