作品
三章 梔涙月・八
なぜだろう。
水の中にいるのに似ている。
ゆらゆらと水面間近を漂っているような、そんな感覚。
苦しいわけじゃない。
けれど、いつまでも水の上には辿り着けない。
ずっと、ずっと水の中。
ゆらゆら、ゆらゆら。
そして、意識が、心が、常に取り巻く水に溶けていこうとするのだ。
いけない、と思う。
このままではいけない、と。
本能的に思ってリョーマは、必死になって自分の意識を繋ぎとめようとする。
その瞬間。
錯覚だろうか?
リョーマの意識を捉える水牢のようなものに、雫が一滴落ちて……幾重にも波紋が広がっていくイメージ。
朦朧としていた全てが、次第にはっきりとしはじめる。
まず蘇えったのは、四肢の感覚。
重い。
果てしなく重い。
身体を動かした結果の疲労とは比べ物にならないくらい。
まるで自分の一部ではないようだ。
ともすれば腐り落ちてしまいそうな……不快感。
意識は先ほどよりはっきりしているのに、脳からの指令が伝達されていないのか、指先一つ……瞼さえぴくりとも動かない。
肉体という器が意味を無くし、ただの入れ物と化した。
リョーマの心や魂、あるいは意識を拘束するためだけのものになってしまった気がする。
動かない身体。
そのことに、フラッシュバックする記憶。
血溜まりの中に倒れ伏した……
(……英二。大丈夫だったかな……誰か、気付いてくれた?瑠璃宮から出る前……だったよね……周助が気付いてくれればいいんだけど……)
そうして思い出す。
自分は、何者かに攫われてしまったことを。
見知らぬ男。
仮面で顔を隠した。
菊丸に駆け寄ろうとしたリョーマの腕は、男の強い力に囚われて。
何か術をかけられ、意識を失った。
あれからどれくらい時間が経ったのか……
今のこの状態も、その男によるものなのだろうか。
自分のものでないような腕に、掴まれたときの痛みが蘇えったような気がして、疼きを訴える。
それはたまらなく不快だった。
リョーマの不快さを更に煽り立てているのは、あのとき足を踏み入れた封印結界と同じ。
あるべきはずの万物の『気』……五行が、絶たれているから。
嗅覚が捉えたのは、鉄錆のような金臭さ。
(……これって、血のにおい?……)
一瞬自分自身が出血しているのかとも思ったが、そうではないようだ。
この臭いは、少なくともリョーマが囚われている空間に充満している。
狭い空間ではなさそうだし、空気も僅かに流れているのも感じられる、そこにこれほど匂いが立ち込めているということは……常識的に考えてみても、相当量の血が流れているはずだ。
だとしたら、もしこの身体から流血しているのだとしたら自分はとうに死んでいるはずだろう。
では少なくとも生きてはいるのだ。
よかった……と、胸に湧き上がるのは安堵。
自分の命はどうやらまだあるようだ……ということだけではない。
もし、死んだりしたら……
(……死ねないもん。国光に心配かけたまま死んだりなんて、絶対できない……)
自分が攫われたことを彼はもう知ったのだろうか?
だとしたら、きっと心配してる。
責任感が強くて、いつもリョーマのことを優しく気遣ってくれる半身のことを思うと、胸が痛い。
彼と離れていることが不安でたまらない。
瑠璃宮はいつも彼の結界に守られていたから、どこにいたって手塚の気配を感じることができた。
それが全く感じられない。
手塚の顔が見たい、あの声で大丈夫だと言って、大きくあたたかな手のひらで頭を、頬を撫でて欲しい。
いつかのように、抱き締めて欲しい。
そしたらどんな不安も振り払えるような気がするから。
彼が傍にいないこと、渇きに似た願いが今すぐ叶わないことが辛い。
弱気になんてなりたくない。
リョーマはほんの少しだけこの状況に感謝した。
もし弱気が言葉として唇から零れ落ちたら……それを自分の耳で確認してしまったら……そう考えると。
ただの入れ物と貸した身体の内が、切なさと恋しさでいっぱいになってしまいそうだ。
仰向けに横たわっているらしい背中に伝わる、冷たく固い感触。
石の床だろうか。
冷たさが、心を奮起させた。
心がこれ以上弱くなってしまわないように、リョーマは手塚のぬくもりを思い出す。
ちゃんと覚えている。
けっして忘れないよう、身体が、心が覚えているはずの彼のあたたかさを再生する。
(……負けるもんか。俺は帰るんだ……国光のところに帰るんだ。何があっても、絶対!!だから、諦めない。チャンスは、必ずやって来る……)
自分の居場所。
それは手塚の隣しかない。
リョーマが帰るべき場所は、もはや生まれ育った世界ではないのだ。
帰るべき、そして帰りたいと願うのは彼の傍ら。
(……国光……)
名を胸の内、呼ぶだけで、心が強くなる気がする。
彼の名前は最強の呪文かもしれない。
なぜそれほどまでに慕わしいのか……
自分の全てを預けてしまいたいと思えるのか。
わからないけれど。
(待ってて国光、必ず俺、帰るから……国光のところ以外、帰らないから)
相変わらず、五感は開いているが、ままならない身体でリョーマは強く、強く思った。
そうすると、耳朶がほんのり温かくなる感じがした。
その場所には、手塚がくれた耳環がある。
希少価値のピンク色の真珠。
花びらのような可愛いそれをリョーマの手のひらに乗せてくれたときの手塚の顔。
離れ離れの今、けれど確かに手塚を感じさせてくれる耳環に、勇気が湧いた。
身体は動かないけど、目も開けられないけど、何があっても諦めるもんかという気持ちは、ピンチのときこそ大事なのだということを競技の世界に身を置いていたリョーマは知ってる。
絶体絶命の、その瞬間さえ。
決意したリョーマの耳に、音が聞こえた。
足音、だ。
心が緊張に強張る。
何をされるかわからない、という恐怖はあるけど、手塚の元に帰ると決めたことを思えばどんなことでも耐えられるはずだ。
ただ、今の自分は、身動きがままならない。
万が一、命に関わるような真似をされたら抵抗もできず『死』を受け入れる事態は免れないから。
それだけが、とても。
とても、恐ろしい。
ギギギギ……と、分厚いだろうと思われる金属の扉が重そうな音を立てて開かれた。
風が頬を弄る感覚。
だからと言って、血臭が祓われることはない。
淀んだまま、満ちている。
リョーマは一つの推測を立てた。
この血の臭いも、術の一種なのではないだろうか。
だとしたら封印結界?
