作品
三章 梔涙月・七
リョーマが何者かに攫われた。
手塚がそれを知覚したのは、紫電宮内からリョーマの『気』が感じられなくなった瞬間のことだ。
何者かに断ち切られるように、リョーマの気配が消えた。
誓約を終えていないとはいえ、北辰王と加護女の……『絆』とでも呼ぶべき存在の共有感はすでに芽生えている。
手にしていた書類が音を立てて床に落ちた。
怪訝そうに顔をこちらに向けた乾と大石に構わず、内宮へ向かった手塚の見たものは……
血溜まりの中に倒れ伏す菊丸と、それを抱き起こそうとしている不二と河村の姿だった。
不二もまたリョーマの気配の消失を感じたらしい。
リョーマのことも気がかりだが、親友の惨状に普段の冷静さを失い、恐慌状態を起こしかけているのを河村が必死に宥めているところだった。
冷静さを失ったのは、不二だけではない。
手塚の後を追ってきた大石も穏和な表情をかなぐり捨てた。
血の気を失っている菊丸以上に蒼白な顔色で、それでも医師として適切であろうとしている姿は見ていて痛々しくすらあった。
そうして今、菊丸の部屋の前で彼の処置が終わるのを待っている。
彼と一緒にいたはずのリョーマの姿は、内宮のどこを探してもなかった。
加護女拉致、などという風聞は例え事実だろうと、外部に漏らすわけにはいかなかった。
割ける人手を考えると歯痒い限りだが、官や民に悪戯に不安を招くことは避けなければならない。
残りの政務を乾に任せ、桃城と海堂に捜索を続行させている。
宮城内のどこにも、リョーマがいないことはわかっている。
彼の気配どころか、式神たちさえこの事態に姿を見せないのだ。
それでも探さずにはいられない。
苛立ちに、らしくもなく何度も爪を噛む。
紫電宮……特に内宮には、強力な結界が張ってあった。
許された人間以外、害意を抱くものならなおさら、結果以内に侵入することは不可能なように……
安心していたのだろうか、自分は。
だとしたらとんでもない間抜けでしかない。
(……必ず守ると誓った……それなのに俺はいったい何をやっているんだ……)
今すぐにでも宮城を飛び出し、自ら探しに行きたかった。
しかし王が慌てた素振りを見せることは許されない。
最も大切なもののために、率先して動くことができないもどかしさを噛み締める。
王という立場にあることを煩わしく思ったのは、生まれて初めてのことだ。
きつく握り締めた拳。
手のひらに走った痛みに、我に返る。
爪が喰いこんだそこには血が滲んでいた。
そのことさえも苛立たしい。
焦燥感に舌打ちしたとき、目の前の扉が開いた。
菊丸の処置を終えた大石と、ぐったりとした不二を抱きかかえる河村に駆け寄りたい衝動を抑え、彼らがこちらに来るのを待つ。
「菊丸は?」
問いかけに、大石がこちらに視線を向ける。
厳しい眼差し……否、その瞳に宿っているのは怒り、だ。
愛する者を傷つけられた怒り。
底冷えがするほど冷たい焔が、大石の瞳に踊っている。
長い付き合いではあるが、穏和な彼がここまで怒りを顕わにしているのを見たのは初めてのことだった。
「肩が吹っ飛ばされていなかったのが不思議なくらいだった……とりあえず、不二が傷を塞いでくれた。満月期が近いからな。あの状態のまま変化すれば命に関わる」
治癒術は法術の中でも高等術の一つ。
大石の説明によると肩の骨が砕けていたというから、不二は傷を塞ぎ、骨を繋ぐための術を施したのだろう。
それは下手をすれば、彼女にとっても命懸けの術だ。
通常であればさしたる問題ではない。
不二ならば簡単にやってのける。
けれど、今の不二は体調も法力も不安定で……こんな状態で高等術を行使するなど無茶もいいところなのに。
しかしそれを止める訳にもいかなかった。
親友を救いたい不二の心情はもちろん、あのままにしとけば菊丸も危ない。
危険と隣り合わせであることはわかっていても。
手塚は許可したし、河村は見守るしかなかった。
「不二の方は……?」
「ん。治癒術が終わると同時に倒れたけど、休めば大丈夫みたいだ。じゃあ、俺は周助を連れて行くから」
「あぁ。頼む」
壊れ物のように大切に、恋人を抱き直し河村はその場を後にする。
「正直、不二が無理を押してくれて助かった。タカさんには申し訳なかったけど……英二を失うなんて……そんな恐怖、一度味わえば充分だと思ってたのに……そのために不二も危険な目に合わせた。躊躇いもなく……手塚、俺は白状なのかな……」
語尾はいつになく弱気だった。
深く溜息をつく友人に、手塚は小さく首を振る。
「そんなことはない。誰だって大切な存在は失いたくないに決まっている」
手塚の言葉に大石ははっとしたように顔を上げた。
そうして、苦い表情を浮かべる。
自己嫌悪。
