作品
二章 桂香月・六
「『藍の儀』を無事滞りなく終えたことをみなに報告する」
硬質なテノールが独特の張りを持って朗々と響く。
太極殿の正面に設えられた舞台。
広場を臨むその場所に立ち、叩頭している諸官や正位貴族たちを見下ろして、リョーマは自分の足が少しだけ震えていることを自覚していた。
今この広場には、紫電宮に仕官している官吏が全て揃い、正位貴族も一同に介している。
全員が叩頭しているから後頭部しか見えないけれど、その様は圧巻だ。
前に立つ手塚が、リョーマに視線を寄越して頷いた。
その眼差しに彼の気遣いを感じる。
リョーマは深呼吸をして緊張を和らげるように努め、手塚に向かって小さく微笑んだ。
(……しゃんとしなきゃ……!)
後ろには不二と菊丸がついていてくれてる。
手塚だって……
だから何一つ臆することはない。
真っ直ぐ顔を上げる。
手塚を見ると眼鏡をしていない涼やかな目元が優しさを滲ませた。
「今日は報告することがもう一つある。みな顔を上げよ」
諸官を見回しそう告げると、そこに叩頭していた全員が顔を上げる。
注がれる視線。
そしてざわめき。
古来より、神事・式典に際して北辰王の傍らにあるは『加護女』のみ。
先年まで代理を務めていた不二は、けっしてこの位置に立つことはなかったと聞いている。
今リョーマが立っている場所は『加護女』にしか許されていない場所。
一身に集まる視線に怖じけることなく、口元を綻ばせた。
全てのプレッシャーを、力にして。
最強にして、至高といわれる北辰王の『加護女』として恥じないように。
そのとき。
音が響いた。
耳に聴こえるのではない魂に響く音。
天鈴の清んだ音色が波紋のように、心を渡っていった。
それはリョーマの心にだけ響こえたのではないようで……
次の瞬間には広場に満ちていたざわめきが消えた。
怪訝な視線は、敬意を孕んだものに。
やがて彼らは、命を受けたわけではないのに再び叩頭していった。
何をしたわけでもない。
ただ微笑んだだけだ。
緊張で強張った顔など見せてはいけないと思ったから。
そしたら天鈴が反応して……
傍らの手塚を見上げる。
すると彼は身を屈めて、リョーマを片手で抱き上げた。
「みなには、長らく待たせたことを詫びる。だが私はついに『加護女』を得た。天より降された唯一無二の至宝と共に、これまで以上に天命を護り、国を安寧に導くことを、北辰王の名に於いてここに宣誓する!」
凛とした声音は、手塚の断固とした決意を如実に表していた。
その横顔は気高く、リョーマの胸の内は誇らしさで満たされる。
手塚の護りたいと願うもの、導きたいと思うもの……手伝いたい、支えたい……そのための力になりたい。
それこそが自分の……『加護女』の意味なのだと思う。
リョーマの決意に応えるように、天鈴はその場にいた全員の心に響き続けた。
太極殿の舞台を下りて、危うくへたり込みそうになったのを支えてくれたのは菊丸だった。
「おちびちゃん、お疲れ様」
「うん」
不二も頷いてくれて、二人の笑顔に迎えられ気にしないようにしていてもやはり緊張していたのだろう、全身から力が抜けた。
「ご苦労でしたな、元君」
声をかけてきてのは太師……つまり桃城の父親。
痩身に、きっちりと礼服(らいふく。男性の正装)を身に纏った姿はその息子とはイメージがかけ離れていて、いつも可笑しくなってしまう。
「俺、立っていただけだよ」
「立っていただけ……それが重要なのですよ、元君。官は『加護女』がいないことに慣れ始めてしまっていた。だからこそあなたに向けられた視線の重圧は並々ならぬものだったはず……それを天鈴の音色で治められた。天鈴の音色は加護女の心の音色、私は先代様よりそう伺っております」
「先代様?それって国光のお母さん?」
「左様です」
太師は、手塚の父親の私官であったから、その妻であり先代の『加護女』であった手塚の母と面識はあって当然。
名は鈴鹿御前。
詳しいことは知らないけれど、手塚の美貌は彼女譲りだというからとても綺麗な人だったに違いない。
「元君はその御心でみなを治めたのです。ご立派でした」
「太師の言うとおりだぞ、リョーマ」
