庭球小説

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二章 桂香月・弐

「まだきていない……か」
 約束の場所に辿り着いた手塚は、小柄な姿が見当たらないことにそう呟く。
 が、その声に落胆はない。
 内宮の一角にある庭園。
 そこは手塚が執務を行っている太極殿から、最も近い場所なのだ。
 内宮の中でも奥まったところにある瑠璃宮で生活しているリョーマが、自分より早く来ていることなど滅多にない。
 だが、相手があの子供であるならば、待つ時間も楽しみなものだと今の手塚は知っている。
 リョーマは必ず来るのだから焦ることはないと、太極殿を出る直前に河村から渡された籐籠を大理石でできた卓の上に置いた。
 藤棚の下に作られた東屋。
 桂香月に入ってからの、午後の休憩を手塚はリョーマとともにここで過ごしている。
 毎日、というわけではない。
 執務が溜まっていないときだけなのだが、それでも三日に一度はこの時間を持てるように努めていた。
 それを前日の就寝前に伝えて、ここで待ち合わせる。
 リョーマの顔は、毎日見ている。
 といっても、就寝前の一刻にも満たない時間だけれど、その日あったことなどを報告しあうために瑠璃宮まで手塚は足を運ぶのだ。
(…………もう、あんな顔はさせない)
 そっけなく接していたころの、あの子の寂しそうな顔。
 自分に向けられた縋るような眼差しに、気付かない振りをしていた愚は二度と繰り返さない。
 だからこそ相変わらず多忙な日々に、少しでもリョーマとの時間を持つための努力は惜しまない。
 執務が一段落する時間はどうしてもまちまちになってしまうため、不二から式神を借り受けて、執務室を出るときにそれをリョーマのもとに飛ばすことにしている。
 自分が待つのはちっとも苦にならないが、リョーマを待たせることはしたくない。
 誰よりも大切にしたいと思うから。
 幼い日、『加護女』という存在に憧れを抱いていたころの気持ちを、今の手塚は確固たる決意として胸に秘めていた。
(……そのせいか、近頃では仕事の効率も上がったと乾が言っていたな……)
 リョーマを待たせたくない、リョーマとの時間を少しでも持ちたいと思う心が常にあるせいだろうか、以前にも増して書類などを処理する速度が上がっていることは手塚も実感していて。
 だからからかわれても苦笑するしかないだろう、実際。
 九つも離れた子供に、こんなにも心を傾けていること。
(……あの子が『加護女』だからか……いや、それは違うな。リョーマだからだ。そしてだからこそあの子が『加護女』なんだ……)
 天が何を持って『加護女』を選ぶのか、それは手塚にもわからない。
 ましてやリョーマは、異世界から召喚された存在だから余計に。
 もって生まれた資質……すなわち、力を揮うための器として相応しいか否か、ということもあるだろうけれど。
 かつて父の言っていた言葉。
『そうとしか思えなかった』
 というのを思い出してみても。
 父と母の間にあった信頼や、愛情などの睦まじさを思い出してみても。
 ただ異種族というだけでなく、その間に長く深く横たわるこれまでの遺恨などを全て取り払って結ばれた二人の絆を思い出してみても。
 北辰王たるものが加護女に抱く確信は。
 おそらく誰よりも大切にできる存在か否か、ということなのだろうと、リョーマと出会い手塚はそう思うようになっていた。
 加護女の操る力は万物の力。
 それこそが加護女そのもの。
 そして万物の力とは、世界そのものに他ならない。
 故に北辰王がもっとも心を傾けられる存在であることが、加護女の加護女たる意義なのだろうと思う。
 出会いは天命かもしれない。
 天がそうなるよう定め仕向けたものかもしれなくても、そんなことはどうでもいいのだ。
 いま自分の中にある心は、誰がなんと言おうと自分のもの以外なにものでもないのだから。
(もっともリョーマには、まだ自分の全てを明かすわけにはいかないがな)
 魂の番とも言える存在はまだまだ子供だ。
 良きにつけ悪しきにつけ。
 愛情に種類のあることは知っていても、それを納得しているとは言いがたい。
 手塚にとってリョーマが特別であるように、たぶんリョーマにとっても手塚は特別なのだろうと思うけれど。
 その特別の意味など考えたこともないに違いない。
 むしろそれが当然だ。
 誰だって子供の頃は、好きと思う気持ちの意味や、特別の意味なんて考えずに人と接するものなのだから。
 手塚はリョーマのことを愛しいと想う。
