作品
二章 桂香月・伍
その日の朝、リョーマはいつもと違う気持ちで目を覚ました。
こちらに着てから目覚ましいらずになったのだが、確かにいつもとは違う……心にぴんと糸を張ったような感じ。
目が覚めて一番初めにしたことは、両の耳朶に触れること。
昨日の朝にはなかった、固い感触。
昨日の夜、手塚がつけてくれた耳環の存在が、心の内に張った糸を適度な緊張感へと変えてくれた。
日中は常と変わらずに過ごす。
違ったことと言えば、朝食も昼食も肉の類は一切使われていなかったということだけ。
野菜を中心とした、いわゆる精進料理のようなものを摂った。
天領国での儀式は一日のうちで最も聖なる時間とされているときに行われる。
それは昼と夜とが交わる時間。
沈む太陽と、昇る月……そして星たちがともにある『聖刻』。
儀式に携わる者は朝起きてからそれまでの時間は潔斎のための時間だ。
生臭なものは口にせず、必要最低限の人にしか会わない。
だからいつもだったらこの部屋に殆ど入り浸り状態の不二や菊丸も、食事のときにしか顔を出さなかった。
不二は先年までは『加護女』の代理役を務めていたこともあり、初めての儀式に臨むリョーマの付き添い役を務めることになっていたし、リョーマは当然『加護女』として儀式に参加する。
菊丸は儀式には関係していないが、二人が潔斎に入っているので止むを得ずそれに付き合っていた。
『聖刻』が訪れるまでは、外気に触れることも好ましくないため、瑠璃宮の外に出てもいけない。
リョーマは儀式の手順を復習したり、真珠を構ったりして退屈をやり過ごした。
「リョーマさま。そろそろお仕度を」
外見は猫のような雷獣だが、その性は犬に近い。
小さな毬を使ってボール遊びをしているところに、式神の声がかかって時間が近付いていることに気付く。
「わかった」
まだ遊びたそうにくるくる喉を鳴らす真珠に毬を与えて、頷いた。
真珠を居間に残したまま、ベッドスペースへと移動すると、透理が盥を手に従う。
着替える前に身を清めるのだ。
躊躇うことなく裸身を晒すと、浄泉を冷やした水に浸した布で、身体を丁寧に拭った。
そうしてまだ一度だけしか袖を通していない裳衣を身に付けていく。
一枚身に纏っていくごとに、気が引き締まる思いがする。
初めて着たときには湧きあがってこなかった気持ち。
実際に政に関わるわけではない。
『加護女』はあくまでも北辰王の対として、巫女のような象徴的役割を担う存在だから、官や民にすればただそこに在るだけでいい思われていても。
代々の北辰王の中でも最強にして至高と名高い手塚の面目を潰すような真似はしたくない。
自分の存在を公に晒す、と言う現実が近付くにつれて漠然としていた気持ちは、確固たる心構えとなってリョーマの中に根付いてる。
ただそこに在るだけでいいというのなら、真実そこに在るだけで『加護女』たる証を示す。
天鈴が腕に在るから、ではなく。
リョーマは子供で、それはハンデかもしれないけれど。
(……子供だから認めないなんて、絶対言わせない……)
数日前の天城の姫の言葉が胸にまだ引っかかっている。
(俺は子供であることを言い訳になんかしない)
「リョーマさま、肩に力が入りすぎるのはよくはございませんよ?」
「ん、わかってるよ。大丈夫」
「なら、よろしゅうございます」
透理の案じてくれる言葉に、リョーマは勝気に微笑んで返す。
大丈夫。
きっとやれる。
だって……
(俺は一人じゃないんだから)
気合を入れるように頬をぱちりと叩いて、顔を上げた。
「リョーマくん。準備できてるかい?」
タイミング良く不二の声が衝立越しにした。
「周助?うん、できてるよ」
「そう。なら、こちらにおいでよ。最後の仕上げをしてあげる」
実に楽しそうな声音に首を傾げながら言われたとおりにして、リョーマは息を呑んだ。
「…………」
「おちび、どうしたにゃ?」
「リョーマくん?」
訝しそうに二人が声をかける。
「…………二人とも、すごく、キレー」
溜息と共に漏らした感想に、不二と菊丸は顔を見合わせ、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、君も可愛いよ」
「うんうん。手塚に耳環してもらったんだねー。よく似合ってるし」
にっこり笑う二人も、当然ながら正装だ。
