作品
三章 梔涙月・弐
「手塚、ちょっといいかな?」
雨の音を聞きながら、午後の執務をしている最中だった。
官から奏上された書簡に目を通していると、執務室には滅多にやってこない河村が控えめに声をかけてきたのだ。
「どうした?珍しいな」
傍らで書類の整理をしていた大石や乾も不思議そうな顔をしている。
「いや……その……話したいことがあるんだけど……」
どこかおどおどとした態度は、武器を持っているときの彼からは想像もつかない。
視線を彷徨わせている様は、言いたくても言い出せないのだろうということを伺わせた。
「手塚、天官長へ渡す書類はこれでいいのか?」
「あぁ、頼めるか、大石」
「了解。行ってくるよ」
「じゃあ、俺は太師殿のところに『誓約の儀』の打ち合わせに行って来るかな。河村、俺たちが帰ってくるまで手塚の身辺頼んだぞ」
「あ……あぁ、ごめんな、乾」
雰囲気を察して席を外してくれた二人に恐縮している河村に、椅子を勧めて。
「で、話というのは?」
「う……ん、周助のことなんだけど」
「不二?」
確かに河村がわざわざここまで足を運ぶほどの理由といえば、不二を置いて他ならないだろう。
河村は、不二をとても大事にしている。
私官の中で、もともとの幼馴染だった桃城を覗いては、不二が一番長い付き合いだ。
手塚がまだ王位を継承する以前、両親が健在だった頃……不二は紫電宮に召された。
法力を制御しきれない術者として問題になっていたのを、母・鈴鹿御前が引き取って、力の使い方、制御の仕方などを教授したのである。
初めて顔を合わせたのは手塚が十歳、不二は七歳でその頃にはすでに不二は『半陽』であった。
初めて変化したのは六歳、通常から考えても早すぎる分化で、その上陰の気が強いことから新月期以外は女性の姿を保ったままという歴史の上でも稀な『半陽』と言って良かった。
そうあの頃の不二は、とても不憫だった。
哀れむつもりはない、不二だってそうされるのは受け入れるまい。
けれどそうとしかあの頃の不二を表現する言葉を手塚は知らない。
制御できない桁外れの法力と、『半陽』の中でも異端であることで、半ば自我崩壊を起こしかけていた……
鈴鹿に引き取られるまで、いろいろなことがあったことがあったのだろう。
部屋に閉じこもり、鈴鹿以外に会おうとはしなかった。
それから少しずつ鈴鹿の後にくっついて外出するようになり、崩壊しかけていた自我も安定を取り戻して、手塚とも話をするようになった。
不二が私官の中でも手塚に最も遠慮のない物言いをするのは、家族のように育ったからだ。
しかし母が父と共に亡くなってから……
鈴鹿の存在は、精神が安定した後も不二の中では大きな支えだったに違いない。
そのうち菊丸という親友も得、何とか自己を保つよう努めていたのだろうが、ときおりその箍が外れるらしく、夢遊病者のように深夜内宮の中を彷徨ったり、力の制御を誤り鬱状態に陥ることもしばしばだった。
両親亡き後、不二は手塚にとって唯一家族と言える存在。
心配は当然の如く。
けれど、人に弱みを見せることを善しとしない不二は手塚の前ではいつも平然を装った。
菊丸の前でも。
付き合いが長い分だけ、不二の性格はわかっていたから……
見守るしかできなかった。
菊丸にとっての大石のような……そんな風に心を預けられる存在が、不二に早く現れればいいと祈ることしかできなかったのだ。
不二の精神状態がますます均衡を欠いていくのを歯痒く思うしかなかった、二年前の榴火月(りゅうかづき)での武徳の会。
優勝し、思いもかけない願い事を口にした河村に、興味を覚え……やがて私官として召し上げたのだが……
何がきっかけであったか、手塚にも心当たりはある。
けれど不二にも河村にも問い質したことがないので確証はないし、詳しいことは何一つ知らない。
いつのまにか、本当に自然に……二人は共にいる、というか不二が河村の傍にいたがるようになって、次第に彼女の心は安定し、法術師としての名を高めていった。