「国光」
「緊張していたのに、よく頑張ったな」
「へへ……」
労ってもらって、照れ臭さが込み上げてくる。
「でも、まだまだこれからが本番にゃ」
「そうだね。宴では主だった官や正位貴族との顔合わせが待ってるから」
菊丸と不二が心配そうに眉を寄せた。
二人が何を言いたいのかはわかっている。
「確かにそうですな。だがいくらなんでも主上が主催されている宴。あえてご不興を買うような暴挙はなさりますまい」
太師の言葉に、手塚は難しそうな表情をした。
「だといいのだがな……俺は着替えなければならん。宴には少し遅れるだろう。不二、菊丸、リョーマの側から離れるな。頼んだぞ」
さすがに鎧甲で宴への参加は無粋というものらしい。
直接宴の間には向かわず、手塚はいったん太極殿内の執務室に戻って衣服を改めなければならないのだ。
「了解」
「まっかせるにゃ!」
頷いた二人を信じてないはずはないが、後ろ髪引かれる思いなのか手塚はリョーマをしばらく見つめて……太師に促され、ようやくその場を立ち去った。
「じゃあ、宴の間に行こうか、リョーマくん」
「うん……でも、俺たちは着替えないの?」
「せっかくの正装なのに着替えてどうするにゃ、おちび。女は宴の華ってことで着飾るのが義務。今日の主役ならなおさら、そのままでなきゃ」
この格好が嫌なわけではないが、慣れないためやっぱりちょっと肩が凝る。
そう思って切り出したのだけれど、案の定一蹴されてしまった。
不二に視線を向ければ、おかしそうに笑って首肯している。
みんな誉めてくれたし、手塚も喜んでくれてるし……慣れとかなきゃいけないって言うのもあるし。
これは我慢するしかないだろう。
二人に案内されて、宴の間に向かう。
内宮の外に出たのは初めてなので、周囲を興味深げに見回しながら。
プライベートスペースである内宮は、落ち着いていながらも華やかな雰囲気であるのに対し、太極殿は王が執務を行ったり、官と謁見したり、朝議が行われたりという政の場であるので、色使いからして質素だが、地味というわけではない。
年季の入った柱などはそれ一本とって見ても手入れもいいのだろう、飴色に輝き、厳粛な雰囲気を醸し出している。
広い廊下に歩を進めるたびに響くのは環佩(おびだま)の玉がぶつかり合う涼しげな音。
擦れ違う人々がリョーマたちの姿を認めると、拱手と会釈でもって礼を表す。
当然そんな風な態度を向けられるのは初めての経験だったので、内心たじろいだが、変に意識する必要はないと思い直した。
彼らにとって『加護女』とはそうするのが当然のことなのだろう。
ただ勘違いしてはいけないのは、現段階においては『加護女』という存在に敬意を払っているのであって、リョーマ自身に対しての感慨はほとんどないのだということ。
彼らのリョーマ自身への評価は、これからのリョーマが『加護女』としての責務をいかに果たしていくかにかかっているのだから。
それを怠れば、いずれは手塚の面目も丸潰れになる。
北辰王の半身・西王母に任じられた万物の巫女である加護女が無能であってはならない。
国の中心であり、天界の将軍である北辰王を支え、定められた儀式以外は影に徹すること。
それを地道に果たしていって初めてリョーマ自身が評価に足る存在になるのだ。
そのための決意は、すでに胸にある。
なぜなら、手塚の傍にいるためには一番為さねばならないこと。
リョーマにとってはそれこそが何より大切なこと。
おどおどとした『加護女』など、誰も望んではいないだろうから。
宴の場で初めて会った天官長や、春官長以外の高官にも自然体で接して、貴族を前にしても臆さない態度で応対した。
「リョーマくん疲れたかい?」
「ううん。大丈夫」
官や貴族がひっきりなしに挨拶にくるので、やや辟易としていたところに不二が気遣って声をかけてくれる。
宴というから格式ばったものかと思ったら、意外や意外立食形式に近いような感じだった。
不二に聞いたら、形式に則った宴もあるらしいが、今回の目的はあくまでもリョーマのお披露目。
堅苦しいものよりは、和んだ雰囲気の方がいいだろうということで形式的なものではない宴になったのだという。
