作品
三章 梔涙月・拾
意識が浮上していく。
ゆっくり、けれど確実に。
リョーマは初め何がおこったのかわからなかった。
何度か瞬きをして、ようやく自分は目を開けているのだと気づいた。
しかしだからといって何が見えるというわけではない。
室内は薄暗く、むせ返るような血の臭いで満ちている。
少しずつ、力を行き渡らせていきながら、リョーマはその場に身を起こした。
意識ははっきりしているものの、全身の感覚は鈍い。
指先を動かすだけでも、ひどく億劫で、スローモーションのように感じるのだ。
あまり気は進まなかったが、リョーマは何度か深呼吸をした。
案の定そのたびに吸い込む血臭にあてられそうになりながら、何とか気息を整える。
そうすることで、意識と感覚の双方向伝達を回復できることを不二から習っていたので。
時間はかかったけれど、身体を動かす際のもどかしさはいつしか消えていた。
ようやく薄闇に慣れた目で、まずは自分自身を点検する。
とりあえずこの空間に満ちる血の臭いの出所は自分ではないことはすでにわかっていたが、念のため。
リョーマはなぜ、自分の意識が戻ったのか、わかった。
身体が、女性化していたのだ。
自分を拉致し、この空間に術を施していたであろう男の、夢現に聞いた声を思い出す。
曰く女性化している間は、『半陽』の感覚は鋭くなる、と。
研ぎ澄まされた感覚は、術などの外的な力の本質を掴み、その影響を受けにくくするものだということを不二からも聞いている。
彼女が、強大な法力を制御し、高等法術を使いこなせる理由の一つがそれだ。
女性化している時間の長い不二は、『半陽』の特性を存分に活かし術に臨んでいる。
だから、男でいる間の方が、術が多少レベルダウンするらしい。
「そっか……満月期になったんだ」
ということは、拉致されてから少なくとも三日は経っているわけで……
だが、空腹感は感じない。
それは多分、この空間に施されている術のせいだ。
時流がひどく緩慢になっている。
時間を止めることは、不可能だ。
だが空間を捻じ曲げたり、隔離することによって部分的に時流のから切り離すことはできないことではない。
そうすることで通常よりもゆっくりとした時流を意図的に作り出すのだ。
結界術の応用に当たるが、法術においては超高等術の一つで、不二であってもおいそれとは使えない代物だ。
北辰王の神力や、加護女の万物の力であればそれほどではないけれど、やはり滅多なことではそんな力の使い方はしないものだと聞いている。
どうやら法術ではないようだ。
あの男が鬼なら、これは鬼道の術だろう。
空間を切り離すのと同時に、五行を塞き止めた。
だからここではあるべき五行の気が存在せず、気が巡らないため全てが静止したように感じる。
万物の力を己のものとしている自分には、居心地が悪くて当然だ。
気を抜けば、空気が重く圧し掛かりリョーマから意識を奪おうとしてくるのがわかる。
悔しいが、現時点ではこの術を施した鬼の方が、力は上だ。
自分には、これを内側から破ることはできない。
あがいてみるのも一つの手だが、そんなことをして体力を消耗すれば、相手の思う壺になりかねないのが目に見えてる。
おまけに立ち込める血の臭いで、意識を集中することもできやしない。
加護女として覚醒していれば……と考えて首を振る。
いつだって、そのときできる全てでベストを尽くすことを最良としてきた。
弱気になるなんて自分らしくない。
「……まだまだだね」
ぴしゃんと頬を軽く叩いて、そのまま耳朶に手を伸ばす。
指に触れる固い感触。
そこから感じる、あたたかな波動。
「国光」
気付いたばかりの気持ちが、胸の奥に息衝いている。
いつのまにか当たり前のように育っていたただ一人への想い。
リョーマの中でもっとも揺るぎない、誇れる気持ち。
手塚への恋心。
この気持ちを伝えたい。
早く、伝えたい。
まだ子供の自分は、彼にとってそういう対象ではないかもしれない、と思ったりもする。
でも、きつく抱き締めてくれたときの腕の強さや、向けてくれる眼差しを思い出して、それが背中を後押ししてくれるから。
今はただ、この気持ちを手塚に知って欲しいだけ。
心がある場所がどこかなんてわからない。
けれど多分、そこにあるのだと思う場所……心臓の真上に両手を押し当てて大好きな人のことを考える。
不思議だ。
それだけで、とても。
とても力が湧いてくる気がする。
「大丈夫。必ずチャンスはある」
それに手塚たちが手を拱いているとも思えない。
今、リョーマがすべきことはただ一つ。
何があっても、生きて帰る望みを捨てないこと。
菊丸や不二の無事な顔を確かめて。
そして手塚に抱き締めてもらうのだ。
大丈夫、ともう一度自分自身に言い聞かせ、リョーマが更に注意深く周囲を観察しようとしたとき。
石畳を歩くような足音が耳に届いた。
そちらの方に顔を向けると、今まで気付かなかった鉄格子のはまった扉が見えた。
朦朧とした意識の中で聞いた扉の開く音は、重く、そして金属質だったから、おそらく扉自体も分厚い鉄製に違いない。
近付いてくる足音。
しかしそれよりもリョーマの身体を緊張させたのは……
鉄格子からかすかに洩れる明かりによって照らされた床。
石の材質はわからない……けれど……こんなに禍々しいまでに鮮やかな紅い石があっていいものだろうか?