薄く化粧もしている。
ただそれだけなのに、二人の姿は艶姿という形容に相応しく、溜息ものだった。
不二は青みがかった紫色を基調にした裳衣で、紫丁香(ライラック)の花鈿(はなかざり)を片方の耳の上に差して、とても落ち着いてしっとりとした印象を与えている。
菊丸は正反対。裳衣は明るいオレンジ色……黄味の強い向日葵のような色を基調にしていて、快活な彼女の印象を裏切らない色使いだ。花鈿は木春菊(マーガレット)。両耳の上に素朴な白い花を差しているのは可憐ですらあった。
アクセサリーもそれぞれの色使いに合わせて紫水晶と、黄玉(トパーズ)をアクセントにしている。
正装姿は二人の美しさを改めて認識させるに充分で。
リョーマは呆けたように不二と菊丸を見つめていた。
「おちび、そんなに見るなよぅ。照れるにゃ」
自分の態度に菊丸は赤くなり、
「そうそう。君みたいに可愛い子に見蕩れられると、穴がないなら自分で掘って隠れちゃいたい気分になるからね」
不二は悪戯っぽく笑った。
「だって、綺麗なものは綺麗だもん」
「ありがとう。さ、君の仕上げに取り掛かろう。『聖刻』までもうそんなに時間がないからね」
「仕上げって何するの?」
問いかけに対する答えは、菊丸の差し出したもの。
漆塗りの浅い箱……四角いトレイのような……には絹がかかっていて、それを取ると中には耳環以外の装飾品が、並べられていた。
耳環と揃いの品と思われる、青い石をあしらった品々。
藍玉と真珠を連ねた長い項練(ネックレス)、華奢な指に似合いの指輪は銀を細工してあり、中央に嵌っているのは青星玉(スター・サファイア)だ。絹糸を編んだ綾紐の先に玉をつけた帯の飾り紐・環佩(おびだま)にはとろりとした色味の翡翠。天鈴があるので手釧(うでわ)はないが、元の世界の金額に換算したらくらくらするのが必至な金額になりそうな代物ばかりである。
送られた品を前に、リョーマも一瞬それを思い浮かべて気が遠くなりそうになった。
その中に一つに見慣れない装飾品。
櫛状の簪を二つ、小さな玉で連ねた玉条で端と端を結んだ物体。玉は三連になっていて、石の種類は蒼天玉(ターコイズ)だ。
簪は、なにやら不思議な形状をしている。
髪を留めることに重点をおいているようで、銀でできているもののこれといった細工はされていない。
そもそも髪に挿したら、玉条以外は見えなくなってしまうのではないだろうか?
「周助、これは何?」
「あぁ、珈揺(かんざし)のこと?これはね、生花を使った花鈿を固定させるためのものだよ。そのまま挿したら、ずれちゃうだろ?ほら、僕たちもしてる」
くるりと後ろを向いた不二の後頭部を真珠を連ねた二連の玉条が飾っていた。
玉条の終着点はなるほど、花鈿に繋がっている。
「生花を使った花鈿は、主に若い女性が挿すんだけど、そのための花は父親や恋人……伴侶が用意するものなんだ。もちろん君のは手塚が用意したよ。玲萌(レイホウ)」
不二の式神が主の呼び声に答えて姿を現す。
その手には小振りだか幾重にも花弁を重ねた美しい白い牡丹が二輪。
「これが手塚が君に選んだ花だよ」
頬がぱっと紅くなるのが自分でもわかった。
「で、でも国光も潔斎で外に出られなかったんじゃないの?」
零れた疑問は照れ隠し。
二人がリョーマの反応を楽しんでいるのは、明らかなことだ。
「その辺は抜かりないにゃ」
「うん。実はそれ蕾の頃から手塚の執務室にあったんだよ。ちなみに世話をしてたのは手塚本人。『藍の儀』のことが決まった翌日には、もう鉢に植え替えられて、持ち込まれてたね」
「手塚に花の世話までさせるなんて、おちび、すごいぞ」
どうやら藪をつついてしまったらしい。
言うべき言葉も見つからず、赤面しているリョーマを、不二、菊丸、透理は三者三様の優しい眼差しで見つめていた。
しかしいつまでもそうしているわけにはいかないと思ったのか、不二が手早く用意された装飾品でリョーマを飾り立てていく。
「うーん、朴念仁だとばっかり思ってたけど、案外手塚って趣味いいんだにゃあ」
すっかり仕度の整った姿を上から下まで眺めて菊丸がしみじみ言うのに、不二が苦笑しながら頷く。
「そうだねぇ。今までの手塚は見た目より実用性でものを選んでた感じだけど……まぁ、変に余分な知識がない分直感的に選んだのが功を奏したんじゃないかな。審美眼がないわけじゃないしね」