主催者は手塚。
おそらく宴慣れしていないリョーマへの気遣いも含まれているのだろうと、心がじんわりあたたかくなった。
「無理しちゃだめにゃ。つかれたなら、奥で休む?」
広間の奥には御簾を下ろしてあり休めるようになっている。
上座に当たるため、北辰王と加護女を含んだその近親者のための場所だ。
このような酒宴などの場合には休憩場になるし、形式的な宴の場合は、御座所として定位置になる。
そこへ行こうと心配してくれる菊丸にも、大丈夫と笑いかけた。
「じゃあ、何か飲む?お酒は飲めないんだよね……だったら果水か蜜湯がいいかな。取ってくるね。英二」
「わかってる」
公の場には式神は同行させるものではないということで、透理は姿を現していない。
もちろん呼べばすぐに来てくれるが、式神が身近にいない以上手塚に託されたこともあり、菊丸と不二の警戒はいつも以上だ。
その気持ちが嬉しいから、リョーマは傍らの菊丸の手を軽く握った。
「おちび?」
一瞬怪訝そうな顔をした菊丸だったけど、リョーマの顔を見て、すぐににっこりと笑顔になる。
そこへ。
「菊丸さん!」
聞いたことのない少女の声。
しかし菊丸の方は心当たりがあるようで、声のしたほうに親しげな眼差しを向けた。
リョーマもそれに倣う。
桃色の裳衣を纏った、リョーマより二つ、三つ年上の貴族の姫らしかった。
肩に届くくらいで切り揃えた髪と、耳の上には白い林檎の花の花鈿……少し吊り気味の眦は勝気そうで、秀でた額は利発な印象を与える。
充分美少女といってもいい造作だが、彼女の魅力はきらきらと生命力が輝く瞳にあった。
(……いい『気』、の人だな。でも……なんかこの人を守護しているような気……思念……知ってるような気がするんだけど……)
初対面と首を傾げるリョーマをよそに、菊丸は彼女と言葉を交わしている。
「久しぶりだなぁ。今日は父上はどうしたの?」
「父は持病の腰痛が最近とみに悪化しまして、寝込んでいます。ですから、私が名代で……」
心配そう、というよりは仕方なさそうに笑う。
そうしてリョーマに向き直った。
「お初に御目文字致します、元君。正位貴族・橘家当主が名代で参りました娘の杏と申します。本来であれば、父が罷りこすのが礼儀ではありますが先のような事情で叶わず、また兄も他国へと遊学中のため代わって私がご挨拶に参りました。橘家一同、あなた様を慎んでお迎えいたします」
深々と一礼するその姿に、誠意を感じてますます好意を抱く。
『加護女』に対してだけではない、リョーマに対する親しみのようなものを感じたから。
「顔、上げてよ。俺は越前リョーマ。リョーマでいいよ、よろしくね」
「リョーマ……くん?わかりました。では、私のことも杏とお呼びくださいませ」
「……敬語も止めてくれると嬉しいんだけど」
彼女……杏は、驚いたような表情をした後、ぱっと表情を明るくした。
「わかったわ!よろしくね」
砕けた口調が、なんだか嬉しかった。
友達になりたいって思ったから。
「桃城くんの言ってたとおりの子なのね」
「え?桃ちゃん?」
なんでそこに桃城の名が出てくるのか。
桃城も正位貴族の出だから、面識はあるのだろうが、それにしたってなんだか……
「えぇ。当代の『加護女』はぜーったいおまえと気が合うはずだって。やけに自信たっぷりだったんだけど。ふふっ。本当にお友達になりたく思える子でよかった。あ……お友達なんて、失礼だったかしら?」
その言葉に、首を横に振る。
手塚は大切な人。
不二たちは家族だから、友達という感覚ではない。
だから、杏がこの天領で得た初めての友人……なのだ。
「ううん、そんなことないよ!」
「ありがとう」
「よかったにゃ、おちび」
「うん!でも、桃ちゃんと杏って親しそうだけど……幼馴染かなにか?」
同じ正位貴族同士。
そういうこともあるかもしれないし、それだったら納得いくのだけれど……
「えぇ。桃城くんと、私、私の兄、それから畏れ多くも主上は幼馴染なのよ。お父様同士が仲がよくて小さい頃はよく遊んでいたの」
「へぇ、国光も?」
それは初耳だった。