まるで鮮血を塗りこめたような……
その思いつきは、多分正しい。
この空間……すなわち牢獄に充満している血の臭い。
その理由こそ、この紅い石に違いないだろう。
人の血か、獣の血かわからない。
どちらにしろ、いいものでないことは確かだ。
血の檻。
なるほどあの鬼の言葉は確かだ。
床だけではない、おそらく四方の壁も、天井もこの術が施されているに違いない。
術に要した血の量は半端ではない。
空気が重苦しいのは当然だ。
血の臭いに紛れて、死と怨嗟の念が練りこまれているのだから。
連綿と続く命の連鎖を見守る立場にある加護女を閉じ込め、その力を封じるにはこれ以上のものはない。
この呪檻を破ることができないと、あの鬼が自信満々に言ってのけたのは、何もリョーマの力不足からだけではなかったようだ。
「おや、お目覚めかな?」
床を凝視していたリョーマの耳に、壮年の男の声が聞こえた。
知らない声ではない。
リョーマは気付かれないように溜息を一つ付くと、臆することなく顔をあげ声のした方をみた。
(……やっぱり……)
鉄格子の向こうに、慇懃無礼という言葉で身を飾った男の顔。
自分を拉致した元凶ともいえる存在だが、恐れる気持ちなんて欠片もなかった。
卑怯な手を使う相手に対してなぜ自分が小さくならねばならないのか。
リョーマのプライドは、けっして低くはない。
天城の姿を認めたリョーマは、わざと意に介さない風にすいっと顔を背け、あからさまに肩を竦めた。
あんたなんて眼中にない、とでも言いたげに。
事実そのとおりだったのだが、天城の顔が一瞬引き攣ったのをリョーマは見逃さなかった。
重い音を立てて扉が開けられる。
入ってきたのは二人。
天城と涼華だ。
涼華の勝ち誇った顔を軽蔑の眼差しで一撫でしてから、再び視線を天城に合わせた。
「お加減はいかがですかな、元君」
「……いいように見える?ま、この部屋に平気で入れるような鈍感な人たちに察しろなんて、そんな無理なことは言わないけど……」
遠慮だとか、容赦だとかする心積もりはない。
口でぐらい反撃しないと、精神衛生上に悪いというもの。
天城が自分を殺すことはない。
この男は、加護女を殺すリスクをよく知っている。
直接的であれ、間接的であれ、害意を持って加護女を殺せば報いがある。
リョーマ自身も誰に聞いたわけでもないが、そのことを本能として理解していた。
加護女として選ばれた時点で、この肉体には力が宿った。
髪の一筋、爪の一欠けら、血の一滴にまで。
手塚が天の代理人であるように、リョーマは地の守護者。
天地双神によって選ばれるというのは、そういうことだ。
肉体そのものが神器となったのだと言っても過言ではない。
陰陽の理に属するものが、北辰王を悪意でもって害すれば天の理から零れ落ち、加護女を汚して殺せば万物の加護を失う。
本人の意思によらず、力を持った肉体そのものが、報いとしての呪詛を発動するのだ。
初代から王家に仕えているなら、それくらいは常識として備えているだろう。
リョーマを攫った以上、後には引けない。
それゆえけっして殺すこともない。
確信があった。
そうでなくともしおらしくしているつもりはないが、命の保証があるならとことんまで毒を吐くのは当たり前。
そんなリョーマの態度に激昂したのは、涼華のほうだった。
「あなた、自分の立場がわかってらっしゃるのっ」
「もちろんわかってるよ。俺は紫電宮からあんたたちに誘拐された被害者でしょ。この国の法律では、拉致・監禁・誘拐は相当な罪って乾さんに教えてもらってるもん。もちろん被害者、加害者の身分は問わない。だからあんたたちは立派な犯罪者、そういうこと。あんたたちこそちゃんと自分の立場、わかってんの?」
不遜な笑みを口元に刷いて、リョーマは勝気に言い放つ。
