作品
三章 梔涙月・六
『周助、気がついたから顔を見せに来てあげてよ』
朝食の席にやってきた河村にそう言われてから、リョーマは不安でならなかった。
不二の部屋の扉の前に立ったときも。
迎えてくれた河村が案内してくれる背中を見つめていたときも。
苦しそうに血を吐いて、蒼白い顔のまま意識を失った不二の顔を思いだし。
ずしりと腕にかかった重さを思い出して。
不安で、不安で……言葉にできない恐怖にかられてしまうのだ。
傍らの菊丸の手を握り締め、寄り添うことで何とか歩みを進めている。
菊丸もリョーマの心情を察してくれて、何も言わずしたいようにさせてくれた。
だから。
「リョーマくん、英二」
ベッドの上に起き上がっている不二の顔を見たときには、どうしようもなくなってしまって。
彼女が病み上がり、というか現在進行形であまり調子が良くないことも忘れて、不二に飛びついた。
「周助っ」
なだらかな曲線を描くやわらかな胸に、小さな子供のように顔を埋めて、ぬくもりと心臓の音を確かめる。
「良かった……ほんとに、よかったぁ……」
安堵を伝える声と共に、頬を零れ落ちた涙。
不安だった。
とても怖かった。
朝目が覚めて、河村に不二に命の別状はないと教えられても。
その顔を見るまで、昨日のことがフラッシュバックして。
リョーマは生まれて初めて、身近で、大切な誰かを失うかもしれないという恐怖を覚えたのだ。
「ごめんね。心配かけたね」
優しい声が耳に届いて、華奢な腕がゆったりと抱き締めてくれる。
頭を何度も撫でられ、リョーマはいつまでも不二の胸にしがみついたまま。
赤ん坊のようだ、と自分でも思う。
感じる既視感は、本当に今より幼い頃、母にこうして甘えたことのある記憶のせいなのかもしれないくらい。
「……家族のこと、心配するのは当たり前だよ……」
「家族?リョーマくんは僕のことをそう思っててくれてるんだね」
見上げた顔色はまだ悪い。
けれど、淡いブルーの瞳を軽く細め、不二は嬉しそうにそう言った。
「家族だよ。周助も、英二も、河村さんも……みんな……この世界でできた、俺の家族だもん」
大事な家族。
不二と菊丸だけでなく、七星剣と呼ばれる彼らは右も左も分からずに召喚されてしまったこの世界で……血の繋がりとか、そんなのは関係なく安心できる絶対の存在になっている。
式神たちも然り。
…………ただ、手塚だけは違う。
彼は家族ではなく、半身。
自分にとって魂の片割れ。
家族でも友人でもなく、その他大勢でももちろんない。
誰よりも、なによりも。
『特別』。
最近はそれだけじゃない、という自覚が芽生えつつあるものの、その感情については保留中だ。
ゆっくりじっくり考えていけばいいと、不二や菊丸たちが教えてくれたから。
今は、不二が無事だったことの安堵を噛み締めることに専念する。
「心配してくれてありがとう」
「……お礼なんて言わないでよ。ゆっくり休んで、早く元気になってくれたらそれでいい」
「うん……英二にも心配かけたね」
リョーマを腕に抱いたまま、親友にも声をかける。
「本当にゃ。透理から聞いたときは、心臓止まるかと思ったぞ。俺に何かあったら、大石が悲しむだろ」
わざとらしくそんな物言いをするのは、彼なりの心配と安堵の表れなのだろう。
そう思って、リョーマは小さく笑った。
「心配してくれるのはありがたいけど、まさか六花(りっか)で宮城内に乗り付けたりはしなかったろうね?」
六花というのは、菊丸の騎獣だ。
孟極(もうきょく)という種類の霊獣で、大きさは二周りかそれ以上違うだろうが、アメリカの動物園で見た雪豹によく似ている。
白いふかふかの毛皮に、見事な豹紋。
優美ではあるが獰猛そうな外見に似合わず大人しい性格で、主人に似て人懐こいところがあり、リョーマも何度か触らせてもらったりもした。
城下に降りていたのだから、菊丸は当然六花に騎乗していたはずである。
そして宮城内部、ことに内宮へ乗騎のまま乗り付けるというのは、言語道断……ということになっているのだが……