けれど幼馴染なら、親しいのも当たり前かと思いかけたところで、菊丸が意味ありげに口元を閃かせた。
「杏ちゃーん。それはすべてじゃないっしょー?いくら幼馴染だって、年頃の正位貴族の姫がそんなに頻繁に男と交流持てるわけないんだから」
「え?」
「き、菊丸さん!」
杏は紅くなるが菊丸が構うわけがない。
「いーじゃん。別に。いずればれるって……あのな、おちび。杏ちゃんは桃の婚約者なんだ」
婚約者。
貴族同士なら政略結婚という言葉も閃くが、この杏の感じからして、恋人同士という風情で……
「えぇっっ」
意外だった。
あの色恋沙汰にはちっとも興味ありません的な体育会系の桃城に、こんなに可愛い恋人がいたなんて。
目をぱちぱちさせて驚くリョーマに、杏はさらに真っ赤になって、菊丸は面白そうな表情を浮かべている。
でも確かに、杏を守るかのような念。
言われてみれば覚えがあって当然だ。
面倒見のいい桃城は、警護の仕事として以外にもよく瑠璃宮に顔を出してくれて、暇潰しに付き合ってくれたりした。
七星剣の中では、不二・菊丸についで親しい存在だ。
リョーマに兄弟はいなかったけれど、お兄ちゃんがいたらこんな感じかな……と思うこともある。
杏を守る馴染みのある気配は、桃城のものだったのだから。
(ふーん……意外だけど、桃ちゃん、杏のことすっごく大事に想ってるんだ)
普段あまり傍にいないのに、守護の念を感じるっていうのは、それだけ想いが深いってことだから。
意外だけれど、それもまた桃城らしいと感じられる。
「まぁ、楽しそうですこと」
水を差したのは、できれば二度と聞きたくなかった声。
菊丸と視線を交わして、うんざりと目配せしてしまう。
振り向くと予想通り、天城の姫が一際豪奢な緋の裳衣で立っていた。
周囲の空気にもさーっと緊張のようなものが広がっていくのが感じられた。
「お久しぶりですわね、杏様」
「えぇ……お久しゅう」
声が固くなったことから、杏も天城の姫のことをあまり快く思っていないのだな、というのが伺えた。
涼華はちら、とリョーマに顔を向け冷たい眼差しを寄越した。
「先日は、大変失礼致しましたわ、元君」
棘のある呼びかけに、ちっとも謝意など感じられない。
「……別に、気にしてないし」
「まぁ……さすが元君であられる方は寛大ですのねぇ……ですが、大らか過ぎるというのは、下品と紙一重ではなくて?」
「…………」
「少なくとも公の場で大声を出すなどはしたないことこの上ありませんわよ。卑賤の出自とはいえ、主上のご威光にも傷がつきましょう」
「涼華殿。それは元君に対して失礼だろう」
リョーマは無視していたが、エスカレートしそうなのを察してか菊丸が窘める。
だが、それをこそ涼華は気にいらなかったようだ。
「お黙りなさい!いくら私官に召し上げられているとはいえ、元を辿ればたかだか娼妓の分際で、妾に対して意見するとは何事です?身分を弁えなさい!!」
自分のことはいくら悪く言われても、謂れのないことと相手にしなければいいだけだが、家族とも思う人間を貶められては黙ってられない。
菊丸が娼妓……つまり、芸を売るついでに身体を売ることを生業にしていたとは初めて聞いたことだけど、それがなんだって言うのか。
「弁えるのはあんたの方だと思うけど」
「なっ」
「…………おちび」
背は涼華のほうが高いので、リョーマはその顔を見上げ、ひたり……と真っ向から睨みつけた。
「正位貴族の姫だと偉くて、娼妓だと卑しいの?人間に優劣つけるなんて心が貧しいって宣伝して回ってるようなもんじゃない。人のこと貶めてるヒマがあるなら、身分しか拠り所にできない自分自身を弁えたら?」
天領に召喚されて、ここまで容赦なく毒舌を浴びせたのはこれが初めてだ。
手塚に迷惑をかけたくないから、自然体とはいえ少々猫を被っていたりもしたが……そんなもの振り捨てるくらいに、リョーマは怒っていた。
「あんたは確かにお姫様かもしれないけど、たまたま正位貴族の家に生まれたってだけのことじゃん。それしか自分に価値を見出せないのって、あんたが卑しいって蔑んでる存在よりよっぽど惨めってことだ。そりゃそうだよね、なーんにも気付かないでお山の大将気取ってるんだもん。見てるこっちが恥ずかしいよ」
