作品
三章 梔涙月・伍
執務を終え、いつものようにリョーマの元に顔を出した手塚は、その足で不二の部屋へと向かった。
リョーマの式神・透理が、血相を変えて執務室に飛び込んできたのは日が緩やかに傾きかけた時刻。
不二が倒れて意識を失った、と。
書類を放り出し、その場にいた乾、大石とともに慌てて瑠璃宮に走って、見たものは……力の抜けた不二の体を抱きかかえ、上着の胸元を赤く染め、目を潤ませてこちらを見上げるリョーマの姿。
どうしよう、と涙声で訴えながらも、乾や自分の問いに気丈に答える子供がとても痛ましくて。
動揺していないはずはないのに。
リョーマの腕に抱かれた不二の顔色は蒼白で、閉じられた睫毛はぴくりとも動かない。
かすかに零れる呼気で、辛うじて彼女が生きていることがわかった。
はじめは不二を放すのを戸惑ったけれど、大石に見せなければと言ったら素直に従った。
衣服を緩めるので、とりあえず手塚と乾が席を外そうとしたところで河村が、不二に劣らないほど顔面を蒼白にさせて駆け込んできた。
大石の見解は命に別状はない。
正確には、内蔵などには何らの損傷や病巣があるわけではなさそうだ、とのこと。
とにかく不二に意識が戻るまで待つしかない。
彼女から『死の気配』が感じられないのは手塚にもわかったので。
河村に不二を託し、乾と共になにがあったのかを改めてリョーマに聞いた。
ここのところ不調気味だった体調が持ち直したように見えていたこと。
それなのに、話をしていて突然吐血し昏倒したこと。
なるべくちゃんと話そうとしていたリョーマは、その間終始手塚に身を寄せたままだった。
よほど不安だったのだろう。
ときおり、縋るような眼差しを向けてきた。
血で汚れた服を着替えさせて、大石が用意した薬湯を飲ませた。
薬湯は、眠りを催す効果があるもので。
乾たちを先に太極殿に帰し、透理に使いを頼んだ菊丸が戻ってくるまで、眠るリョーマに付いていた。
薬湯の効果もあってぐっすりと眠り込んでいたが。
涙に濡れていた睫毛や、心細そうな寝顔に離れることができなかったのだ。
しばらくして、扉を蹴破りそうな勢いで戻ってきた菊丸にリョーマを任せて、午後の執務に戻った。
そうして全ての執務を終えてから、再び瑠璃宮に足を運んだのである。
リョーマのことが気にかかっていたのはもちろん、河村から不二が意識を取り戻したという報告を受けたのだ。
扉の前で来訪を告げると、河村が迎え入れてくれた。
「不二の様子は?」
「うん……食事はちゃんと食べてくれた。粥を小鉢に一杯と、桃を甘く煮たやつを一欠けらだけど……食欲はあるってことだから」
「なら、大丈夫だろう。今、会えるか?」
「寝てるけど、手塚が来たら起こしてくれって言われてる」
「そうか」
河村の後について、寝台に横たわった不二と対面する。
倒れたときに比べ、幾分顔色は戻っているが、それでも生気がある……というにはほど遠かった。
「周助……手塚が来たよ」
肩を優しく揺り動かす仕種に、睫毛が細かく震え……藍玉(アクアマリン)にも似た淡い色の瞳が瞼の下から現れた。
「……ン……隆……?」
「手塚が来たよ。起こしてくれって言ってただろう?」
慈しむ眼差しでの、河村の呼びかけに、不二は完全に覚醒したようだった。
ぱっちりと開いた目。
顔色に精彩はないが、その眼差しは優しげな面立ちからは想像もできないほど意志に満ちた強い光が宿っていて、手塚を安心させた。
「……手塚」
ゆっくりと寝台の上に身を起こすと、河村がすかさず靠枕(クッション)を背に当ててやっている。
そこに背を凭れさせて、こちらを見上げた。
「手塚、リョーマくんは?」
「……眠っている。動揺はしていたようだが、ちゃんと式神たちに指示を出して俺たちに知らせたぞ。今は菊丸が付いているから、心配するな」
「…………そう」
良かった、と溜息雑じりに言う。
「俺は、席外してたほうがいいかな?」
「いや、構わん。おまえがいたほうが不二も安心するだろう」
椅子を勧めながら控えめに申し出た河村に、手塚がそう言うと不二も小さく頷く。
「わかった」
河村は、もう一つ椅子を持ち出してきて手塚の隣に腰をおろした。
「それで、不二。いったいなにがあった?」
単刀直入に問えば、不二は淡々と答える。
