作品
三章 梔涙月・拾参
「リョーマ!!」
その声を聞いたとき、リョーマは全身が喜びで満たされていくのを感じた。
甘い雰囲気なんて欠片もない。
むしろ全く逆の状況にあっても、好きな人に名前を呼ばれる……というのは、勇気とか生きる気力とか、そう言った正の方向に働く全ての感情を揺り動かすのだと……
そうして、ついにその姿を認めたときには安堵のあまり我知らず涙が零れた。
それほど離れていたわけではないのに、懐かしさと恋しさで身体中がいっぱいになる。
「……くにみつ……」
「リョーマ、無事か!?」
手塚が扉から一歩足を踏み入れた途端……室内に篭もっていた血臭やリョーマを拘束していた怨嗟の念が霧散していく。
北辰王の神気が、鬼の術を払拭したのだ。
呆然と立ち尽くしている涼華など全く視界に入らないような有様で、彼は半ば倒れ伏しているリョーマに近付いてきて、傍らに膝を着く。
自分を案じる眼差しに、胸がきゅっと絞られるような錯覚を覚えた。
術が解け、重く纏わり着くようだった念の消えた腕を愛しい人に向けて伸ばす。
指先が震えて仕方ない。
もどかしく想い気持ちを察したかのように、あるいは手塚自身もそう感じたのだろうかリョーマの手を握り締め、強く引き寄せられた。
辿り着いた、逞しい胸。
衣服に焚き染められた薫りは、間違いなく手塚のもので……
あらん限りの力で抱き締められて、痛いくらいなのにどうしようもなく幸せだった。
(……この場所……俺の帰る場所……)
広い胸に頬を寄せ、リョーマはそのことを改めて実感する。
「リョーマ……無事でよかった。俺の油断から、こんな目に合わせて……すまない……」
苦しそうに囁きかける声から、彼の心情が伝わってくるようだ。
それはリョーマの心に、優しいぬくもりをもたらす。
「いいよ……迎えにきてくれたもん。それだけで、俺、嬉しいから……」
大丈夫だよ、と、自分を離そうとしない男の背に腕を回した。
抱き締めることで、ひとしきり無事を確かめて。
ようやく腕の力が弛められた。
リョーマも手塚の胸から顔を上げて、彼の目を見つめる。
いつも以上に眉間に皺を寄せた怜悧な美貌を安心させるように、微笑もうとして……
「……いっ……」
頬に引き攣るような痛み。
そう言えば、涼華に叩かれて傷ついたことを思い出す。
いくらたいした力はないといっても渾身の力で叩かれた両方の頬が、僅かに熱を持っていることに今更ながら気付いた。
「頬が腫れているな……痛むか?」
痛々しそうに目を眇め、手塚が頬を撫でる。
「ちょっとだけ……でも、大丈夫。力も戻ったし、治そうと思えば、すぐ治せるから」
「……そう、か……」
ほっと溜息をついたのもつかの間、手塚の目が大きく見開かれる。
「国光?」
押し黙り、一点を見下ろす彼を訝しく思いながらその視線を辿って……
「っっっ!」
引き裂かれた上衣が肌蹴、素肌が露わになっている。
露わになっているのは、肌だけではなかった。
未熟とは言え、なだらかな稜線を描いている乳房が手塚の目に晒されているのだ。
それを自覚した途端こみ上げてきた猛烈な羞恥に、リョーマは慌てて破かれた前を掻き合わせた。
どんな意図を持って、こんな状態になったのか、ちょっと考えればよほどの鈍感な者でもない限り明らかだろう。
いくら未遂だったとしても、そんな姿を大好きな人の前に晒してしまって、居たたまれなくなり身を縮こませる。
沈黙。
それが更にリョーマに身の置き所をなくさせるような心持ちを煽ったけれど……
ふと気付く、違和感。
リョーマは視線を、手塚に向けた。
「国光?」
そうして視界に飛び込んできた彼の表情に、思わず身体を竦ませる。
手塚の端正な顔には、どんな感情も浮かんではいなかった。
もともと整っているだけに、何の感情も浮かばぬその顔は、彼の美貌をぞっとするほど凄絶なものにしているようだ。
「くに、みつ?」
どうしたの、と問おうとする声が引き攣れる。
手塚の周囲を取り巻く空気が、ぴりぴりと緊張している。
(……怖い……)
いまだかつて彼に対して感じたことのない気持ち……本能的な恐怖が沸きあがってきたのを、リョーマは必死に振り払おうとした。
そのとき。
背後で呻き声が聞こえた。
涼華の命令によって、リョーマを襲おうとした結果、手塚の守護の力に弾き飛ばされた牢番たちの声。
その声に反応した手塚が、ゆらりと立ち上がる。
「な、なんだおまえはっ」
気付いたらしい男たちの口から威嚇の言葉が吐き出された。
手塚は、意に介した風もない。
俯き加減で、その言葉を聞いていた。
その姿を見上げながら、リョーマが感じていたのは威圧感。
手塚が手塚ではないような……けれども、わかっていた。
牢番たちの目からリョーマを隠すように立ち、尋常ではない気配を身に纏った男は、間違いなく自分が恋した人なのだと。
「貴様らか……?」
押し殺したような低い声。
とても静かで……だからこそ、その声音に滲む感情を如実に伝えていた。
(……国光、怒ってる……の?)
