作品
三章 梔涙月・拾四
やわらかいベッド、安らかなまどろみ。
ゆったりと身体を預け、その感触を楽しみながら意識は次第に覚醒していく。
ゆるゆると瞼を押し上げて、視界に映ったのは明るい室内。
今はもうすっかり馴染んだ自分の部屋だ。
くるるるるる……小鳥のような鳴き声が聞こえて、視線を上げると、鼻面を押し付けてくる真珠がそこにいる。
眠りの余韻が残る腕をゆっくりと持ち上げて、兎のような、猫のような生き物の喉を掻いてやった。
そうするとまた、真珠は機嫌良さそうに鳴いて……
リョーマは、ベッドの上に身体を起こす。
「おはよう、真珠」
擦り寄ってきた雷獣の仔のぬくもりに、リョーマは帰ってきたことを実感した。
「……今、いつ頃なんだろ……」
「もうすぐ正午でございますよ」
問いかけに答える声。
衝立の、影から透理が姿を現す。
鬼道の術による呪縛が解け、式神たちも元のように人の形を取ることができるようになった。
「透理」
「はい、リョーマ様」
おっとりと微笑む透理に、リョーマも顔を綻ばせる。
「俺、どれくらい寝てた?」
「昨日、お戻りになられてから、ほぼ丸一日ほどでしょうか」
「そんなに?」
元の世界では、かなりの寝たがりだったが、こちらの世界に来てからはそんなことはなかったので驚いた。
「鬼の術で、時流の緩慢なところに捕らわれておいででしたから……そのせいでございましょう。身体が元の時流に戻るよう調整していらしたのです」
時差ぼけのようなものかな、と納得する。
「それにあのような場所、術がなくてもお身体にいいわけがございません。リョーマ様は意識されていなくても、きっとお疲れになっていたのでしょう」
冷たく固い石の床。
呪檻の外では、三日間が経過していて。
しかも吐き気を催しそうな血臭の充満した牢内、ストレスが堪らないはずがない。
「今日はゆっくりお休みになるよう、主上からの御伝言です。お顔も見せてくださるそうですから、のんびりしてらしてください」
「国光が?来てくれるの?」
「えぇ。実は朝にもいらっしゃったのですが、リョーマさまはお休みでしたし、主上もお起こしする必要はないと、寝顔だけを見ていかれました」
透理の言葉に、リョーマは少し恥ずかしくなった。
思う存分眠りを貪っていただろう、無防備な顔を手塚に見られたのかと思うと……
天城邸を出た後のことを、リョーマは覚えていない。
正確には、地下牢を出た瞬間に、疲労のあまり意識を失ってしまったのだ。
我を失いかけた手塚によって、重傷を負った牢番たちを治癒したために。
だって、放って置けなかった。
いくら自分を乱暴にしたやつらと言ったって、あのままにしていたら妖力を発現させ、危うく我を失い殺戮に走りかけてしまったことが、いつまでも手塚の心に棘のように刺さったままになっただろうから。
リョーマにとって大事なのは、手塚を守ること。
そのためなら多少の無理は、苦にはならない。
不完全な加護女の力で、それでも最大限に力を使って砕けた肩も、千切れた足も完全にではないが治癒した。
一人は虫の息だったが、それも……生命力そのものに働きかけて一命を掬い上げたのだ。
あのように揮ってしまった力のせいで、例えどんな人間であっても命を損なわせてはならない。
手塚は王だ。
そして天界の将軍でもある。
時と場合によっては、誰かの命を犠牲にすることも厭うなど許されない責務を負っているから。
綺麗事だけでは政は行えないし、犠牲を必要としない戦はまずありえない。
自らの手で、誰かの命を奪うことだって……義務となる立場に彼はいる。
だからこそ、あのような状況下で、手塚の手を汚させるわけにはいかないと、リョーマの直感が訴えた。
結果として、立つことができないほどの疲弊を身体が訴えたとしても、それで手塚の心に最悪の傷を残さずにすむなら安いものだ。
「国光が来るなら、お風呂入りたい。いい?」
さっぱりしたいし、呪檻の内部ではどうでも実際三日も風呂に入っていないなど耐えられない。
好きな人を出迎えるならなおさらだ。
「もちろんでございますとも、いつでも御入浴していただけるよう、準備は整っております」
「ありがと」
ベッドから足を下ろすと、リョーマの動作を追いかけるように真珠がまとわりついてくる。
それを留めるように透理が真珠を抱き上げた。
そして……
「透理?」
真珠を胸に抱いたまま、透理はリョーマの足元へ深々と叩頭した。
「ど、どうしたんだよ」
「……お許しくださいませ」
「えっ?」
「あの折……いかに御身の安全のためとは言え、差し出たことを申しました」
「……透理」
彼女の言う『あの折』がいつなのか、リョーマにはすぐわかった。
我を失いかけていた手塚を諌めようとしたとき、式神は、そんなリョーマを止めようとしたのだ。
「リョーマ様の主上を想うお気持ち、この透理、改めて感じ入りました。これより以後はお二人の御身のことはもちろん、その御心も尊重し、お守りすることに尽力することをお誓い申し上げる。あなた様よりいただいた、この『名』にかけて」
式神にとって『名』は存在そのもの。
存在を賭けた誓いに、深く叩頭する透理に、リョーマは口元に笑みを上らせて。
「うん、よろしく頼むね」
「御意」
頭を上げるように言い、いつもの表情に戻った式神に促されるまま、風呂へ向かった。
漂う甘い香り。
透理が用意してくれたのは、薔薇の香玉らしい。
程よい温度のお湯に身を沈めると、心身ともにすっかりリラックスしていくのが感じられた。