鋭い舌鉾に、反論する隙もないらしい涼華は、整った造作に美しく化粧を施した顔を屈辱で紅く染めている。
周囲もしん、と静まり返ってしまったが、そんなこと知ったこっちゃない。
「……こ、子供の癖に生意気ですわっ……『加護女』だからって主上のご威光を嵩に着て!あなたなどにあの方の半身が務まるわけがないっっ……」
貧困なボキャブラリーの反論は、リョーマに一ミリの感銘も与えなかった。
「それまでになさったら、涼華様。元君の仰るとおりですわ。他人を貶めることは、自らを貶めることでしかありません。それをわかっていないあなたに、分はない。主上がお出ましになる前にお下がりになるがよろしいでしょう」
きっぱりと言い放ったのは杏。
「あなたの指図は受けませんっ」
頭に血の上っている涼華には届かない。
それは助け舟であったのに。
「杏殿の仰るとおりですよ、涼華殿」
「…………周助」
飲み物を取りにいっていたはずの不二の声。
顔を向ければ、厳しい表情で涼華を見つめていた。
一瞬リョーマと見交わした視線には、なんだかよくぞいったとでも言いたげな光を滲ませて。
「あなたは引かれるべきだった……ですが、もう遅い。主上がお出ましになっておられます。あなたの暴言は、式神を通じて報告させていただいた」
「…………二度目はない、そう伝えていたつもりだったのだがな」
リョーマには優しい声が、今は底冷えするような冷たさを孕んで響く。
屈辱に紅くなっていた涼華の顔は、青褪めている。
いつのまにかできていた人垣が自然と割れて、手塚がこちらへと近付いてきた。
背後には、大石、乾、河村、桃城、海堂……残りの七星剣を全て従えている。
その迫力は、生半可なものではなかった。
「そなたは、私の『加護女』だけでなく、私が信を置く官も侮辱した。それは私自身を侮辱することと知れ。めでたい宴席に、無粋極まりない振る舞いも目に余る……天城涼華、当分の間そなたの昇殿を禁じる…………よいな、天城」
手塚が冷たい眼差しを向けた先には、壮年の男がいて、リョーマはそれが涼華の父……天城家の当主なのだと悟る。
どのように出るだろうか……不二たちが緊張しているのがわかった。
天城は……その場に膝を付き、叩頭した。
「主上のお怒りはごもっとも。非礼は深くお詫び申し上げる。娘への処遇も、当然のことと受け止めましょう」
「…………」
「これ以上の宴への参加は、非礼を重ねることとなりましょう。我らは、これにて失礼させていただきます。皆様にも申し訳ないことをいたしましたな……涼華」
「お父様!!」
「いいから、来なさい。それでは、主上……皆様……」
何か言いたそうな涼華を連れて、天城は拍子抜けするほど大人しく立ち去っていったけれど、顔を上げた一瞬のその表情は……
まるで慇懃な仮面を被ったかのようにリョーマには思えて、軽い悪寒が背を駆け抜けた。
「みな、宴を中断させてすまなかった。まだ夜は始まったばかりだ。明日の執務のことは考えなくてよいから、存分に楽しんでくれ」
先ほどまでの冷たさはどこへやら、いつもの調子で手塚が周囲に声をかけると、初めはぎこちなかったものの、すぐに酒宴独特のざっくばらんな雰囲気を取り戻す。
「国光……あの、ごめんなさい。騒ぎ、起こしちゃった。でも、英二を怒らないでね。俺が言い返したのがいけないんだ」
リョーマのすぐ前までやってきた手塚に、後悔はしていないもののしゅんとして謝ると、彼は気にするな、と笑った。
「先にちょっかいをかけてきたのはあちらだろう。むしろおまえのいい様は、小気味よいくらいだったぞ」
「そうそう、誰かが一度はきっちりわからしてやんねーといけねーことだしな」
すっきりしたぜ、と闊達に笑ったのは桃城。
他の面々も言葉にしないものの、同意しているのが見て取れた。
「杏も、よく言ってくれたな」
「畏れ多いことです、主上」
「久しぶりだが……父御はやはり来れなかったようだな。桔平とはまだ連絡が取れないのか?」
「はい……あの兄の放蕩ぶりには、ほとほと呆れて物も言えません」