魂まで凍りつかせるような声は、牢番たちを完全に圧倒して……
「貴様らが、俺の宝を傷つけたのかっっ!」
彼が声を荒げた瞬間。
牢番の一人の腕が、ありえない方向に捻れて悲鳴を上げさせた。
骨が、砕ける……鈍い音とともに。
「っ!」
リョーマは手塚を見上げて……そして口を押さえた。
ごくんと息を飲み込んで、目の前の現実を再確認する。
手塚の、瞳が。
純粋な闇を凝って固めたようだった漆黒の瞳が、今は……禍々しいほど赫い。
人間にはありえない瞳の色。
鬼の一族だけが持つ……その色は爛々と輝いて……
眦がいつもより吊上がり、唇を噛み締めて覗く犬歯は、すでに牙というのが正しいだろう。
握り締めた拳から、ぽたぽたと血が滴っている。
僅かに垣間見えた爪が、鋭さを増している……そのせいだろうということが伺えたけれど、手塚はその痛みさえも感じていないようだった。
全身から立ち上るような力の気配に神気は感じられない。
これはむしろその反対。
全く異なる力……鬼の持つ力の気配、鬼気だ。
仮面の鬼が、菊丸に放った力の感じに似ている。
そうだ。
今、リョーマの目の前に立つのは北辰王の手塚ではない。
鬼だ。
一人の鬼がそこにはいた。
手塚の母が鬼だということは、天城の口から知らされた。
だから、彼がこんな風に鬼の力を持っていてもまったくおかしくはない。
おかしくはないけれど……
「……許さん」
怒りの中に、かすかに含まれる愉悦。
それを感じて慄然となる。
手塚は激しい怒りによって、鬼の性に流されかけている……そう、リョーマは直感した。
彼が、自分の身に起きたことで、ここまで怒ってくれているのは……不謹慎かもしれないがリョーマには嬉しい。
宝だと、言ってくれたことも……
でも。
(……こんな風に力を使わせちゃダメだ……)
そうリョーマが思ったとき。
溢れ出した妖力が衝撃波のように放たれた。
「ぎゃあああああっっ」
仲間が骨を砕かれたことで、完全に戦意を喪失し逃げようとしていた男の身体が宙に浮き……片足がもげた。
膝の下から、何かに引き千切られたように。
手塚に、血が降り注ぐ。
鮮血に染まった彼は……信じられないくらい美しくて。
鬼は、とても美しい種族だというけれど……鬼の力を発現させた手塚の美貌もまた壮絶なほどの妖艶さが加味されているようにリョーマの目には映った。
危うく見蕩れかけた自分をリョーマは叱咤する。
彼を止めなければ。
そう思うのに。
立ち上がろうとした膝が脆くも崩れた。
全く相反する力……即ち妖力が、枷になって動きが鈍くなっていたのだ。
手塚の妖力は凄まじく。
じりじりと重く圧し掛かってくるようだった。
リョーマを捕えていた呪檻など、児戯に等しいとおもえるほど。
(……苦しい……気持ち悪い……)
未熟な加護女である自分には、渦巻きはじめた瘴気を清めることができない。
だからといって、このままではダメだ。
我に返ったとき、きっと手塚は傷つく。
(そんなのは絶対にダメ……国光を守らなきゃ)
いつも、どんなときでも手塚は自分を守ろうとしてくれた。
その気持ちは嬉しかったけれど、一方的に守られているのは少しだけ苦しかった。
大事にされて、守られて。
だけどそれに甘えたくない、当然だなんて思いたくない。
足をもがれた男が、頑丈な石の壁に叩きつけられ……壁は粉々に破壊されて、ぽっかりと大きな穴があいた。
その光景に、リョーマは萎えそうになる足を必死に立たせる。