「……術を砕かれた」
「術を、砕かれただと?」
眉間にきりりと深い皺が刻まれるのを手塚は自覚した。
「術って、遠見の術を……かい?」
河村も難しい顔をしている。
彼はけっして法術や、いわゆる人ならざる力に関する知識は明るい方ではないが、それがどれだけ尋常でないということは想像がつくようだ。
「うん。僕の放った式神は全部壊されてしまった」
当代一といわれる不二の法術は一朝一夕になったものではない。
確かにその才能……法力は、生まれながらにして強大ではあったが、それを制御する術を得るまでに途方もない努力が必要だった。
その努力を覆されるような事態に、不二の誇りは少なからず傷ついたに違いない。
誰かの術を砕くということは、術を返すことよりも高等で危険な術だ。
術者の術を防ぐには三通りの方法がある。
術が作用しないように対抗手段として予め結界を張っておく方法。
放たれた術を跳ね返す方法。
そして……術そのものを砕く方法。
いずれにせよ、防ごうとしている側は、術を放った術者より強い力が必要だ。
当代一という言葉に奢っているわけではないが、己の法力・法術に対する自負は持っている。
努力の上に成り立つ誇り。
不二の精神力は強靭だが、それでも堪えていないわけではあるまい。
術を砕かれたことに、屈辱さえも感じているだろう。
ただ術を返されるだけならば、多少の衝撃はあっても、返された側にも対処のしようがある。
術を砕くという行為は、術者にとっては最終手段……そうでなければ最も卑劣な手段に他ならない。
なぜならば、砕かれた術の衝撃は何倍にもなって、さらに相手の力が上乗せされた形で、術者に直接打撃を与え命さえも奪いかねないからだ。
術を砕く術を破術という。
この破術は、法術を含んだあらゆる呪術系統において禁じ手とされているほか、この天領国では呪殺と同等と法において認められている。
緊急避難的な例外を除いては、間違いなく死罪に値する大罪だ。
「だから、血を吐いて倒れた……というわけか。ここのところ調子が悪かったのもその力に妨害されていたせいだと?」
「そういうこと。僕も修行が足りないみたいだ…………手塚、先に言っとくけど謝罪の言葉は聞かないよ」
「不二」
「どうせ君のことだから、自分が天城殿の監視なんて頼まなければ、とか思ってるんだろ」
「…………」
沈黙は肯定。
己の命によって不二は倒れ、リョーマを泣かせてしまったのだから。
不二は、顔色は悪いものの表情はいつもと変わらず、手塚を見上げ軽く肩を竦めて見せた。
「君が責任感の塊って言うのは知ってるけどね……僕は、僕でよかったと思ってる。別に奢ってるわけじゃないよ。監視するだけなら紫電宮に席を置いてる法術師なら誰にでもできたことだ。でも、僕でなければ確実にその人は死んでた……天城殿がどんな手で来るかわからない以上、君が僕を指名した判断は間違ってない」
「……だが、おまえに万が一のことがあったら、俺は河村に申し訳がない。リョーマにも母上にも合わせる顔もない」
彼女の眼差しから逃れるように視線を逸らして、そう言えば不二は仕方ないなとでも言いたげに鼻を鳴らした。
「手塚、僕はできないことはできないというし、自分で望んでここにいる。僕の心と身体はタカさんのもので彼にだけ捧げてるけど、僕の力と命は北辰王に捧げてる。僕たちはみんなその覚悟をもって、君の剣になった。自ら死ぬつもりはないよ。けれどいざというとき、それを厭うことはない」
きっぱりと言い切った瞳は、強い意志に満ちている。
そしてその不二の言葉を肯定するように、河村も口を開いた。
「そうだよ、手塚。申し訳ない、とか考えるのはやめようよ。周助の言うとおりだ。手塚はいつだって決断するまで吟味を重ねるじゃないか。俺たちはそれを知ってる。その結果にもたらされた現実や結末なら、いつでも受け入れる心の準備はできてるんだから」
凪いだ海のように穏やかに口調で揺るぎない気持ちを語る友人たち。
その器の大きさに、自分は支えられている。
頂点にあるということは、孤独なことだ。
それでも、王はけっして一人では王となり得ない。
自分はなんと恵まれているのだろうと、深く、実感した。
「……そうか、心して置こう……」
そんな風にしか、気持ちを形にできなかったけれど。