手塚がリョーマのために選んでくれた品は、どれも一級品。
衣装の素材はもちろん、繊細な細工物も、そういったことには素人のリョーマにだってそれがいいものだとわかる。
だからと言ってけっして華美になりすぎず、清潔感やリョーマらしさを引き立てるような選択は見事としか言いようがない。
姿見に全身を映してみて、驚くほどそれらの品が自分に似合っているのがリョーマには誇らしく、嬉しかった。
「リョーマくん」
「?」
「これは僕と英二から。晴れの舞台に臨む君へのお祝いだよ」
袖の中から取り出したのは二枚貝を綺麗に細工した紅入れ。
小さいながらも螺鈿の嵌め込まれているのが美しい。
ぱかりと開ければ、淡い珊瑚の色をした口紅。上蓋の内側には艶やかな牡丹の花が描かれていた。
手のひらに載せられたそれを凝視していたリョーマは、やがて二人を見上げてにっこりと微笑む。
「…………ありがとう。周助、英二」
心尽くしの贈り物をそっと唇に刷いて、いよいよ時間が押し迫ったリョーマは瑠璃宮を後にする。
祭祀の場である星彩の塔は、水晶宮のさらに奥にある。
ここには真実限られた人間しか立ち入ることを許されていない。
すなわち、北辰王、加護女、祭祀を司る官である春官長、それから助言者として占師を任じられている法術師のみ。
菊丸とは瑠璃宮を出たところで別れ、不二の後に着いてリョーマは星彩の塔を目指した。
水晶宮の奥は鬱蒼とした森になっていて、塔の姿を隠しており、僅かに上部が見えるだけだった。
その塔で、リョーマは初めて『加護女』としての務めを果たす。
森は、一歩足を踏み入れただけで空気が変わった。
時折光の粒子が飛び交っている様がひどく幻想的で……
天鈴の、音なき音が美しく森に波紋のように広がっていくのを感じた。
「神域が君を歓迎してるんだね」
「神域?」
「そうだよ。この森と星彩の塔は、世界で最も天に近い場所。すでに神々の領域なんだ」
森は『護』だからね、と不二が言う。
「だから許された人間しか立ち入ることができない。その森が新たな加護女の存在に歓喜している。天鈴はそれに感応してるんだよ……君なら、感じるだろう?」
感じる、清浄な気。
包み込まれるあたたかな気配。
そう、まるで日向ぼっこでもしてるみたいな。
もとより鬱蒼していて、昼なお暗いだろうことを想像させる森。
日没が近い今、微かな木漏れ日さえもないのに。
「許しなく神域を侵すものには神罰が下る。森がその咎人を取り込むんだといわれてるけど……君のことはとても歓待してるみたいだ。加護女だから当然かな」
五行は万物の力そのものでもある。
樹……木行は五行の筆頭。
加護女の存在に敏感に反応するのは当然かもしれなかった。
森が、リョーマを歓迎してくれている。
嬉しいのと同時に、少しだけ申し訳ない。
だってリョーマが加護女であることを受け入れたのは、ひとえに手塚と離れたくなかったからだ。
何が基準で、リョーマがこの世界に召喚されたのかはわからない。
でも、手塚と出会って、沸きあがってきた想いは……
やっと、出逢えた。
だから……離れたくない。
それだけを切望する心が全てなのだ。
手塚の加護女として相応しくあるよう、全うする覚悟はあるけど。
(……こんな不純な動機でも……俺が加護女でいいの?……)
この場に宿る神気に心の内で問い掛ければ、問題ないとでも言いたげな気配が頬を撫ぜた。
いいのかな、とは思う。
でも手塚も言ってくれた。
リョーマだから『加護女』なのだ、と。
正直な心根でいれば、それでいい……そう思うことにする。
「周助、まだなの?」
「ん。もうすぐだよ」
不二の言葉どおり、いつまでも続くように思えた森の出口は唐突に現れた。
すでに空は、夕闇の帳が降り始め、落日の陽光が燃えるように輝いている。
「…………来たか、リョーマ」
今日初めて聞いた手塚の声に顔を向けて、絶句した。
あまりのことに声も出ない。
それがどういうことなのかというと、リョーマはつまり手塚に見蕩れてしまったのだ。
長身に映える藍色の鎧甲姿。
漆黒の斗篷(マント)がうっとりするほど様になっている。
肩には、身長とさほど変わらない桃の樹から作られた弓を担いで。
腰には七星剣を佩き、兜は着用してはいないけれど、まさに天界の将軍に相応しい美丈夫がそこにいた。