『リョーマ様……危険です……』
翡翠色の小鳥が飛来して、リョーマを留めようとする。
それが式神だとわかったが、首を縦に振ったりはしなかった。
「ここで俺が引くわけにはいかないっ。俺が止めなくて誰が止めるんだよ!俺は……国光の加護女なんだから」
きっぱりと言い切って、ともすれば昏倒してしまいそうな瘴気と妖力の重圧を必死に堪え、怒りのままに力を使っている手塚に抱き付いた。
抱き付いた、と言うのは少々正しくないかもしれない。
我慢しようとして、どうしても堪えきれなくて足が縺れ、倒れこみ……結果的に抱き付くことになった……が、そんなことはどうでもいい。
(……守らなきゃ……国光の心……こんな風に力を使って、もしこいつら殺しちゃったら……)
その先は、考えたくない。
わかっているのは、手塚が後悔と自責でひどく傷ついてしまうだろうということだ。
それだけは……
「国光、国光!もういいよ。これ以上やったら死んじゃうよ。俺は服を破かれただけだから……それだけでほかは何にもされてない!国光の力が守ってくれたんだ……だから、もうやめてっ。こんな風に力を使っちゃ、だめだったら!!」
ぎゅうっと、力いっぱいしがみつき、声の限りに訴える。
「戻ってきて、国光!俺のところに戻ってきて。俺は、ここにいるんだから!もう国光のそばから離れたりしないから……だから……国光から、遠くに行っちゃわないでよ」
鬼だとか、人だとかそんなことは重要じゃない。
リョーマにとって大事なのは、手塚が手塚であることなのだ。
訴える声は、次第に嗚咽雑じりになり……言葉に詰まってとうとう泣き出してしまう。
もう名前を呼ぶしかできなくなったリョーマの耳に……
「…………リョーマ?」
夢から覚めたように茫洋とした手塚の声が聞こえた。
「国光……良かった」
見上げた先の彼の瞳は、見慣れた漆黒に戻っていて。
香の中に返り血の匂いの混じる胸に顔を埋めた。
「……俺は、一体……これは、血?この壁もこいつらも……俺が……やったのか……?」
問いかけに、リョーマは素直に頷く。
隠していてもいいことはない。
彼が自分で事実を認め、自己嫌悪に駆られる前に、自分が肯定する方がいいように思えたから。
「国光、目の色がね、赫く変わって……それで……あれ、神力じゃなかった。妖力……だよね?」
「…………」
手塚の顔が辛そうに歪んだ。
なんだか迷子になった子供みたいに思えて、リョーマは彼の血で汚れた頬に手を伸ばし、なんの躊躇いも拘りも見せずに笑いかける。
「そんな顔しないで。俺は、国光が国光ならそれでいいんだ。それだけが大事なことなんだよ。ね?」
「リョーマ」
「さっきも言ったけど……俺は国光の傍にいるよ。何があっても、傍にいる……約束」
「……あぁ」
言葉とともに、壊れ物のように優しく抱き締められる。
だから頷いた、彼の表情は伺えなかった。
手塚の肩越しに、涼華の……怯えきった……まるで化け物を見るような顔が見えたけれど。
リョーマは、縋るように自分を抱き締めてくる手塚の背にそっと手を添わせて。
「帰ろ。俺たちの家に」
優しい、とても優しい気持ちでそう囁く。
そうして、やがて大石がやってくるまで……互いの存在を確かめるように、二人は抱き締めあっていた。
続
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