「まぁ……やつのことだから、殺しても死なんだろうが。連絡の一つもよこさんとは、困ったやつだ」
手塚の口調から、それでも信頼しているのだなということが伝わってくる。
杏の兄で、手塚も信を置いているならきっとリョーマも好意を持てるに違いないと思った。
「おまえも今日は、ゆっくり楽しんでいってくれ。桃城、帰りはおまえがちゃんと送っていくように」
「へーいっ」
「あっ、何よ、そのやる気のない言い方!いやなら送ってくれなくてもいいんだから!」
「ああ?いやだなんていってねーだろーが」
痴話喧嘩じみた言い争いを始めた二人をよそに、リョーマたちは奥に設えられた御簾の内側に入った。
その途中。
「おちび」
「なに、英二」
「さっきはありがとな」
「なんのこと?」
菊丸が何を言いたいのかわかっていたけれど、リョーマはそう切り替えした。
涼華が、菊丸のことを娼妓だと罵った瞬間、ものすごく痛そうな顔をしたから。
だから、何も聞かなかったように振舞う。
いつか菊丸の口から、話してくれると信じてるから。
菊丸は軽く目を眇めて、もう一度小さく、ありがと、と言った。
河村と海堂が、何か口に入れるものを取って来ると出て行って……口を開いたのは不二だった。
「さっきの天城殿の態度……どうみても含みがあるように思えたのは、僕だけかな」
「いや。あの御仁にしてはあっさりと引き下がりすぎだろう。殊勝さを装って何を考えているのやら……」
「乾の言うとおりだな。あまり人を疑いたくはないが……手塚、どうする?」
「……すぐにどうこうということはないだろうが、監視は続けた方がいい。警戒は怠るな」
その場にいた全員が視線を見交わし、頷き合った。
「せっかくの宴だ。深刻な話はここまでとしよう……リョーマ」
「ん?」
「天官長がな、おまえのことを誉めていたぞ。あまりに幼い『加護女』なので戸惑ったが、舞台の上でのおまえを見て、なるほどと思ったそうだ。戸惑い不安を感じた非礼を詫びたいとな」
「本当?」
「あぁ」
「よかったな、越前」
こちらがにっこりしたくなるような笑顔で大石が言ってくれたのに、リョーマも顔を綻ばせる。
それを境に、お披露目の宴の時間は和やかに過ぎていったのだが……
いろいろあった一日、意識は少しずつ朦朧として。
「リョーマくん……リョーマくん?」
不二の声が、遠くで聞こえる。
「なんだおちび、寝ちゃったの?」
菊丸の声も。
「俺たちには宵の口でも、越前にはちょっと厳しいかもね。今日は初めての大役をこなした日だし」
河村の声には、優しさと心配が滲んでいる。
「部屋で寝かしてやったらどうっスか?」
朴訥な調子は海堂だ。
「そうだね。手塚、連れてってやったら」
抑揚がさっぱり感じられないのは乾。
「みんなだいぶ飲んでるみたいだから、抜け出しても大丈夫だろう」
御簾の外を伺っているのか、大石の声は誰よりも遠かった。
「そうだな。そうしよう」
みんなの声は遠いのに、手塚の声は誰より近くて。
瞼はどんどん重くなっていくのに、心臓がとくんと強く脈打ったような気がした。
温もりに包まれたかと思ったら、浮遊感。
しっかり支えてくれてるのがわかるから、ちっとも不安でなくて、安心できる。
「部屋にいけば透理が着替えとかしてくれるはずだよ。くれぐれも君がやったりしないようにね。小さな子に無体はいけないよ」
不二のからかうような声音。
無体な真似っていったいなに?
聞いてみたかったけど、声にはならなくて。
「誰がケダモノみたいな真似をするか」
手塚の返答は、呆れたような怒ったような感じで……みんなの笑い声が徐々に遠ざかっていった。
しばらくして、冷たい風が頬を微かに撫でたのに、リョーマは手放しかけた意識を掴みなおす。
これだけは言っておかなくてはと、思った言葉……
「……くにみつぅ……」
「リョーマ?起きたのか?」
問いかけに答えるよりも、伝えたい。
「おれ……がんばるから……ね……」
「…………あぁ、期待している」
低く優しく……そして甘い手塚の声。
夢現に聞いたのが、その日の最後の記憶。
心地よい眠りへと誘われるまま、リョーマはゆったりと意識を手放していった。
終幕・三章に続く
タグ:[比翼連理]