 それは慈愛の気持ちだけではないことをとうに自覚している。
 けれど子供のリョーマには、手塚の想いを全て伝えることはまだ重荷にしかならないだろう。
 気持ちを押し付けるような真似は絶対したくないし、そんな必要はないとも思う。
 待つことは苦ではない。
 なぜならリョーマに出会うまで六年もの時間が必要だったのだから。
 あの子がもう少し成長するまで。
 せめて一途に向けられる無償の好意と信頼の眼差しの中に、ほんの少しの熱っぽさが灯るまで。
 待つことは我慢でもなんでもない。
(……待つことは苦じゃない……だが、もう少しリョーマと接する時間がほしい……それくらいは、気持ちの押し付けにはならないだろう……)
 自分よりも、リョーマと過ごす時間の長い菊丸たちに、少し嫉妬しているだけかもしれないが。
 もちろんリョーマの気持ちを確かめてから……と思ってはいるけれど、温めている計画がある。
 今すぐどうこうというものじゃない。
 時期を見て、という類のものだが、その時期の目安も手塚の中にはすっかり決定されていて。
 それを兼ねた報告もあるから、今日は一段とリョーマが待ち遠しいのかもしれなかった。
 吹き抜けていく風が、かすかに甘い香りを孕んでいる。
 見上げれば、藤の花が今を盛りと咲き誇っている。
 青みを帯びた淡い紫色の花房が風に揺れて。
 手塚はその光景をひどく優しい気持ちで見つめていた。
 ふと、誰かが草を踏みしめてこちらに近付いてくる気配。
 一瞬リョーマかとも思ったが、違う。
 天界の将軍であるというのは伊達ではない。
 普段は王の職務に忙殺されているため、あまりそう言った部分が前面に出ることはないが、武人としても一流でなければ北辰王は務まらないのだ。
 足音は二つ。
 軽い音なので女が2人、だろうか。
 手塚の眉間にきりりと皺が刻まれる。
 リョーマと過ごすための時間。
 余人を交えることはしたくないので、この庭園への出入りは乾や大石に言って禁じた。
 もし何かあった場合は、式神を飛ばすか、私官の誰かが直接呼びに来る手筈になっている。
 私官であるなら不二と菊丸の二人が該当するが、あの二人でもありえない。
 菊丸はもちろん、武術も得手である不二が、こんな雑な歩き方をするはずがないから。
 菊丸の足音は猫のように密やかに、そして不二の歩き方は規則性をもって隙なく……だということを手塚は知っていた。
 乾たちに限って手抜かりがあるとも思えない。
 迷い込んだのか、とも思ったが、それも違うようだ。
 なぜなら足音は真っ直ぐこちらに向かってくる。
 藤棚を囲うように植えられた低木の陰から姿を現したのは、若い女。
 背後に伴っているのは女官だが、その女官が平素以上に畏まった表情を浮かべているのが見て取れた。
 女の顔には、見覚えがあった。
 別に覚えたくもなかったが、覚えざるをえなくなる程度には頻繁に手塚の前に姿をあらわしていたから。
「ご機嫌いかがですか、主上。先日はお会いできなくて残念でしたわ」
 鮮やかな薔薇色の莎麗。
 生地は当然最上級の絹で、豪奢な刺繍が入っている。
 腰まである髪は紺青。
 真珠を連ねた髪飾りの価値は考えるだに恐ろしい。
 きっちりと化粧を施した顔は、生来の端正さもあってとても美しいが、全身から香り立つような高慢さが手塚をうんざりとさせた。
「涼華(すずか)殿か……今日、この時間、こちらへの出入りは禁止にしておいたはずだが?」
「まぁ、そうでしたの?申し訳ありません。主上はどちらかと訪ねましたら、こちらの女官が案内してくれたのです」
 ぬけぬけとよくもまぁ。
 おそらく女官を脅すようにして案内させたに違いない。
 女官の顔は気の毒にも青ざめている。
 勅命ではないにしろ王のいい付けを破ってしまったことになるのだ。
 しかしそれを言うこともできず。
 手塚は小さく溜息をついた。
「そうか……おそらく私の言葉が端々まで行き渡っていなかったのであろう。そなたの責を問うつもりはない。安心せよ。そういうこともあろうからな」
 行き渡っていないはずはないが、そういうことにする。
 でなければこの女官が気の毒だ。
 明らかに安堵し、女官の顔には感謝の念さえ浮かんでいる。
「以後気をつけるよう頼んだぞ」
「ぎ、御意」
 女官は叩頭し深々と頭を下げた。
 女……涼華は、手塚のその態度が気に入らなかったのであろうか、女官を睨みつけた。
「主上のご厚情に感謝するのですね。もう下がってよろしいですわ」
 刺を孕んだ声音に、女官は身を縮込ませながらその場を後にする。
