作品
三章 梔涙月・四
「えっ。じゃあ、『誓約の儀』のことって誰も知らないの?」
雨のヴェールが、世界を優しく覆っている午後。
『誓約の儀』を一週間後に控えて、いつものように、不二に様々なことの教えを請うていたリョーマは小さく首を傾げた。
質問を受けた不二は頷く。
「うん。正確なところは誰も知らない。記録にも残されない。いかなる書物にも記されてないよ。真実を知るのは儀式を終えた北辰王と加護女だけなんだけど『誓約の儀』を語る言葉には天と地の呪いがかかってしまうから誰の耳にも届かないんだ。北辰王と加護女を除いてはね。つまり『誓約の儀』というのは秘儀中の秘儀ってことさ。本人たちにはそのときになればなにをすべきなのかわかるらしい。僕たち外野が知っているのは、儀式の日聖刻から一晩中二人で星彩の当の最上階・星辰の間に篭もるってことだけだよ」
淡々と語られる言葉。
別に変なことは言っていない。
いつものように、自分の知っていることをわかりやすく話してくれているだけ。
それなのに。
一晩中、とか。
二人で、とか。
そんな言葉になぜか過敏に反応してしまいそうになる。
本当の意味で手塚の『加護女』になるために必要な儀式なのに、なにを自分はうろたえているのか。
「リョーマくん?」
どうかしたの?と声をかけてくる不二に、リョーマはなるべく自然に見えるように頭を振った。
「二人でって、国光と二人でってことだよね?」
「そりゃあ、そうだよ」
確かにそれはそうだ。
いまさら、なんて当たり前の質問をしてしまったのだろうと思う。
でも、手塚のことを意識すると……なんだか変なのだ。
ふわふわと掴み所がなく、まるで雲の上でも歩いているかのような不安定な感じ。
自分のことなのに、ちっとも自分がわからなくなる。
生まれて初めての、見知らぬ感情。
戸惑いは、どうしようもなく胸に押し寄せるけれど、それさえも上手く言葉にできない。
不快なわけじゃない。
未知の気持ちは、けっして嫌悪はもたらさない。
むしろあたたかく胸を満たし、少しだけ切なく心を震わせるだけ。
そのわけを探そうと、考えようとすると。
いつだって手塚のことが思い浮かび、疑問は解けないまま、心の淵に落ちていく。
だからリョーマは、答えを見つけられないまま。
けれどわからないままにしたくはない。
焦らなくても、いつか答えに辿り着く。
それはきっと、何かを変えてしまうだろう。
たぶん、自分と手塚の何かを。
だとしても、それはけっして逃げてはいけないことだと直感する。
卵のように、蕾のように……いつか来るそのときを待つ答えを胸に抱いていること。
それさえ忘れなければいい。
いまは、まだ。
「ねぇ、周助。周助はさ、自分がわからなくなったことってある?」
正面に座る彼女の眼差しを真っ直ぐ見つめ返しながら、リョーマは問い掛ける。
別に、ヒントにしようとかそういうのではない。
ふと、思っただけだ。
当代一といわれるほどの法力を持ち、法術師として己を厳しく律することのできる彼女に、そんなことあるのかって。
「それってリョーマくんが今、自分がわからなくなるときがあるから?」
「………………それだけってわけじゃないからね」
遠まわしに認めると、不二は小さく笑った。
ここ数日、ともすれば青い顔をしていたのだが今日は幾分頬に血の気が戻って、体調も良さそうだ。
彼女は少し考えて。
「あるよ。自分がわからなくなったこと」
「……周助でもあるんだ」
「僕でもって、どういう意味かな?」
ちょっとだけ意地悪な口調でそう言って、不二はリョーマの顔を覗き込む。
「べ、別に変な意味じゃないよ。ただ周助って感情の波とかあまり激しくないし、ちゃんと自分をコントロール……えと、抑えられてるって思うから……」
「そう?」
「うん……俺もそういうのけっこう自信あったんだけど、周助とか国光とか見てると、まだまだだなぁって思うもん」
「そうかな……自分では、よくわかんないな。でもね、もしそうだとしたら、そんな風に自分がわからなくなったり、見失ってしまったりっていうことがあったから、自分を律することができるのかもしれない。そうすることでしか、見つけられない『自分』ってあると思うんだ。自分を知ることが、自分を律することに繋がるって僕は思う」
だって、と不二はどこか嬉しそうな顔で言葉を継いだ。
「わからなくなったから、見失ったから……見つけられたものや取り戻したものを大事にしたいって思うんだ」
「……そうだね。俺もそう思う。そうだといいなって思うよ」
「ふふ……僕が一番自分がわからなくなったのは……タカさんに会ったときだよ」
「河村さん?」
意外な名前に、リョーマは驚く。
お互いをとても想い合っていて、大切にしているのはリョーマにだってわかるほど。
滲み出るような互いを想う心。
リョーマは二人が一緒にいるのを見るのがとても好きだ。
あたたかくて、優しい気持ちになるから。