しかし、結界にしては禍々しい気配に満ち満ちている。
「まぁ、情けない有様ですわね」
嘲笑と共に耳に届いた声。
その声には聞き覚えがあった。
別に覚えたくはなかったが、覚えてしまった声の主にリョーマは心当たりがある。
(……天城の、姫……ということは、俺を攫ったのは天城って言う親父の手下?……)
攫われる理由にも、思い当たる節がないわけではない。
彼らにとって、ある日突然現れた『加護女』である自分は邪魔で仕方ないのだろうから。
手塚たちも警戒していたし、自分でも注意していたつもりだけど。
ここまであからさまな暴挙に出るなんて、よほど勝算があってのことなのだろう。
(……その勝算が、俺を攫ったやつ……なんだろうな)
何せ、手塚の結界をものともしなかった上、いともあっさりリョーマを術にかけたのだから。
ままならぬ状態にありながらリョーマは冷静に分析し続けた。
現状において、情報を最大限に得ようと、精神を研ぎ澄ませ気配や会話だけでも聞き漏らすまいと。
肩をこつりと何かで揺すられた。
感触から言って爪先で蹴られたのかもしれない。
多分、涼華に。
「下賎の半陽には、この方が何倍もお似合い。したり顔で主上の隣にいるなどおこがましいことこの上ありませんもの」
高圧的な言い様に、リョーマは身体が自由になったなら迷わず溜息を付いただろう。
全くもって救いようのない驕慢さだ。
怒りや呆れを通り越して、哀れみさえ覚える。
「何でこんな子供が『加護女』なのかしら?妾(わたし)の方が、家柄も美貌も、ずっとずっと相応しいですのに」
結局基準はそれなのか。
だとしたら、天地が逆転したって涼華が『加護女』に選ばれる日はこない。
リョーマはけっして自分を『加護女』に相応しいとは思わない。
手塚の『加護女』として相応しくありたいと思いはするけれど。
その重責や、存在の意義を知っているなら自分の口からそんなこと、言えるはずもない。
選ばれた以上、資質はあるはずだとは思っても、それに胡座をかいてたらとてもじゃないけど『加護女』の責務は果たせないとリョーマは思っている。
手塚が、加護女だからリョーマが必要なのではなく、リョーマだからこそ己の加護女と言ってくれた言葉に応えたいから。
涼華には、その瞬間の喜びを、例え同じことを言われても理解することはできないに違いない。
「ねぇ、お父様。殺してしまいましょうよ。主上の隣には妾の方が相応しい……この半陽がいなくなれば、主上もきっと御理解くださいますわ。そしたら妾を見てくださる。邪魔なだけですもの。こんな子供、存在しているだけで腹立たしい」
聞けば聞くほど、哀れになるのはどうしてだろう。
ひょっとしたら彼女の思うまま、殺されてしまうかもしれないのに。
涼華の心の貧しさは、もはや哀れみしか感じられない。
命は……自分の思い通りにならないからと言って、物みたいに壊したりしていいものではないのに。
命のないものを大事にする心だって、人にはあるはずなのに。
彼女からは、己の思うままに振舞う以外の心が欠損しているとしか思えない。
そういう風に育てたのはおそらく。
彼女が呼びかけた父親、なのだ。
一度だけ見た、いやらしいほどの慇懃さを思い出す。
天城もまた、何かが欠損した人間なのかもしれない。
「残念だが、それはできんよ、涼華」
「なぜですの?」
父親の言葉に、涼菓は拗ねたような声を出す。
「下賎のものでも『加護女』は『加護女』。一度選ばれ、天鈴を得た以上、おいそれと殺すことはできぬ。加護女の命を悪戯に害すれば、即座に天により罰せられよう。それはわしの望むところではない」
かなり利己的ではあるが、それ位の分別はつくらしい。
父親が是と言わねば、涼華も自分の望みを実行に移すことはすまい。
ともかく、命を今すぐどうこうされることはないだろうと結論付けて、リョーマは胸の内安堵する。
「おまえには不快かもしれんが、人質は生きていてこそ人質。虜囚の形であっても、真実の『加護女』を失うわけにはいかん。おまえが主上の隣に立つためにも、この半陽には生きていてもらわねば」
涼華が、手塚の隣に立つ?