そう顔に書いてあった。
「すまん……越前のことでおまえも居ても立ってもいられないだろうに……」
「…………謝るな。どちらも天秤にかけることはできん……」
リョーマのことは大切だ。
誰より愛しいと、初めて実感した存在なのだから。
しかし、だからと言って菊丸たちと彼の存在を天秤にかけることなどできるはずもない。
北辰王を継いで六年。
リョーマに出会うまでのその間、手塚が孤独の檻に囚われなかったのは彼らがいたから。
七星剣、と民が呼ぶ彼らはこの王宮内で、手塚を『王』としてではなく『個』として遇してくれる数少ない友人たちであり、それはこれからも変わらない。
リョーマも大切だが、彼らのことだとて大切。
得がたい友人を失いかけた怒りと、リョーマを奪われた焦り。
その二つと、王としての責任感が内心を渦巻き激しい葛藤を生み出している。
「手塚……英二がおまえを呼んでる……」
手塚の苦渋に気付いているのだろう、大石は控えめに口を開いた。
「!……気付いたのか?」
「あぁ……傷は塞いでも、失われた血が戻るわけじゃないから無理は禁物だと……安静にするように言ったんだが……どうしてもおまえに謝ると聞かない。それまでは休む気もないらしいから、会ってやってくれ……」
天真爛漫で気紛れなところもある菊丸だが、情にも責任感にも篤い。
そして不二に負けず劣らず頑固であった。
「わかった」
「でも……」
「無理はさせない。すぐ休むように言うさ。リョーマが戻ってきたとき、不二も菊丸も寝込んでいたら悲しむだろうからな」
その言葉に滲むのは決意。
必ずリョーマを奪い返す、という。
「そうしてくれ。俺は、話が終わるまでここで待ってるから」
「あぁ」
頷いて、扉を開ける。
部屋の奥。
いくつもの衝立に区切られた向こう側、寝台に横たわったままの菊丸は、手塚の姿を認め一瞬唇を噛み締めた。
それから身を起こそうとしたので手塚は慌ててそれを止めた。
「起き上がる必要はない。そのままで構わないから……」
押し留められ、起き上がるのを諦めた彼は、悔しそうに表情を歪ませる。
手塚は、見上げるのも辛いだろうと思い、立つのをやめて椅子を引き寄せそこに腰を降ろした。
見上げる姿勢は変わらないが、それでも立っているよりはましだろうと考えたのだ。
「…………ごめん」
「…………」
「おちびのこと守れなかった……俺が付いてたのに、みすみす得体の知れないやつに攫わせてしまって……本当にごめん。こんなんじゃ、北辰王の私官失格だよな……」
悔しさと、申し訳なさと。
大きな瞳を涙に潤ませながら、それでも視線を逸らすことなく見上げてくる潔さに手塚は胸を打たれた。
彼を私官に任じた己の判断に間違いはなかったという確信。
「俺は別に今回のことをおまえの失態とは思っていない」
「でも!!」
「俺や不二にその侵入を気付かせなかった輩だ。おそらく不二の術もそいつが砕いたのだろう……だとしたらそいつは『鬼』だ。鬼の一族の力は強大。星神を降ろしていない状態では、不二でさえまともに渡り合えるか……武術に長けてはいてもおまえは普通の人間だ。相手が『鬼』で、その上俺たちに気配を気付かせないような輩なら今回の事態は防ぐことの方が難しかったに違いない」
そう、むしろ腹立たしいのはあらゆる事態を想定していなかった自分自身。
だから菊丸を責めるつもりなど始めからない。
「むしろおまえの命まで取られなかったのは幸いだった。とにかく今は休め。リョーマは必ず取り戻す。そのときにはいつものおまえであいつを迎えてやれるように」
「……手塚」
言葉で表すことは、殊のほか苦手だ。
けれど、口にしたのは真実。
これで菊丸の命まで取られていたら……おそらく『箍』が外れた。
母から受け継いだ力を暴走させていたかもしれない。
この身に流れる、鬼の血によって。
神力と妖力と、まったく相反する力を持つゆえに、手塚はいつも心の均衡を保つことを強いられてきた。
いったん均衡が崩れれば、それはどれだけの被害をもたらすか手塚自身にも想像できない。
父にも母にも、それは難しいことだったろう。
どちらも甚大な力。
息子に平常心を第一とすることを教えることだけが、唯一の手段だったのだから。
北辰王の後継者たるものあたりまえの教育だが、手塚に求められたのはそれ以上のものだった。
なぜなら妖力は、怒りや憎悪などの『負』の感情に強く左右されるからである。
例え怒りに身を任せても、けっして我を忘れぬよう。
確かにある一線を越えてしまわぬよう。
感情の制御する術を身につけた。
少なくとも、今回のことで手塚は初めて『箍』が外れかけるという感覚を覚えた。
そのとき感じたのは恐れだ。
そこから先へ、一歩を踏み出してはならないという恐れ。