眼鏡を外し、素顔を晒していることがその美貌の凄絶さに拍車をかけている。
まるで月光を映した白刃のよう。
「リョーマ?」
訝しげに問い掛けられてはっと我に返った。
頬が熱い。
きっと真っ赤になってる。
辛うじて黄昏の陽光に隠されているけれど、そうじゃなかったら林檎みたいになった顔を手塚に見せてしまっていただろうから。
「……なんでもない」
(…………何でそんなにかっこいいんだよ、もう……)
意味をなさない悪態は、心の内。
ついっと逸らした視線の先で、不二が悪戯っぽく笑っている。
きっと彼女には、リョーマの考えてることなんてお見通しに違いないのだ。
「なんと愛らしい元君でしょうな、主上」
桂の矢が収められた箱を持った老人が長い白髭を撫でながら深い声音でそう言った。
見るからに好々爺という風情のこの老人こそ春官を統べる長である。
今のところリョーマの存在を知る官は、春官長と六官の長たる天官長の二人。
実直そうな天官長は、戸惑いを隠しきれていないようであったが、年老いた高官は初めて会ったときからリョーマに対してとても好意的に接してくれている。
リョーマも人の良さそうなおじいさん、という印象の春官長に親近感を持っていて、照れ臭そうに微笑んだ。
「そうだな。天は私に至宝を降されたようだ」
春官長の言葉に頷いた手塚はリョーマに近付くと、自らの送った品々で身を飾った姿に満足そうに頷いた。
「では、主上。そろそろ……」
「あぁ。もうすぐ太陽と月が地平の対岸に平行となる……行くぞ、リョーマ」
「……ハイ」
こくんと喉を鳴らして、リョーマは手塚を見上げる。
促されるまま、彼の背中につき従い塔の中へ…………
星彩の塔は地上九階、地下三階という建物。
入り口のある一階は、壁に螺鈿細工を施されている以外は薄暗い伽藍堂であった。
見回しても階段のようなものはない。
露台のある日月(じつげつ)の間は八階。
どうするのだろうと思っていると、手塚の手のひらに背中を押された。
「リョーマ、中央の水晶盤の上に乗るんだ」
言われて視線を凝らしてみると、床の中央部分に直径2メートルほどの水晶の板が円形に嵌め込まれているのが見て取れる。
黒い御影石に同化しているのと薄暗いので言われるまで気付かなかったのだ。
みんなに倣って水晶盤に足を乗せると、それが蒼い輝きを放ってリョーマの視界を包み込んだ。
眩しいと思ったのは一瞬。
目を開けたときには、全然別の場所にいた。
部屋の造りはあまり変わらない。
八角形の堂。
壁は螺鈿細工ではなく絵が描かれている。
鳥と兎だ。
太陽に住むという金烏と、月に住む玉兎。
太陽と月の化身と言われる神獣の神話が、絵物語のように壁面を埋めているのだ。
堂の東と西の対角線上に、それぞれ露台が張り出していて……今、このとき太陽と月が二つの露台から臨むことができた。
それはなんて不思議な光景であっただろう。
日月の間、と呼ばれる所以がそれなのだと悟った。
「では、始めようか」
言って、手塚はまず太陽を臨む露台へと出る。
「元君、これを」
箱の中から恭しく差し出されたのは、矢羽も付いていない粗く削っただけの桂の矢。
リョーマがちらりと不二に視線をやると、黙って見守っていた彼女は小さく頷いた。
それに勇気付けられて、春官長の手から桂の矢を受け取る。
そうして手塚の背後に跪き、両手に捧げ持った矢を額に押し当て、『加護女』の気を込めた。
人の心も、生活も、この世に存在するありとあらゆる全て……万物が正しく巡るように、と。
リョーマの手から桂の矢を受け取った手塚が、きりりと音をさせながら矢を番え……
落日に向けて放つ。
ひゅん、と音を立てて手塚の手から放たれた矢は、北辰王の神力を得て、やがて四方に飛び散るのだ。
陰と陽が和合した清浄な気で、邪気を払う。
それが『藍の儀』。
弓と矢に用いた桃と桂もまた、邪気を払うといわれている神木だ。
日の露台から矢を放った手塚は、次に月の露台からも同じように矢を放つ。
黄昏の紅い光に照らされていた横顔が、今度は青白い月光に浮かび上がって。
リョーマは半身である男の怜悧な横顔を溜息を付くことすら忘れて、見つめ続けた。
続
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