作品
三章 梔涙月・九
誰かに名を呼ばれた気がして、手塚は顔を上げた。
この世界で、手塚を名で呼ぶ者など、今は一人しかいない。
「……リョーマ?」
それに応える声はなく、深く失望の溜息を付く。
本来ならば、午後の執務に当てているはずの時間。
とても集中できなくて、足を運んでしまったのは……今は主が不在の部屋。
乾たちも手塚の気持ちを察してくれているのだろう、必要最低限の決裁書類のみが執務机に運ばれ、それさえ処理してしまえば執務時間にふらりと姿を消しても何も言わなかった。
彼らに負担をかけている自覚はある。
しかしこの耐えがたい喪失感をどうすることもできない。
リョーマが攫われたのは二日前のこと。
そのたった二日間が、手塚には永劫の時間にさえ感じられた。
ことの黒幕と思われる天城の動向を探らせてはいるけれど、なかなか尻尾を掴めないことが苛立ちを募らせている。
不二と菊丸はいまだ床を離れられず、その影響が如実に現れていると言ってよかった。
いったい何度目の溜息か。
そのとき、足元を何かが引っかいた。
視線を向けると、真珠が心配そうにこちらを見上げている。
リョーマがこちらに召喚されてさほど時が経っていないころ、故郷で猫を飼っていたと言う子供の慰めにでもなればと、自ら捕らえ贈った雷獣の仔は、腕に抱えるほどの大きさに育っていた。
名前の由来になった通り、美しい毛並み。
成獣になれば、とても部屋で飼うことはできないが、まだまだ甘えたい盛りの真珠もまた主人の不在に不安を隠し切れないようだった。
くるくると鳴きながら、しきりに手塚に身を摺り寄せる。
その身体を膝の上に抱き上げてやり、そっと撫でてやる。
真珠の不安を少しでも払ってやることで、自身の喪失感も埋められるように。
必ずリョーマを取り戻す。
決意は日増しに強くなる。
けれど黒幕はわかっていても、証拠のない段階で動くわけにはいかない。
それに加護女拉致の件は内々で収めなければならないため、いまだ私官と太師のみしかこの事実を知る者はいないのだ。
すぐにでも、天城邸に乗り込みたい気持ちは山々なのに。
『主上』
その声に手塚は身体を強張らせる。
膝の上の真珠も、長い耳をぴくぴくと動かした。
周囲を見回してみても、声の主の姿はない。
だが気のせいではなかったはずだ……
開け放たれていた窓から飛び込んできた、小さな影。
翡翠の羽毛を持つ小鳥が、硝子製の卓の上にひらりと舞い降りた。
「…………透理……か?」
『はい』
「その姿はどうした?それより今までなぜ……」
リョーマの式神たちは、彼が拉致されて以後その姿を現さなかった。
菊丸の話では、攫われる直前、リョーマは透理に用事を言いつけていたということだが……
封印結界のせいで気配が途切れたならば、式神たちにもそれは伝わったはずであるのに。
『申し訳ありません。リョーマ様の気配が絶たれた途端、我らの力も削がれ……この形を取るので精一杯なのです。こうして姿を何とか現せるのは私一人。あとの者は本性から離れることすらできないのです』
小鳥の顔から表情は伺えないけれど、声音は悔しさが溢れている。
「そうか」
『私がこのような形でも現れることができたのは、ひとえに耳環のおかげ。耳環の素体として私の本性が使われておりますれば。そこに残るリョーマ様のお力と、身につけておられる主上のお力によりまして、辛うじて……』
透理の言葉に、手塚は耳環に指の腹で触れた。
リョーマが手ずから、力を込めて作ってくれた、それ。
今も触れれば、あたたかな護りの力が伝わってくる。
『主上、恐れながら意見を言わせていただいてもかまわないでしょうか?』
「あぁ、許す」
『ありがとう存じます。主上……リョーマ様は、何処かに封じられているのではないでしょうか?リョーマ様の気配、いかに探れども感知できないのです』
「それは……俺も考えた。誓約を交わしていない状態では限界もあるが、俺にもおまえたちにも気配一つ感知できないのはあまりにも不自然だ」
存在を封じる……というのは、本来容易なことではない。
かつて手塚の父はその命をもって、悪路王の存在を封じる手段を取ったが、永続的な存在の封印には……ことに封印対象の力が大きければ大きいほど……相応の代償が必要になってくるからだ。
だが、一時的なものであるならば、ある程度力があればさほど難しくはない。
覚醒した状態ならまだしも、今のリョーマは加護女として不完全だ。
不二くらいの法力を持つ法術師……いるとすれば、だが……であれば、封印結界を応用した術により、リョーマを存在ごと封じることができる。
つまり現在のリョーマ以上の力を持っているものなら……
リョーマを攫ったのは鬼。
鬼道の術にも、似たような形態があることは母から聞き及んでいる。
そして鬼の妖力と、北辰王の神力、加護女の万物の力とは全く相反するものだ。
その相反する力に押さえつけられているとするなら……今のリョーマの状態は推して知るべし。