やがて将来を誓うほど親密になって。
妹を嫁に出すような複雑な心境を少し味わったものの、河村になら不二を任せられる……そう思っている。
河村の不二を見つめる眼差しはとても深く優しい。
それは不二も同じことで……最近になって手塚自身も、その心持ちを自分のものとすることができるようになったから余計にそう思うのかもしれない。
いま自分の前で、言葉を選ぶように逡巡している河村の表情は不二を案じる気持ちでいっぱいなのが見て取れた。
手塚は急かさず、河村が口を開くのを待った。
「最近周助の様子がおかしいんだ。様子って言うか体調かな。それもちょっと違うかもしれない……どういっていいか俺には良くわからないんだけど……」
「あぁ……ひょっとして法術関係か?」
河村はこくりと頷いた。
法力に関する感覚を、常人が口にするのは難しい。
「おまえの言葉でかまわん」
「うん……天城殿の動向を周助は遠見の術で監視していたんだよね」
「そうだ。俺が頼んだ。生身の間者ではあの天城の動向を余さず監視するのは無理だからな」
それで、と先を促す。
「式神を放って、監視を続けてるんだけど、何か変なんだって。ときどき誰かに邪魔されてるような……そんな感じがするって言ってた。新月期に入った辺りからだから、はじめはそのせいかと思ってたらしい、でも……心配で今朝も顔を出したら、女性体になってて……女のときのほうが感覚が研ぎ澄まされて法力も強くなるからね、はっきりわかったんだって。やっぱり誰かが周助の術を妨害しているときがある……それが彼女に違和感って言うか不快感を与えてて堪らないんだって、俺にそう言ったよ。念のため、手塚の耳にも入れといたほうがいいと思ったんだ」
「そう言えば、二日前の試合のときもリョーマが不二の具合が悪そうだ、と気遣っていたな。あの時不二は陰の気が不安定だからと言って……以前にもそういうことがあったから気に止めなかったんだが……」
「うん。周助、越前の前ではかなり我慢してるみたいだよ。心配させたくないらしい……周助は……先代の鈴鹿様にしてもらったことを今度は自分が越前にしてやるんだってそう言ってたから……」
「…………そうか、不二がそんなことを……」
父も母も手塚と不二を分け隔てることはなく、平等に優しかったし、厳しかったし、愛情を注いで育ててくれた。
母は、縁あれば女の子を産んでみたかったと公言して憚らない人だったので、不二をとても可愛がっていた。
その愛情が、不二を立ち直らせたといっていい。
実家との縁が切れたわけではない。
両親は健在で、春蓮でも著名な商家だ。
姉と弟がおり、両親を手伝っている。
家族の中で半陽なのも、人ならざる力を持って生まれたのも不二だけ。
けれど不二の家族は、過ぎるほどの力を持った子供を忌避したりはしなかった。
大切に自らの手で育てたいと、思ってはいても……不二の持って生まれた力は制御の術を知らなければ自身はもちろん周囲の全てを傷つけてしまうかもしれない危険な両刃の刃だったから……。
泣く泣く人づてに紹介してもらった法術師に我が子を預け、その法術師が不二の法力の強大なことに嫉妬した挙げ句匙を投げた後、鈴鹿が引き取ることを申し出るまで。
愛情はそこにあった。
けれど家族のそれが不二に届くことはなく、彼女は最も愛情を与えられなければならないときを、危うく枯渇したままで過ごさねばならなかっただろう。
今も家族との交流はあるし、ときどき里下がりもしているのだが。
不二にとって崩れかけた己を支えてくれた鈴鹿もまた、いま一人の母。
突然召喚され、生まれ育った世界と、家族と別れねばならなかったリョーマに少しの寂しさも不安も感じさせたくない気持ちは、自分にけっして劣りはしないだろう。
あの頃……鈴鹿が、不二を支えたように。
しかし。
「あの不二が我慢を強いられるほどか」