同様に、今日は席を外している菊丸とその恋人の大石が一緒にいるのも、いいなと思う。
互いを想い合う気持ちは、不二たちに劣らないと思うし、感じるのだけれど。
菊丸と大石の会話を聞いていると、なんだか楽しくなって朗らかな気持ちになる……不思議なことに。
別におかしくなるようなことは話してないのに、だ。
こないだ、桃城が杏を連れてきてくれた。
そのときも。
歯に衣着せぬ会話というのだろうか。
何でも言いたいことを言い合う二人に、なんだか嬉しくなってしまって。
いいなぁって思う。
羨ましいのではなくて、純粋にいいなぁって。
憧れっていう気持ちはこういうことを言うのだと、納得させる素敵な恋人同士。
その一組である、河村と不二なのに、不二は河村に会ったときが一番自分がわからなくなったときだと言う。
「今でも覚えてる……すごく、すごくいやな気持ちだった。なんでこんな人がいるんだろうって思ったよ。タカさんは……隆は僕の欲しかったもの、全部だったから。欲しがることなんて諦めてたんだ。そんなことしちゃいけないって思ってた。あのときの僕は、先の見えない闇の中にいるような感じで……だから余計に思ったよ。どうして僕の前に現れたんだって。いろんな気持ちがぐちゃぐちゃになってわからなくなった。怖くて、手探りで出口探して……でも結局そんな僕の手を掴んで引き上げてくれたのは隆だったんだ。そしたらもう、離れられるわけがない」
初めて見る、不二のはにかんだ笑顔。
照れ臭そうで、なんだか可愛い。
抱き締めてあげたくなるような、そんな顔。
「見つけたんだ。一番欲しかったもの、大事にしたい気持ち……ねぇ、リョーマくん」
「なに?」
「自分がわからなくなるとき、何かを見失うときっていうのは、猶予期間だって僕はタカさんに会ってから思うようになったんだ」
「猶予期間?」
「そう。そう思えば、あまり悪いものじゃないでしょ?だから焦っちゃ駄目だよ」
その言葉にリョーマは笑う。
「本当、みんな同じこと言うなぁ」
「同じこと?」
「うん。英二も透理も……焦っちゃ駄目だって」
図ったように言われたら、笑うしかないではないか。
「ふーん。二人とも、ね。そうだね、透理も含めて僕たちは君よりは年長だから。君には間違って欲しくないって思うから、老婆心が働いてそんな風に言っちゃうのかもしれない」
「でも、それって俺を心配してくれるからでしょ?俺、ここに来るまで心配されるのって煩わしいって思うことあったけど、今は違うよ。心配してもらえるって嬉しいことだったんだね」
心からそう思う。
降り積もり、満たされる嬉しい気持ち。
いつか自分も、誰かにそれを返したいと教えてくれる人たちに囲まれて……なんて自分は恵まれているのだろう。
元の世界に還ることはなくても。
仮に還ることができたとしても。
もうここがリョーマの世界なのだ。
「リョーマくんがそう言える子でよかったよ。君が加護女だなんて、手塚は本当に幸せ者過ぎる」
そんなことない、と言おうとしたそのとき。
笑っていた不二の顔から血の気が引いていったのをぼんやりと見つめていた。
揺らぐ彼女の身体。
テーブルの上に置かれていた茶器が落下し、派手な音をたてて割れる。
「周助!」
立ち上がり、床に蹲った不二の傍に回りこむ。
咄嗟に抱きかかえ、覗き込んだ顔は蒼白で……
手のひらで覆った口元。
「くっ……」
呻き声。
指の隙間から滴るのは……紅い、紅い……血。
リョーマの胸に寄りかかるように激しく咳き込み、胸元に紅い染みが広がる。
「周助!しゅうすけ!!」
「だい……じょ……ぶ……から……なか、ないで」
不二の頬に零れ落ちた水滴。
それが自分の涙なのだと、わかっても。
「しゅうすけ……ねぇっっ」
腕の中で意識を手放してしまった不二の身体。
華奢なのに、ずしりと重く……そして指を伸ばして触れた頬は冷たい。
「誰か……透理っ、透理っっ」
「リョーマさま、お呼びで……不二さまっっ?」
不二が傍にいるため呼ばれるまで控えていた式神の声音も動揺したものになる。
「国光に知らせてっ。周助が倒れたって、早く!」
「直ちに」
すっと掻き消えたのを見届けてから、はっと気付いて。
「冥刃!」
「はっ、これに」
「河村さん……河村さんを……」
「承知!」
床にぺたりと座り込み、不二の身体を抱き締める。
そうすることで、繋ぎとめられるような気がした。
繋ぎとめるものがなんなのかなんて考えたくないけど。
こんなとき、菊丸がいてくれたら心強いのに。
彼は今日、大石に頼まれて薬草を購うために春連の街に降りている。
お土産を買ってくるから、と笑った顔を思い出してなおさら強く腕に力を込めた。
(……はやく……はやくきて、くにみつ……)
怖くて。
どうしようもなく、怖くて。
不二の身体を抱き締めながら、お守りのように手塚の名を心の内で呼び続けた。
続
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