本人に意識が全くない状態なら、気配を探れないのは道理だろう。
「……リョーマ」
思わず呟いた名前。
眉間に深く刻まれた皺は、愛する存在の現状を慮ってのこと。
誓約を交わしている状態なら、どこにいたとしても……たとえリョーマが元の世界に戻ってしまったとしても、その存在を感じることができるのに。
こんなことなら、もっと早く。
リョーマを加護女として心から迎え入れた時点で、体面など考えず誓約を交わしてしまえばよかった。
そうすればこんな状態にあっても、証拠だなんだとやきもきする必要はなかったし、それ以前にむざむざ鬼に攫われるような事態にはならなかったかもしれない。
覚醒した加護女なら、いかに強大な力を持つ鬼と言えど遅れをとるようなことはないからだ。
リョーマの加護女としての潜在能力は、母以上と言ったのは不二。
鈴鹿御前は、万物の力と、そして妖力を自在に操り、歴代最強の加護女と言われていた。
その母を上回ると言うなら……
胸に寄せて返すは後悔ばかり。
自然苦しげな表情になってしまうのだろう。
それを透理が痛ましそうに見上げている。
『主上……気配は絶たれていても、お力までが途切れたわけではございません。あまりに細く、辿ることは困難にございますが……お傍に行くことが叶うなら、居場所を特定することもできましょう……主上であれば、必ずやリョーマ様をお助けくださること、この透理疑っておりませぬ』
しっかりなさいませ、と叱咤されたように感じて、手塚は我知らず苦笑する。
そうだ。
後悔するのは簡単なことだ。
今の自分には、それよりももっとすべきことがあるはず。
「わかっている……その期待、裏切ることはすまい」
『はい、主上。私もこのような姿ではありませど、できる限りのことはいたします』
「あぁ」
手塚は膝の上にのせていた真珠を長椅子の上に降ろした。
真珠は不満そうに鳴いたが、場の空気を読み取ってか、神妙に大人しく座り込む。
「手塚、ここにいたのか」
衝立の影から姿を現したのは、大石。
その背後には乾の姿が見える。
卓の上にいた透理は、その姿を認めると邪魔にならぬよう飛び去っていった。
「あぁ、すまん。すぐ執務に戻る」
「……別に執務をサボってるおまえを連れ戻しに来たわけじゃない。今後のことに付いて話し合おうと思ってな」
「おまえが姿をくらましてから回ってきた書類は、重要なものを除いては俺が目を通して、決裁しておいた。後で文句を言うなよ」
眼鏡を直しながら、乾が言う。
彼は私官となり、政務の補佐を任せられるようになった時点で、ある特技を身につけた。
すなわち、手塚の筆跡をそっくり真似ることができるという特技を。
毎日執務室に運ばれてくる書類の量は膨大だ。
しかし目を通し、決裁する王は一人。
時には手の回らなくなることもある。
そういう時、書類に目を通し、重要案件以外には手塚に代わって署名をする……もちろんそれは内輪だけの秘密で、手塚も乾の判断力を信じていればこそのことなのだが。
最終的には御璽も必要であるが、それでも乾が署名してあるものにただ押印するだけですむので手塚の負担は軽くなる。
外聞的にはあまり誉められた行為ではないのかもしれないが、手塚は己の私官たちを信頼していたし、彼らの補佐には随分助けられているのだ。
「おまえの判断は信頼してる。文句など言うはずもない」
「そりゃ、どうも…………あれから、一応手の者に天城邸を見張らせているが、何の動きもない」
「……そうか」
「だがこのまま手を拱いているわけにもいかないだろうな」
大石の表情はいつになく厳しい。
恋人を傷つけられたことが、誤魔化しようもない憤りとして顕れている。
普段はとてつもなく穏やかな大石であるが、その内面には激しいものが眠っていることを手塚は知っていた。
「それは、そうだな。何より『誓約の儀』が間近だ……満月期も目前だ。明日か、明後日か……越前も女性化する頃合だ。まぁ、腐っても初代のころから王家に仕えてる天城家の当主だからな。加護女を害することまではしないだろう。どうなるかは、わかっているはず」
乾の言うとおり、リョーマの命が、簡単に奪われないことだけは確信できた。
加護女を害すること……その命を手にかけることは、万物の加護から見放され、子々孫々に至るまで呪われる。
加護女に横恋慕した春官が、このままではどうあっても愛しい女性を自分のものにはできないと思い余り、彼女を犯した挙げ句手にかけた。
結果どうなったかといえば、男の身体は加護女の血を浴びた部分から腐り始め……その苦痛に悶えながらも死ぬことも狂うこともできず、全身が爛れたようになってもなお生き続けた。
否、呪いによって生かされ続けたのだ。
ようやく男が死ねたのは、それから何十年も経った後。
妖鳥(鳥の姿をした妖獣のこと)の群れに身体を啄ばまれ、骨さえ残らなかったのだという。
そうして彼の家族やその一族には、けっして消えない罪の烙印が顔に浮かび上がり、世間から排斥され続けいつしかこの国から姿を消した。