「うん。いつもじゃないけど、ときどき相当辛いみたいだ。この前は夜中に突然起きてね。脂汗がすごくて……」
夜中、という言葉に一瞬戸惑った。
が、よくよく考えてみれば当然だ。
将来の約束もした恋人同士なのだから、閨を共にするのは自然なことだろう。
大石だって、ときおり瑠璃宮の菊丸の部屋から出勤してくることがあるのだから。
執務に支障なく、場所柄を弁えているのであればとやかく言うことではないのはわかっているのだが。
どうにも河村と不二は、そう言った恋人同士の秘め事の生々しさを感じさせないため、ああそうなのかといまさら納得する羽目になってしまった。
「手塚?」
訝しげに問い掛けられて、慌てて我に返る。
「あぁ、すまない。だが不二の術を妨害できる存在か……果たしてそれほどの力を持ったものがいるのか……」
不二の法力は、天領国内に並ぶものがいないといっていい。
当代一の法術師というのは、伊達でも冗談でもない、真実。
北辰王の神力、覚醒した加護女の万物の力……それを除けば、不二を凌ぐ人ならざる力を持つ人は少なくとも天領国内にはいないはずだ。
他国のものが、天城に荷担しているという可能性もある。
天領国を統べる北辰王、天帝の代理人の地位は覇者たらんとするものには、喉から手が出るほど欲しいものだろう。
例えその地位の本当の意味を理解していなくても。
過去にも何度か他国からの干渉があった。
いままた何処かの国の人間が、天領国内に侵入を果たしたのかもしれない。
この国の戸籍を持たないものが、入国するには相応の手続きが必要だし、隔絶された秘境にある天領国への最短路は、交易飛行船・天鳥船(アメノトリフネ)を使うことだが、それに乗船するにも厳しい審査がある。
大陸の中央、天海の真中に浮かぶ天領国の国土。
そこに至るまでの労苦を厭わぬのであれば、そして正位貴族の助けがあるならばそれほど難しいことではないのだから。
だがたとえ他国のものであっても不二の術を妨げる力を持つものなどいるだろうか。
術を妨げるには、不二と互角もしくはそれ以上の法力を持っていなくてはいけない。
そうでなければ不二の術に、その術者の術が弾かれるだろう。
不二以上の力を持っているとするなら、尋常ではないことなのだ。
そんな人間が、天城についているかもしれない。
だとしても……手塚にも譲れないものがあるから。
それは天帝より賜った天命であり、己の半身である加護女……リョーマなのだ。
それだけは何があっても譲れない。
ましてやリョーマを害するものは、何があっても許してはおけない。
だが現状では、天城は何をしたわけでもないので監視に留めるしかないのだ。
口惜しいことだが、仕方ないことだった。
それがどんになに黒に近くても、灰色では……何もしていない人間に嫌疑をかけることはできないのだから。
できることは、警戒を強めることだけ。
かといって不二に無理はさせたくない。
それを言えば、彼女の誇りを傷つけることにもなるから諌めることもできない。
自分では駄目なのだ。
「河村」
「なんだい?」
「これからも不二に監視は続行してもらわなくてはならないだろう。虫のいい頼みかもしれないが、あいつが無理しないようおまえが不二を見ていてやってくれ。辛いようなら休むように……俺が言ったのでは、あいつは怒るだろうが、おまえを心配させることは本意ではあるまい。頼む」
机の上に肘をついて組んだ手の上に顎を乗せ、真摯に頼むと河村は大きく頷いた。
「わかったよ。天城殿は越前に何かする気かもしれない……それを阻止したい気持ちは俺も同じだから。何ができるってわけじゃないけど、不二のことは俺が見てる」
「……あぁ」
何があっても失えないものがあるから。
できることに妥協はしたくない。
深く溜息をつきながら、手塚はその決意を深くしたのだった。
続
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