リョーマを人質にして、何か取引でも持ちかけるつもりなのか。
「おまえが傍近くに常にあれば、主上も心を動かされよう。この半陽のことなど思い出させなくしてやればよい」
それはいったいどういうことか。
否、そんなことよりも。
手塚の隣は自分の居場所。
ただ一つ、そこにいたいと願う場所なのだ。
それの場所に涼華が居座ろうと言うなら、我慢ならない。
彼の隣に自分以外の誰かが立つことを想像したとき……胸が灼けつきそうな痛みを訴えた。
なんだろう、この気持ち。
ひどく熱くて、醜い……それはわかるけど、消すことができない。
「そう……そうですわよね。身動きもできぬ今の状態では、死んでいるのと変わりませんもの。ただ生きているだけの人形如き、気にするまでもありませんわ」
勝ち誇った声音に、悔しさが込み上げる。
手塚のことは信じてる。
彼がくれた言葉を、心を……そして態度をリョーマは微塵も疑わない。
だから今、哀れみを凌駕して沸き起こる憤りは、ただひたすらに天城親子に……涼華に向けられているものなのだ。
(……ダメ、渡さない!あんたになんか、国光は絶対渡さない……だって国光は……国光は、俺の大事な人だから……大好きな人だから……!)
渦巻く心に、リョーマは愕然とする。
今、初めて思い至った。
手塚に対する、見知らぬ気持ちのそのわけを。
不二が河村を想うように。
菊丸が大石を想うように。
自分も手塚に恋をしていたのだと。
恋心は、とても自然にリョーマの胸に収まった。
気付いてしまえば、あっけないほど当たり前の感情だった。
式神の言っていたとおり、その心は、すでにリョーマの中にあったのだから。
だが、今のリョーマにはその気持ちを噛み締めることは許されないようだ。
「のう。この状態は維持できるんだろうな?」
第三者に天城が問い掛けているのを察して、リョーマは緊張する。
「『加護女』を捕らえておくことは可能だ」
その声は。
リョーマを拉致した仮面の男に間違いない。
今まで気配も感じなかった。
いつからそこにいたのだろう。
最初からか、それとも今このとき姿を現したのか。
「それはどういう意味かな?」
「『加護女』がこの呪檻を自力で抜け出すことはできない。だから留め置くことは可能、と言う意味だ。今は仮死状態に近く身動きが取れないが、女性化すると『半陽』は感覚が研ぎ澄まされると言うからな。その間は多少意識が戻ったりすることはある。さっきも言ったように、『加護女』がここから自力で出ることはできないから、危惧するまでもない。男になれば、また仮死状態に逆戻りだしな。後はあんたの首尾次第だろう?俺の仕事は、『加護女』を捕らえて来ることだったはずだ。ここまでやれば十分約束は果たしたろう?念のため妖魔を置いていってやる。後は好きにするがいいさ」
面白くなさそうに男は言った。
その口調は、どことなくぎこちない。
そう、普段乱暴な言葉使いしかしない父親が、檀家の人の前で言葉を改めていたときの感じに似ている。
つまりリョーマが拉致される瞬間に感じた違和感はそれだったのだ。
それともう一つ感じたこと。
聞き覚えのあるような声である……という印象。
心当たりは絶対にないのに、確かにそう、なんとなく覚えのある声……誰かに似ている声だ、と今も思う。
誰の声だったろう?
それに妖魔といっていた。
妖魔は陰陽の理に属さない、妖しのもの。
この世界に在りながら、世界とけっして相容れることのないという鬼の一族と、同じ。
人が霊獣たちを使役するように、鬼は妖魔を使役するのだと言う。
(……だとしたら、こいつは……鬼……なの……かな……?)
疑問に思ったリョーマの意識が、また拡散していく。
意識を捉える水の檻に溶けてゆこうとする。
(……ダメ、だったら……)
手放してはいけないと思うのに、いっそうたちこめた血の臭いに邪魔されて……
最後に残ったのは、気付いたばかりの恋心。
手塚を恋しく想う、その心だけが男の術に抗うようにリョーマの中で灯火になる。
(……必ず、帰るんだ……そして伝えるんだ……俺の、気持ちを……)
何処かへ溶け出し、落ちていきそうになりながら……
天城親子が何か言っている。
もうそれを聞き取ることはできない。
そして男の気配もすでに感じられない。
これ以上意識を保って入られず、とうとう手放してしまったリョーマが朦朧としながらも最後の瞬間に胸の内呟いたのは……
(…………だいすき……くにみつ……)
生まれて初めて恋した人の、名前だった。
続
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