「そっ……それは……」
「やったんだね?」
意地悪な問いかけに、菊丸は息を詰まらせる。
「だっ……だって、手塚が至急帰ってくるようにって言ったんだもん。立派な主命にゃ。俺も慌ててたけど、私官は危急の場合騎獣での乗り入れは不問に処すっていうことになってるはずじゃん」
ぐちぐちと言い訳する菊丸に、不二は声を立てて笑った。
「もー、不二のイジワル!人をからかう気力があるくらい元気だなんて、心配して損したぞっ」
ぷっと頬を膨らませる仕種を見てると、とても年上には思えない。
この天真爛漫さが、彼の長所なのだけれど。
「それに不二、いつまでおちびのこと抱っこしてるにゃ!ずるいぞ!!」
俺も抱っこする、と言い募るのに、リョーマは我に返った。
安心した勢いとは言え、自分はひょっとしたらものすごいことをしているんじゃないだろうか……と。
巨乳というわけではないが、柔らかく存在を主張する乳房に顔を押し付けているのが、今更ながらに恥ずかしくなってしまって。
しかもそれがまた、夜着の薄布でダイレクトに伝わってくるので。
甘くていい匂いなのも、なんだか居所に困ってしまうような感じがして。
「あれ、リョーマくん顔紅いけど、どうしたの?」
「…………なんでもない」
そうは言ったものの、気恥ずかしくてもぞもぞしてしまうのを察してか、不二も菊丸も示し合わせたように笑っている。
「……でも、本当に周助が無事でよかった……身体が冷たくなっていくの、凄く怖かったんだもん」
「リョーマくんがずっと抱き締めててくれたんだよね?」
「……だって、そうしないと……もしもって思って……」
あのときの恐怖を思い出し、身体がぶるりと震えた。
「うん……多分リョーマくんが抱き締めて、祈ってくれなかったら僕もどうなってたかわからない」
「え?」
「リョーマくん、手塚たちが来るまでどんな風に思ってた?」
「……どうしていいか全然わかんなくて……とにかく、目を覚ましてって思った。どこにもいかないでって……」
「君の願いは、強い祈りの力になって、著しく傾いていた僕の『気』の均衡を保ってくれたんだ……君は命の恩人だよ。本当にありがとう、リョーマくん」
まだ死にたくないからね、と悪戯っぽく笑うのに、リョーマはまた涙が溢れてきそうになった。
自覚していたわけではない。
それはきっと無意識の産物だ。
でも、自分の力が、不二を助けるための役に立ったというならこんなに嬉しいことはない。
だって、天領に来て、自分はずっと、支えてもらったり助けてもらったりしてばっかりだから。
我に返って気恥ずかしく思ったはずなのに、リョーマはまたぎゅっと不二の胸元に頬を押し付けた。
「ねぇ、三人とも。桃、剥いたけど食べるかい?」
そこへ河村の声がかかって、三者三様に頷き返した。
不二の部屋を辞したリョーマは、朝までとは違いすっかり気持ちが晴れていた。
まだ本調子でないことには違いないけれど、倒れた直後に比べると顔色はましになっているし、河村が剥いてくれた桃も美味しそうに食べた。
物を美味しく食べれる、というのは元気な証拠だと思うから。
ゆっくり休んでくれれば、遠からず回復するだろう兆しに心の底から安心した。
「良かったにゃ、おちび」
「うん、安心した」
笑顔を見せると、菊丸は嬉しそうに頷いた。
実際彼の心労はリョーマ以上だったかもしれない。
不二のことが心配なのは当然だが、それを隠し、すっかり意気消沈している自分の隣にずっといてくれて、励まし続けてくれたのだから。
それがありがたくて、リョーマは来たときと同じように、菊丸にぴったりくっついた。
「なんだか今日のおちびはとっても甘えっ子さんだにゃ」
からかい雑じりにそう言われても。
「いーの。今日はそういう気分なんだもん」
つんっと、顔を背けると菊丸の噛み殺した笑いが聞こえてきた。
「まぁ、俺は甘えてもらって嬉しいけどね。家族の中では末っ子だったから、下の兄弟ずっと欲しかったし」