 身分の下のものは、己に従うことが当然と思っている口調だ。
 手塚自身、王家に生まれ、幼いころから人々にかしづかれてきたがそれを当然と思ったことはない。
 彼らが自分たちにそうするのは、課せられた重い責任に対する敬意あってこそだと父母に教育されてきた。
 つまり責任を果たさないものには、その資格はないのだと。
 家名を誇るのは悪いことではない。
 が、彼女やその父親は家名に驕り、人を下風に立たせることを当然としているのがあからさまであり、明らかだ。
 そういうのを好ましく思えというほうが無理なのだ。
 すずか、と母と同じ響きを持つだけに余計に腹に据えかねる。
 当初は母の存在に反発していた彼女の父親は、のちにおもねるが如く娘に母と同じ響きの名をつけた。
 その父親こそ、正位貴族の天城なのだ。
 そして当然の如くこちらへと近寄ろうとする涼華の眼差しには、纏わりつくような媚がある。
「涼華殿、今日のご訪問はいったい何用か?」
 厳しい声音で問い掛ければ、彼女はきょとんとしたように足を止めた。
 彼女には声に込められた厳しさのわけがわからないようだった。
「何用……だって、そろそろ妾(わたし)にお召しがいただけるかと思いましたので」
「なぜ?」
「何故だなんて連れないですわ。此度の『藍の儀』で不二様は『加護女』の代役をご辞退されたと聞いたのですもの。この国一番の法術師が辞退されるということは、それ以上の力の持ち主である『加護女』がその役を果たすということでございましょう?」
 ならばとうとう自分が、とでも思ったのだろうか。
 この娘は昔から思い込みが激しいところがある上に、父親に『おまえこそが加護女だ』といい含められているに違いないから……
 涼華が加護女だというなら、とうの昔にその空位は埋まっている。
 手塚がリョーマと出会うより以前に。
「涼華殿、それは……」
 極秘事項のはずだ、といいかけたとき。
「国光?」
 垣根の隙間から待ち人が姿を見せた。
 そちらに視線をやって手塚は目を奪われる。
 リョーマは……正装である裳衣を身に付けていた。
 満月期に入ったので、身体は女性化しているのだろう。
 日に透かすと灰茶に見える鳶色の瞳が、今は淡い青に変わっている。
『半陽』の固有色。
 身に纏った裳衣は、先日手塚が見立てたもの。
 仕立てあがったと報告は受けていたのだが、まさか今日着てくるとは思わなかった。
 青系統の色を基調に、リョーマのことを頭に一生懸命思い浮かべて選んだ。
 何しろリョーマに出会うまで、この手のことには一切興味がなかった手塚である。
 不二らの失笑を買いながら、四苦八苦して選んだ衣装は、想像以上に彼女に良く似合っていて手塚は不思議な感動を味わった。
 それはとても心地よいもので。
 何度でも味わいたいと思わせる、初めての気持ちだった。
 桃色の紅をうっすらと刷いた唇は、まるで花びらのよう。
 幼いながらに整った顔立ちが、なおいっそう愛らしかった。
 歳相応の美しさは『可憐』という言葉に集約される。
 手塚は花精が降り立ったような錯覚を覚え、自分にもそのような感慨が沸き起こるのだということに新鮮な驚きを得た。
 不機嫌に尖りかけていた気持ちがあっという間に溶かされ……彼女に向かって表情を和らげた。
「リョーマ」
「遅くなってごめん……これ、まだ着慣れてないから走れなくて……」
「かまわん」
 いつもの格好を思い浮かべれば、当然だろう。
 手塚が頷くと、リョーマはぱっと微笑んだ。
 その背後には、男装した式神が控えている。
 どうやら涼華のことを警戒しているようだが、目配せすると透理は安堵したように視線だけで頷いた。
 天城の姫は突然現れた闖入者(手塚からしてみれば彼女のほうがよほど闖入者なのだが)が明らかに気に入らないようで苛立たしげに睨んでいる。
 もっともそんな視線に怯むようなリョーマではない。
 それを頼もしく思いながら見守っていると、心持ちゆっくりとこちらに近付いてきて、涼華を見上げた。
「国光、この人誰?」
「正位貴族天城家の姫君、涼華殿だ」
「ふーん」
 おそらく不二や菊丸から聞いていたのだろう。
 眼差しは『なるほどこの人が』とでも言いたげで、手塚は苦笑したい気持ちを押さえるのに少しばかりの努力を要した。
 高慢な矜持の持ち主である天城の姫は、自分を無視するかのような会話に身に付けた莎麗を握り締め、リョーマを射殺しそうな視線で見下ろしている。
 無視されているだけでも我慢ならないだろうに、手塚がリョーマに向ける眼差しや表情は、優しさを滲ませているのだ。