それが、涼華の神経を逆撫でするのは承知の上。
「本当に口の利き方を知らない半陽ね」
「俺、敬語を使う相手は選ぶことにしてるんだ。身分や家柄に尻尾を振るほど、人生終わってないからね」
「……っっ。お父様っ」
口では叶わないと悟ったのか、言い負かされた屈辱に顔を紅くして父親に泣きつく。
「強がりも大概にされよ。あなたの身柄は私の手の内にあるのだから」
天城が鷹揚にそう言うのも歯牙にもかけない。
「それで俺を脅してるつもり?確かにここから俺は出られないみたいだけど、だからって心までどうこうできると思ってんの?あんたに俺は殺せない。俺を殺したら、危ない橋渡って俺を攫ったのが水の泡になるんじゃない?報いの呪詛を受けたくはないよね。そう、人を使って俺を殺そうと思っても無駄だよ。報いの呪詛は、確実にあんたとあんたの娘、それから一族子孫に至るまで及ぶ。だって俺がそう思ってるから。それでもいいなら、殺してみなよ。ついでにこれ以上俺にどうこうしようって言うなら、俺は自分で死ぬから。もちろん、あんたたちを呪ってね。子供だからって、見くびらない方があんたたちのためだよ」
自ら死を選ぶというのははったりだ。
絶対にここから生きて、手塚の元に帰ると心に強く誓っているのだから。
けれど時にはったりはかなり有効だということをちゃんと知ってるのだ、リョーマは。
勝負は駆け引きも大事。
子供ながら、それはリョーマにとって得意分野だったし、この程度の脅し、アメリカ育ちの身には生温い以外なにものでもない。
満面の笑みを浮かべてそう言ってやれば、天城は苦虫を噛み潰したような顔をした。
子供なら、唯々諾々と言うことを聞くと思っていたのかもしれない。
「気の強いことだな」
「まぁ、それが俺の身上だし?」
呪詛、と聞いて尻込みしたのか、涼華は口を挟まず莎麗を握り締め、こちらを睨みつけている。
「さすが主上の加護女よ。正位貴族最古参たる天城家をよくも軽んじおるわ」
忌々しげにこちらを見下ろす天城の目は、暗く濁っていた。
「なにそれ。別に国光はあんたのこと軽くみたりしてないと思うけど」
初代から王家に仕えていた家柄、と何度も口にしていたのを知ってる。
天城家でなければ、不二が倒れた段階で手配されているはずだと、菊丸も言っていた。
「おまえ如きに何がわかるか。先代のころから、天城家は……わしは軽んじられてきたのだ。橘や桃城を私官に据えながら、先代はわしを無視した。様々な特権を与えられている私官には、最古参たる天城の当主たるわしがもっとも相応しいのに……あまつさえ鬼道の巫女などを加護女に迎え、妻として娶った」
それは八つ当たりだ。
涼華と同じ、家柄を奢ることしかしない歪んだ心に芽生えた憎悪。
天城の言葉に、リョーマは嘆息する。
手塚の母、鈴鹿御前。
鬼道の巫女と言うことは、鬼……今初めて聞いた事実に少なからず驚いた。
ということは、手塚は人と鬼とのハーフ。
だからと言って、手塚に対する想いに一点の曇りもない。
人だから、鬼だから……そんなことは関係なく、『手塚国光』が好きなだけだから。
鬼が加護女で何が悪いのか。
それに私官に選ばれなかったからと言って、無視したことにはなるまい。
特権を与えられた名誉職ではないのだ。
その意味を知るリョーマには、手塚の父の決断は正しかったと……今の天城を見る限りそうとしか思えない。
「わしは私官に選ばれることはなかった……ならばせめて、我が妹を加護女としようとした。桃城らを上回るには、それしかないと思ったからだ。……がそれさえも叶わず……鬼の子であるはずの主上もまた橘・桃城家とは懇意にしているが、我が家を軽んじる有様よ。涼華に目もくれず、かような子供……しかも半陽を加護女とするとは……」
この男はひょっとして、加護女の選定法を誤解してはいないだろうか?