「そうなの?」
「うん。だから俺はおちびが来てくれてすっげー、嬉しいんだけど……」
「嬉しいんだけど?」
「あんまり俺たちばっかりおちびのこと構い倒してると、手塚の視線が怖いかなー、なんて」
にゃはははは、と笑う菊丸にリョーマは首を傾げる。
「英二たちが俺を構い倒すと、どうして国光の視線が怖いの?」
あまり表情が豊かとは言えない人だけど、すごく優しいのに。
そう思って問い掛けてみる。
「んー、それはねぇ。自分は暇がないから拗ねてるのにゃ」
「あぁ、国光ってば本当忙しいもんね」
こちらの世界にその言葉があるかは不明だが、あんなに忙しくて『過労死』してしまったらどうしよう……とか、実はこっそり思ったことがあるのだ。
でも手塚が忙しいのは本当だが、それと自分たちにどんな関係があるのかなんてさっぱりわからない。
「忙しいってのも理由だけどさ……くくっ……手塚も、報われるといいんだけど……そうだおちび、今日は久しぶりに晴れてるから、外でお茶しない?手鞠花(あじさい)が綺麗に咲いてるとこあるんだ」
話の途中で、いいことを思いついたとばかりに菊丸が手を叩いて提案する。
菊丸の気紛れは今に始まったことではないので、リョーマも考えを改めて頷いた。
天涙の晴れ間は本当に珍しい。
こないだ晴れたのは、非公式の御前試合のときだった。
丸一日晴れていることはないので、またいつ雨が降り出してくるかわからない。
多分昨日から今朝までのことを慮って、そんな提案をしてくれたのだ。
気遣いが嬉しかった。
「うん、行こ……透理」
「お呼びでございますか?」
すらりと現れた式神に、リョーマは部屋から茶器などの一式を持ってきてくれるように頼んだ。
「花をね、後で周助にお土産に持っていきたいんだけどいいかなぁ」
内宮の庭園は、一応禁園ということになっている。
つまりそこに咲く花々は王のものであり、王の許しなくては手折ってはならない……というのは建前だが。
「いーんじゃない。手塚は全然気にしないと思うにゃ。おちびが気になるなら、あとで報告すればいいしね」
「ん、そうする」
「じゃ、行くにゃ!」
二人並んで、回廊を歩く。
いつもだったら不二も一緒だけど、今回ばかりは仕方ない。
他愛もない話をしながら、しばらく歩いたときだった。
リョーマは、ふと……違和感を感じた。
「どうしたにゃ、おちび」
「ん……なんか、ヘン」
「変?なにが?」
「良く、わかんないんだけど……」
とにかく変だ、という感覚。
一歩踏み出したとき、何かの境界を越えて、全く別のところに来てしまったような……
ここに召喚されたときとは全く違うけど。
でも。
何かが違う。
何かが変だ。
首筋がちりちりする感じ。
周囲を見回してみる。
視界に映る景色はいつもと変わらない。
大理石が綺麗に配置された床、朱塗りの柱に、壁には美しい壁画が描かれている。
それなのに。
「……あ!」
「おちび?」
「なにも感じない」
「え?」
「なにも感じないんだ……あるべきはずの五行の気の流れ、それが全然感じられない……」
それが、違和感の正体。
世界は常に陰陽の理の中にあり、万物の力である五行の気が巡っている。
加護女は万物の力の受け皿。
意識はしなくても、常にその力を感じているはずなのに。
なにも感じられない。
そう。
生きているものが何一つないみたいに。
死の世界というのはこんな感じに違いない。
全てが。
なにもかもが止まっている。
静止している、切り取られた空間。
生きる力そのものを司っているといってもいい加護女であるリョーマには、だからこの空間に満ちる空気が気持ち悪くて仕方ないのだ。
何らかの力を持って意識的に切り取られた空間。
それが何を指し示すか知っている。
不二の授業で習ったから……
「……封印結界……」
「なんだって?」
結界には二種類ある。
守るための結界と、閉じ込めるための結界。
これは後者の封印結界と呼ばれる類のものと、リョーマは直感した。