 いまだかつて見たことのない手塚に、彼女の苛立ちが募らぬはずがない。
「俺は越前リョーマ。一応ヨロシク」
 勝気な笑み。
 手塚はそれを可愛いと思うが、涼華がそう思うはずもなく。
「無礼者!だいたいあなた、なんなのです?畏れ多くも主上の御名を呼び捨てるとは、不敬もいいところでしょう!!」
「名前で呼んでいいっていったのは国光だよ」
「なんですって!?そのようなことがあるはずありませんわ!北辰王の御名を呼ぶことを許されているのはご両親と、『加護女』たる者だけですのよっ。あなたのような子供の……しかも『半陽』風情が軽軽しく口にしていいものではありませんっ」
 激昂のあまり身体を震わせ、顔を引き攣らせているさまはその造作が美しいだけに醜悪だ。
 それだけでなく、彼女はけっして言ってはならないことを言った。
「それまでにせよ、涼華殿」
「……ですが、主上……」
「リョーマの言ったことは本当だ。わたしが彼女に名を呼ぶことを許した。なぜなら彼女にはその資格があるのだから」
「なっ」
「先ほどそなたは言っていたな。国一番の法術師たる不二が加護女の代役を辞退したということはそれ以上の力の持ち主。すなわち加護女本人がその役を務めるということだと。その通りだ」
 淡々と言葉を紡いでいるものの、手塚の声音は容赦なく厳しい。
「リョーマ、こちらへ」
 差し出した手に、彼女の眼差しが『いいのか?』と問うている。
「こちらへおいで。リョーマ」
 先ほどよりも優しく呼んでやると、リョーマはちらりと涼華を見上げて……迷うことなく手塚の傍らへとやってきた。
「もう代役は必要ない。わたしは加護女を得たのだから」
 そう言って、リョーマの肩をそっと抱き寄せる。
 左手を捧げ持って、その袖を少し捲り上げた。
 華奢な手首を飾っている水晶の鈴を連ねた手釧(うでわ)。
 五色の輝きを放つそれは、唯一加護女の腕にこそ居場所を定められた神器。
 リョーマこそが加護女である、その証だ。
「……み、認めませんわっ。そのような子供が……『半陽』が……あなたの対たる『加護女』などと、妾は絶対認めませんっっ」
「そなたが認める必要はない。リョーマが加護女であることは、天が認め、わたしが認めている。この『天鈴』こそが何よりの証であろう」
 断固たる声で、言い放つと、涼華は悔しげに唇を噛み締め、激しい憎悪を込めた眼差しをリョーマに向ける。
 その視線からリョーマを守るように、手塚は小さな身体を自分の背中に隠した。
 袍の背中をきゅっと握り締める感触に、胸があたたかくなる。
「わ、妾は……」
「そなたの言葉は、我が加護女を侮辱した。彼女を侮辱することはわたしが許さぬ。此度は見逃そう……そうそうに去ぬるが良い。そもそも本来は立ち入りを禁じていたのだからな」
 涼華の身体は屈辱にだろう、微かに震えていた。
 しかし手塚は、それを哀れには思わなかった。
 何より大切なリョーマへの侮辱は、手塚の逆鱗に触れたのだから。
 涼華は怒りと憎しみに顔を歪ませて、踵を返すとその場から走り去っていった。
 その後ろ姿を見つめながら、手塚はこれからのことを考えて少しばかりうんざりする。
 涼華は今日のことを父親に報告するだろう。
 老獪な天城がどんな手に出てくるか……
「国光?」
 リョーマの声で我に返って、彼女を見下ろす。
 薄い青の瞳。
 零れそうな大きな目に見上げられて、手塚は安心させるように微笑んだ。
「不愉快な思いをさせたな」
「ううん。俺は平気だけど……」
 首を振る、その仕種が愛しい。
 自分へと向けられる無償の信頼。
 誰よりも大切な存在を護るためならば、全力を尽くす。
 誰であっても、彼女を害させたりはしない。
 決意は深く、胸に秘めて。
「なら良い。河村がおまえの好きな菓子を作ったと言っていたぞ。せっかくだからいただこう」
 手塚の言葉に、リョーマの瞳が喜色に輝く。
 甘いものには、目がないらしいから。
「今日は少しゆっくり時間が取れるからな。話したいこともあるんだ」
「本当?」
「本当だ……透理、すまないが、茶を淹れてくれまいか」
「畏まりまして」
 脇に控えていた式神に声をかけると、彼女は首肯して準備を始める。
「俺もね、国光に話したいこと、あるんだよ!」
 腕に纏わりつくように言い募るリョーマに、手塚の顔も綻んだのだった。

                         
続

  • 2012/01/18 (水) 03:59

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