そのような例は過去にいくつかあって、天城家の当主であればその話を知らないはずもない。
それがただの伝承などでないことも、無論知っているはずだ。
あの男の性格から言って、全く実を結ばない賭けはしないだろう。
リョーマを殺すということは、即座に破滅に繋がるとわかっているのだから。
「まぁ、あの御仁のことだ。手柄は見せびらかしたい、優越感を感じることに無上の喜びを感じる性格から言って、そんなに黙っておくことはできないだろう。遅くとも二・三日中にはこちらに何らかの接触を試みるさ。俺に言わせてもらえば、野望を内に秘めていられない人間ほど、謀には向かない輩はいない」
淡々とした口調で、実に手厳しい意見である。
なかなかの策謀家ではあっても、義に反することを嫌う性格の乾には、天城のようなやり方は唾棄に値するのだろう。
乾の分析に手塚も頷いた。
「そうだな。リョーマが手の内にある以上、自分を優位と疑っていない。それにあいつは殊のほか視野が狭い。北辰王にとっての加護女、そして俺にとってのリョーマがどれほど大事な存在か、想像したこともないんだろうよ。いずれにせよ、一瞬でも尻尾を見せたが最後……今回の報いは、嫌というほど味合わせてやる。あの男にとって、もっとも屈辱的なやり方でな」
胸の奥でちりちりと、負の感情が燻っている。
『箍』が外れるほどではない。
これまでにも何度か覚えのある感覚だ。
いつしか制御する術を覚えたが、それでも人である以上聖人君子ではない。
怒りや悲しみや憎悪を感じないわけではないのだ。
常は一線を越えぬよう努めているその感情を、自分の中に認めたとき。
手塚は己の中の『鬼の血』を自覚する。
非道を厭うことのない、彼らの性質が自分の中にもあるのだと、その度に戒めて。
今も己が冷静であることを確認しながら、けれどこの怒りを向けるべき矛先に対して容赦する気持ちは欠片も沸き上がらなかった。
「問題は、越前を攫ったとかいう鬼だな。どちらがどちらを手駒にしているかは、わからないが……厄介なことには違いない」
「いざというときは、星神を降ろす。加護女を危機に陥れたのが『鬼』であるなら、いささか俺の私情が入っていても、天はお目溢しくださるだろう」
天軍は最後の切り札。
安易な理由で用いることは、許されていないが北辰王の最たる役目は、鬼が世界の理に悪意を持って干渉して来たときに討伐することにあるのだ。
『加護女』の危機に鬼が関わっているのだから、それは世界の理に対する悪意を持った干渉と言ってもいいはずだろう。
「なるほどね。だったら、誰に星神を降ろす?例えいざというときでも、あまり大事には…………」
「俺では駄目か?」
手塚と乾の会話を聞いていた大石が、有無を言わさぬ強い声音で名乗り出る。
その瞳を手塚は見つめた。
瞳の内に踊る、冷たい怒り。
けれど、けっして我を忘れているわけではない。
普段であれば、不二を伴うのが自然の成り行きなのだが、今の不二に星神を降ろすなどという真似をしたら、自我を喰らい尽くされかねず、そうすれば彼女はまさしく生きて動くだけの人形と成り果ててしまう。
とすれば、名乗り出るまでもなく大石が妥当な人選なのだが、怒りに我を忘れられるようでは本末転倒。
だが、いま大石の目を見て、彼もまた怖いくらい冷静なことを確認した。
たぶん。
怒りのまま荒れ狂うより、大石のように怒りを内に秘め、冷たく燃やしている方が何倍も恐ろしいに違いない。
そしてそれはいまの手塚自身にも言えることで。
「わかった。天城のところに行くときは、おまえに供を頼もう、大石」
「あぁ」
頷いた大石を見て、乾が肩を竦める。
「やれやれ、天城殿も全く考えなしだな。いや、考えた結果がこれならお粗末もいいところだ。俺なら絶対おまえたち二人を敵に回そうなんて、死んでも考えないぞ」
「それは、誉め言葉か?」
手塚が呆れたように問えば、高名な歴史学者であるところの彼は、もちろん……としたり顔で応じた。
「二日だ。あと二日は出方を見守ってやる。だが、それを過ぎたら証拠など関係あるものか。『誓約の義』までに、リョーマは必ず取り戻す!」
冷たく落ち着いた口調で手塚がそう宣言するのに、その場にいた二人の私官は恭しく拱手したのだった。
翌朝。
手塚や乾の予測に洩れることなく、天城家から献上物が届いた。
金で作った鳥籠と、紅い羽根の美しい尾羽の長い珍種の小鳥。
紅はすなわち、加護女の貴色であり、女を表す色。
籠は、加護に通じる言葉。
籠女……加護女。
捕らわれたリョーマを意味しているとしか思えない、天城からの献上品。
御丁寧に、手塚がリョーマに贈った戒指(ゆびわ)が、小鳥の足に括りつけられて。
お忍びで礼を言いに行く、という名目で手塚と大石が天城低を訪れたのは、その日の午後のことだった。
続
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