「封印結界って……瑠璃宮はすでに手塚の結界が張られてる……他の誰かがそこに侵入して結界張るなんて真似……」
神力を持って張った結界に、許しなく入って来れるものなどいない。
辛うじて覚醒した加護女なら可能だろうが、今のリョーマにはそんなことはできないし、する必要もない。
可能性として残るのは結界内で術を使うことが認められている不二だが、彼女もまたこんな『気持ちの悪い』結界を張ることはないし、そもそも力の種類からして根本的に違う気がする。
「誰かが、俺たちを『ここ』に閉じ込めた」
確信をもって呟く。
菊丸の顔に緊張が走った。
そのとき。
正面の空間が、ぐらりと傾いだ。
ゆらゆらと陽炎のように揺れて……現れたのは人影。
顔の上半分を仮面で隠した、男……である。
長身……手塚とさほど変わらないくらいの背格好。
この世界では初めて見る、元の世界にいた頃時代劇で見た戦国時代あたりの武士のような衣装を身につけていた。
面立ちは仮面で隠しているからよくはわからないけれど、顕わになっている口元や顎の輪郭からかなり整っているのだろうことが伺える。
「何者だ」
男と距離を取りながら、菊丸はリョーマを背中に隠すようにして警戒を強める。
隠し持っていた鉄扇を手に、いつもの天真爛漫な雰囲気が一変。
冥刃との試合のときですら見せなかった、鋭さを顕わにして。
牙を剥く獣のようだと、リョーマは思った。
「何者だと聞いている。誰の許しを得てここに立ち入ったか?答えろ!」
「…………答える必要は、ない」
男は口の端に弧を描き、嘲るようにそう言った。
その声に、なんとなく聞き覚えがあると思った。
いや確かに初めて聞く声だと思うのに、誰かに似ている……とリョーマの耳はそう捉えたのだけれど。
それが誰なのかは思い浮かばない。
淡々とした声は、だがしかし奇妙な印象も、リョーマにもたらした。
菊丸が隙のない身ごなしで構える。
男は相変わらず笑んだまま、すいっと腕を動かした。
それだけだった。
「ぐっ……」
菊丸の声。
それが呻き声なのだと理解するのに数瞬を要した。
そして理解した瞬間には、菊丸の身体ははるか後方に吹っ飛んでいたのだ。
強かに打ち付けられる鈍い音。
ぴくりと動かなくなった、身体。
肩の辺りからみるみる血溜りが広がっていくのが、スローモーションのように映った。
何が起こったのかわからない。
けれど菊丸にただならないことが起こったことだけはわかった。
「英二っっ」
昨夜の不二の姿が蘇えり、リョーマは倒れた彼に向かって駆け出そうとした。
一刻も早く誰かに知らせなければ……そう思ったのに。
それは叶わなかった。
強い負荷が腕にかかり、一歩進むことさえできずに……
リョーマは後ろを振り返り、睨みつけた。
仮面の男が、リョーマの腕を掴んで阻んだのだ。
「気の強いことだ……」
「放せよっっ!」
必死に抗うが敵わず、リョーマは式神を呼ぼうと口を開きかけ……
がくりと全身から力が抜けたのを感じた。
仮面の男の指先が、額を突いた……それだけで。
何か術をかけられたのだと思ったときにはもう遅い。
男の胸に、己の意志とはかかわりなく倒れ込んでしまう。
(……いやだ……)
違うという感情。
ここは自分の場所じゃない。
(……国光じゃ、ない……)
そう思うのに、身体は思うようにならなくて、意識は溶けるように拡散していく。
視界の片隅に、菊丸の倒れ伏している姿が映って、涙が零れた。
助けに行きたくて、伸ばしかけた手は途中で力尽きる。
(……英二……国光……くにみつ……)
薄れていく意識を必死に繋ぎとめようとするのに。
「……これが、奴の『加護女』……」
男の口調は奇妙な印象をリョーマに与える。
その声音には、深い憎悪のようなものが感じ取れた。
いったいどうして……
その疑問を最後に、リョーマの意識は完全に闇に閉ざされたのだった。
続
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