私官と同じように、加護女も北辰王自身が選ぶものだと思っている?
本人も言ってるように最古参の家柄なら、知らないはずはないと思うが……加護女は、ある意味天啓によって選ばれる。
リョーマなどその最たるものだ。
何しろ異世界から召喚されたのだから。
それなのに。
歪んだ憎悪が天城の都合のいいように知っているはずのことを捻じ曲げてしまったのかもしれない。
話を聞いてひたすら沸いてくるのは、呆れと哀れみ。
「納得がいかんと言う表情だな……だが所詮選ばれたものに、わしの心のうちなどわからぬ」
卑屈な笑み。
それが一瞬で優越感に満ちたものに変わった。
「涼華を加護女としたかったが、おまえが選ばれた以上それもまた叶わぬ夢と成り果てた。おまえが言うように、加護女を手にかけるは最大の禁忌ゆえそれもすまい。口惜しいが報いの呪詛は向けたくないのでな。わしの望みが本当に費えてしまう」
笑った顔は、どこか狂人じみていた。
妄執に取り付かれた、といえばいいのだろうか。
桃城家と橘家、同じ正位貴族でありながら彼ら重用されてると、天城はそう思っている。
最古参であるという事実が、更なるプレッシャーとなって、彼のコンプレックスを煽り立てた結果かもしれない。
だからと言って、この所業が許せるものだとは到底ありえないが。
リョーマは今の天城の表情に既視感を覚え……そしてすぐその理由に思い当たった。
アメリカで。
近所に住んでいた女性……まだ若い人妻だった……が、麻薬常習犯として逮捕されるのを見たときの、彼女の表情にそっくりなのだ。
俗に言う、どこか『イッてしまった』表情。
別に麻薬など使わなくとも、思い込みだけで、人はこうなってしまうものなのかと……背中をいやな汗が伝い落ちた。
天城は笑いながら言葉を続ける。
「涼華を加護女にできなかったこと……それは残念だが、それ以外にもわしの望みを叶えられることに気付いたのだ。歴代の北辰王と加護女の中には双子の兄妹という例があった。そのときの北辰王は、正位貴族の娘を妻に娶ったのよ。当然その子が次代の北辰王となった……涼華は加護女にならずとも、主上の妻となればよい。幸いおまえは子供、周囲も納得するであろうよ。そして涼華の産んだ子が次の北辰王となり、わしは王の外戚となる。さすれば、いかに桃城や橘といえど足元にも及ばん」
哄笑とともに語られたことは、リョーマにとって納得できるはずのものではない。
手塚が本当に好きになった人で、リョーマ自身が敵わないと思わせられる相手になら……心に折り合いをつけるのは難しくても……その事実を受け入れよう。
けれどそんな野望のためのみならず、涼華に手塚の隣を明け渡すことを我慢するなんてとんでもない話だ。
手塚が是と言うとも思えないけれど……
天城はその未来を疑っていないのか、睨みつけたリョーマを嘲るように見つめている。
父親の力強い言葉に、涼華もまた見せつけるような笑みを浮かべていた。
「旦那さま」
扉の方から、控えめな呼びかけに、天城は喜々として振り向く。
「お客様です。お名前は名乗られませんでしたので、門の前にお待たせしているのですが……何でも珍しい贈り物のお礼に上がったと。そう伝えればわかるとのことでしたが、いかがなさいますか?」
「そうか……こられたか……応接間にお通ししろ。わしもすぐ行く」
召使はそそくさと主人の意に従う。
天城は、リョーマのほうに向き直り……これが由緒正しい家柄の当主かと疑うような浅ましい表情をした。
「どうやら主上がいらしたようだな。おまえの身が我が手の内にある以上、いかに頑迷な方であってもわしの話を聞かずにはいられまいよ……申し訳ないが、元君。あなた様には当家にて永の虜囚となっていただくことになろう」
くつくつと笑う背中に、だがしかし、リョーマは手塚の決断を微塵も疑ってはいなかった。
それどころか、手塚が近くにいる事実に、ますます勇気付けられた。
顔には出さなかったけれど……
娘と二言・三言言葉を交わして天城がその場を立ち去る。
血の呪檻の中で、リョーマは涼華と対峙した。
続
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