「だが……不二」
「なに?」
「おまえの法術を砕けるような術者がそうそういるものか?」
「さぁ……世界は広いからね、いないとは言わないよ……でも、あれは……僕の術を砕いた力は、人のものではない……」
「なんだと?」
「僕は知ってる……あの力。かつて身近に感じていたからね……そう、君の母上から」
慎重に言葉を選びながら、けれど迷う素振りはなく不二は己の確信を口にしているのがわかる。
何が言いたいのか河村もわかったのだろう、顔色を変えた。
「周助……それって……」
「あれは鬼道の術。人の力とも天の力とも異なる妖力からなされる術……それを使えるのは……鬼」
途方もなく美しい、人の形をした異形のモノ。
いつからかこの世界に在った、それでいてこの世界とはけっして相容れない一族。
瞳の色だけが、彼らが人とは異なる種族だということを知らしめる。
人にはけっしてありえない禍々しいまでに鮮やかな赫(あか)。
今はもう、記憶の中にしかない母の瞳の色もそうだった……
「君が抑えている力、君の中に流れるもう一つの血……僕の術を砕いたのは紛れもなく彼らの力だ」
「でも、鬼の一族は先代の北辰王が……手塚の父上が封印したはずだろう?」
焦ったような河村の声。
手塚は全身を巡っているはずの血が、その流れを留めたような錯覚を覚えた。
「確かに父上は、鬼の一族を封印した。だが、父上の力をもってしてもやつらの全てを封印することは叶わなかった……父上が封印したのは、鬼の一族を統べる首領、悪路王(あくろおう)とその側近だけだ」
「彼らの力は個体でも充分強大だからね。とりあえず中心人物だけでもというお考えだったらしい。鬼の一族は、全てがそうではないがその性は残虐非道。悪路王はその最たる存在で、人を蔑み、弄ることを楽しみとしていたらしい。彼が撒き散らした嘆きや絶望は混沌と言う度し難い瘴気となり、理に歪みを生じさせかねなかった。それが、自分たちから巫女を奪った腹いせだった……んだよね?」
「……らしいな。その上鬼道の巫女は代々悪路王の妻になるのがしきたりだったというから、なおさら父上と北辰王が守る世界……そして、本来であれば敵対する存在である父上の加護女となることを受け入れ、子まで産んだ母上が気に入らなかったんだろう。歴史を紐解いても、あれほどの攻勢を仕掛けてきた例はほとんどない」
かつて鈴鹿御前が、周囲に受け入れられなかった理由はそこにある。
彼女は人ではなかった。
鬼でありながらその性向は温厚、水のような慈愛を持った加護女としていつしか拒絶から、敬愛の対象となったが、中にはそれをこそ面白く思っていない者たちもいた。
おそらく、現在進行形で。
鬼の一族であり、鬼道の巫女という地位にあった存在が、手塚の母だ。
鬼と人が子を成すのは珍しいことではない。
けれど鬼の血を持った北辰王、というのは自分だけだろう。
父を尊敬し、母を誇りに思う手塚はそれを卑下したことはない。
ただ、人でありながら、鬼であり、同時に天に属する存在である……というのは稀有だという自覚があるだけだ。
「悪路王の所業は日に日に悪辣さを増していき、とうとう星神を降ろす事態にまでなった。実際に北辰王が星神を降ろしたのは数百年ぶり……それほど容易ならぬ状況だったんだ。だが星神をもってしても、悪路王とは互角が精一杯。当時の私官は四人。七星神のうち四神を降ろしてなお……だから父上は決断した」
「その命と引き換えに、悪路王を封じることを……だね?僕も覚えてるよ。そう決めた先代様の背中を毅然と見送る鈴鹿様の姿。でも……袖を握り締めた指先は、とても白くて震えてた……」
六年前の話だ。
記憶はまだ薄れていない。
手塚の心にも、不二の心にも鮮明に焼き付いている。
「父上の封印は成功し……数日後母上も儚くなられた」
北辰王と加護女の絆。
それが、誓約の元に交わされる『運命を共有する』ということ。
互いが互いの半身である、その証。
己の加護女にはいまだ秘したままの事実により手塚は父と母を失い……
「それで手塚が北辰王を継いだんだよね……周助の術を砕いたのは鬼……鬼が天城殿に荷担してるとして、だとしたらその目的は……復讐……ってことなのかなぁ」