天の代理人としての責任感か。
あるいは人としての本能か。
そのどちらもかも知れない。
いまだかつて発現させたことのない己のもう一つの力は、とてつもなく危険なものであると改めて手塚に認識させることになった。
「いいか?おまえと不二の仕事は、今は身体を休めることだ。それを怠るなら、それをこそ俺の私官として失格だと思え」
怒りはふつふつと沸きあがり、焦燥感も燻り続けてはいるけれどそれは心からの言葉。
冗談めかしたのは、少しでも菊丸の心を軽くしたい気持ちの表れだった。
見下ろす手塚に、菊丸はちょっとだけ笑って小さく頷く。
そのことに安心して、立ち上がろうとしたのだが……
「待って、手塚」
「なんだ?」
まだ言いたいことが、と先を促す。
顔色が明らかに悪いので、早いところ休ませてやりたいけれど、話を聞くまで彼は休もうとはしないだろう。
「おちびが攫われたときのこと……後でいいなんていうなよ?おちびを取り戻すには、少しでも情報が必要なんだから。唯一の目撃者の言葉も聞かないなんてダメなんだから」
「……わかった。聞こう」
菊丸はほっと肩の力を抜き、大儀そうに深呼吸を一つした。
きっと身体の方は眠りを欲しているに違いない。
「……あの時。不二の様子を見に行った帰りに、外でお茶を飲もうってことになったんだ。晴れてたし、おちびずっと落ち込み気味だったから気晴らしになるかと思って……それで廊下を歩いてたんだけど……そしたらね、おちびが言ったんだ。『何かが変だ』って」
「何かが、変……だと?」
「うん。俺にはさっぱりわかんなかったんだけどね。おちびが言うには、何も感じられないってすごく気持ち悪そうだった」
そのときのリョーマの表情を思い出しているのだろう。
眉を寄せて心配そうな表情で菊丸が言う。
加護女であるリョーマが何も感じられない、ということは万物の力……すなわち五行が滞り作用していないということだ。
それが本当なら万物の愛し子たるリョーマにとっては、なんとも言えない感覚を与えたに違いない。
「それでね、おちびは俺たちは誰かの『封印結界』に閉じ込められたんだって言った」
「封印結界だと?」
北辰王の結界内にあって、手塚にその力を感知させずに新たな結界を張る。
それがいかに尋常でないことか。
手塚はリョーマを攫った相手を『鬼』と断定しているが、そもそも『鬼』であるなら紫電宮内には入って来れないはずなのだ。
その『鬼』が侵入し、あまつさえ結界を張るなど……
手塚の背中を嫌な汗が流れ落ちた。
おそらく自分が知覚したリョーマの気配が途切れた瞬間というのは、彼がその『封印結界』に足を踏み入れてしまったときのことなのだと推測する。
「おちびがそう言ったとき俺もまさかって思ったよ。でもおちびは真剣そのものだったし、嘘とか勘違いじゃなさそうだった……そうこうしてるうちに、目の前の空間が歪んで男が現れた」
「男?」
「ん。背は……手塚くらい。見たこともないような格好してた……どっかの民族衣装かな。乾ならわかるかもしれないけど、俺には見慣れない格好だってことくらいしかわかんなかった。顔は、上半分をお面で隠してた。んで、そいつが腕を動かした瞬間……『鬼』って言うなら、妖力にだろうな。俺……吹っ飛ばされちゃって、この有様、というわけ。大見得切ったわりに大したことない情報でごめんな。でも、どうしても言っておかなくちゃって……」
「大したことない、などというな。知る限りのことを話してくれたんだろう?……それで充分だ。後のことは俺たちに任せて、おまえはゆっくりと休んでくれ」
「……うん。手塚」
「なんだ?」
「おちびのこと頼むな。絶対連れ戻して……おまえと離れて、きっと不安なはずだから」
「あぁ、もちろんだ」
きっぱりと言い切ったのに安心したのか、菊丸はふっと息を吐き出すと、そのまま瞼を下ろしてしまった。
間を置かずに唇から規則正しい寝息が聞こえる。
菊丸が倒れていた場所には、夥しい血液が流れていた。
あれだけの血を一度に失ったのだから、身体の疲弊は只事ではあるまい。
それでも手塚に伝えるべく、気力だけで起きていたのだ。
労うように、眠りに落ちた菊丸に上掛けをかけ直してやってから、踵を返した。
手塚の結界内で、『封印結界』を施し、リョーマを拉致して仮面の男。
その背後には、おそらく天城が居るのだろう。
どのような手段で鬼と通じたかわからないが、けっして許しはしないと怒りを心に刻む。
(この報いは受けてもらうぞ、天城)
部屋を出た手塚は、そこで待っていた大石に菊丸の様子が落ち着いたら執務室に来るように言って、無駄とは知りながら桃城たちの報告を聞くために瑠璃宮を後にした。
続
タグ:[比翼連理]