「それはどうだろう。鈴鹿様に聞いた話だと鬼の一族って言うのは数が凄く少ない上に、結束力に欠ける種族らしいからね。妖力の強さが基準のすべてで、もっとも強いものが『悪路王』と呼ばれる。でも『王』と言っても一族を統率してるってわけじゃないらしいよ。そんなやつらが六年も経った今ごろ、その息子にわざわざ復讐するとは思えないな」
首を傾げる河村に、不二が思案顔で言う。
「確かに、基本的に鬼の一族に『情』というものは希薄らしいな。俺も母上に聞いたことがあるが……『鬼道の巫女』といっても俺たちの言う巫女の概念ではなく、最強の生きた呪具という扱いで、妻にするということはすなわち最強の呪具を所有するということに過ぎないらしい。母上のような方のほうが珍しいんだ」
だとしたら何故、蔑みの対象である人間の天城に荷担するような真似をしているのだろう。
「鬼が天城殿に与している理由はわからないけど、彼の沈黙の原因は、大体わかったよ。正体を知っているかはともかく強大な力を持った味方を得たからこその余裕ってやつだね」
「……そうだろうな。しかもその『味方』とやらは、当代一の法術師の術まで砕く力を有している。この期を逃すようなやつではない」
言いながら手塚は眼鏡の淵を癇性にいじる。
それは苛立っているときの癖だった。
「何かことを仕掛けてくるかもしれないってことだよね」
二人の発言を受けて、河村も真剣な面持ちである。
「あぁ……それは充分考慮する必要がある……なにがあっても、リョーマにだけは手を出させない」
この決意だけは揺らぐことはない。
必ず、守って見せる。
必ず……
「そうだね。油断はできない……鬼が何を考えてるかもわからないし……可能性は低いけど復讐のつもりかもしれないし、裏切り者の息子は裏切り者っていう適当な理由をつけて退屈しのぎをしているだけかもしれない……それともただ遊んでるだけってことも考えられる。一人だけなのか、それとも複数か……なんにしたって無視するには彼らの力は厄介すぎる……唯一救いがあるとすれば、彼らは天の力に守られたこの紫電宮内部には入って来れないはずだから、直接攻撃の危険性はないことくらいだ……」
不二が倒れたのは、たまたま外に放った術のせいで再び同様の術を使わなければ、紫電宮にある限り悪化はありえない。
安静にしていれば、遠からず回復することだろう。
けれど。
「こんなときなのに……僕は当分使い物になりそうにないよ。悔しいな」
不二は唇を噛み締めた。
その肩に河村が優しく手を乗せる。
術を砕かれた反動で、体調はもちろん、法力も著しく不安定になっている。
こんな状態で高等な術を使えば、それこそ生死にかかわってしまう。
「今は、身体を休め回復することだけを考えろ。ちゃんと回復してから、存分にその力を使わせてもらう……おまえがいつまでも寝付いているとリョーマも寂しがるからな。これは北辰王の厳命だ。河村も、不二の傍に着いててやってくれ」
ぶっきらぼうな自分の物言いに、河村と不二は顔を見合わせて小さく笑った。
「「主命、謹んでお受けいたします」」
二人して悪戯っぽく声を揃えたことで、深刻な空気が少しだけ和らいだ。
これ以上は負担になるだろうと、不二に改めてゆっくり休むように言って彼女の部屋を持した手塚は、そのままリョーマの部屋にやってきて扉の前で足を止めた。
夜も更けて、きっと寝入っているだろうから中に入ることはせず、しばらくそこに立ち尽くす。
なぜ、今になって。
リョーマが凝り世界に召喚された当初、常に胸に付きまとっていたのと同じ疑問が、手塚の中に渦巻いている。
己の中に流れる人ならざる血。
自分自身は人でしかないと思ってはいるが、半分は彼らの血を受けた同胞には違いない。
鬼、と呼ばれる存在がなにを思って天城と手を組んだのか。
そして鬼の助勢を得た天城が、きっと何か仕掛けてくるだろう確信が……心に黒く染みる予感を滴らせる。
手塚は扉のそっと手を置き、額を押し付ける。
この扉の向こうで眠る愛しい子供。
もはやリョーマのいない世界など考えられない……考えられるはずもない。
離れがたく、その場所に佇み、生まれて初めて……ただ一人を守るためだけに力がほしいと、手塚は願わずにはいられなかった。
続
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