やわらかい湯の感触がとても心地好い。
リョーマは、湯を透かして見える自分の身体を見下ろした。
危うく乱暴されかけて……でも、事なきを得たことが本当によかったと思う。
男の身体にしろ、女の身体にしろ……自分という存在は、リョーマ自身のものであると同時に手塚のものでありたいと恋心を自覚した今、苦しいくらいに湧きあがる想い。
天領に来た当初、あれほど戸惑いを覚えた『半陽』である、と言うこと。
触れてみる、元の世界ではなかった胸の膨らみ。
ようやく受け入れられる。
何のこだわりもなく……たぶん、この世界に召喚されることで『半陽』となったのは、加護女になるためではなく、手塚のためなのだと……彼が必要としてくれているのは、『加護女』ではなく自分なのだと実感できたから。
(それに男でも女でも俺は俺だしね)
それだけわかっていれば充分なのだ。
まだ明るい空を見上げ、リョーマは自分の中にその想いを刻み付けるみたいにして深呼吸をした。
それからばしゃばしゃと顔を洗い、全身を流す。
さっぱりした気分で室内に戻った、リョーマの目に飛び込んできた優しい笑顔。
籐の長椅子、クッションを背凭れにして笑っている……
「周助!!」
「お帰り、リョーマくん」
にこやかに迎えてくれる彼女の姿に、様々な現実がようやく実感を伴って戻ってきた気がする。
最後に見たのは、夜着姿であったが、今の不二は平素と変わりなく莎麗を身に纏い、呆然と立ち尽くしているリョーマの元へ歩み寄り、そっと胸に抱き寄せた。
「無事でよかった……心配したよ」
よく顔を見せて、と身を離し安心したように頬や肩を撫でてくる手のひらの感触に、じんわりと目が潤んでくるのを感じて。
気持ちを言葉にできなくて、莎麗を握り締める。
小さな子供が、母親から逸れまいとしている仕種に似ていると自分でも思ったけれど、真摯ないたわりは温かく心に染みた。
「心配してくれて、ありがと」
「……お礼なんていうものじゃないよ。君も言ってくれただろ?家族なんだから当然だよ」
「うん……ねぇ、英二は?英二は無事だったの?」
捕らわれている間も、自分を案じているだろう手塚のことと、不二と菊丸の安否がとても心配だった。
不二は顔色もだいぶよくなっていて、ほっとしたけれど……どうして菊丸はこの場にいないのだろう?
彼女だったら、不二とともに出迎えてくれてもおかしくないのに……
表情を曇らせたリョーマに、不二は安心させるように笑いかける。
「英二のことなら、心配はいらないよ。傷は塞いだし、本人は全くもって元気なんだけどね。心配性の主治医に床から出してもらえないのさ。出血量が多かったからまだ貧血状態だし、満月期に入って女性化したから、そのことが負担になってないとも言えない。英二はリョーマくんの目が覚めるのを近くで待っていたいとごねたんだけど……結局、大石に首を縦に振ってもらえなくて、自分の部屋で不貞腐れてる。大石は基本的に英二に甘いけど、ことこういうことに関しては他の人の倍は英二に厳しいんだ」
苦笑を浮かべて不二が言うのに、リョーマも小さく笑った。
「リョーマくん、身体の調子はどうかな?」
「ん。大丈夫だけど……あっ、そう言えば、ほっぺたの傷痛くない……周助が治してくれた?」
牢番たちを癒すのにばかり気が行っていて、自分の傷のことなどすっかり忘れていたが、触れてみると腫れはないし痛くもない。
「そうだよ。君の可愛い顔に傷があるなんて許せないからね。手塚も気にしてたし」
手塚、と名前を聞いてとくんと心臓が跳ね上がる。
赤面まではしなかったが、早く会いたいな……とそう思った。
すると不二はそんなリョーマの考えを呼んだように口を開いた。
「手塚なら今は事後処理に追われてるよ。内々にことを済ませるって言っても、避けては通れないこともいろいろあるから……でも、時間さえ空けばすぐにでも顔を出すんじゃないかな」
「……うん」
「とりあえず、なにかお腹に入れないと。タカさんにお粥を作ってもらったから食べよう。それから部屋で不貞腐れてる英二に、元気な顔を見せてあげようね」
言い含めるような声音で不二が言うのに、リョーマは素直に頷く。
食べ物のことを言われた途端、身体が空腹を訴えたのだ。
よくよく考えてみれば、三日間何も食べていないのだから、当然かもしれない。
肩を押されて促され、ダイニングスペースへと足を向ける。
円卓の上には、湯気を立てている粥の入った小さな土鍋が置かれていて。
リョーマの腹が、きゅうと小さく鳴った。
あまりに正直な身体に、赤面したが、不二は優しく笑ってリョーマを椅子に座らせると、小鉢に粥を取り分けてくれた。
ただの白粥。
おそらく胃が空っぽであることを慮った河村の配慮だろう。
レンゲで掬い、一口食べると優しい味わいが広がる。
具が入っているわけでも、特別な味付けがされているわけでもない。
出汁のみでやわらかく炊き上げたそれは、今まで食べたものの中で一番美味しく思えて。
途中不二にあまりがっつかないように諭されたけれど、手は止まることなくあっという間に用意された分を空っぽにしてしまった。
唇から満足の溜息が零れ落ちると同時に、絶妙のタイミングで茶が差し出される。
「満足した?」
「うん!河村さんって、本当料理上手だね。こういうシンプル……単純な料理を美味しくするのが一番難しいって聞いたことあるけど、すごい美味しかったもん」
「ふふ……タカさんが聞いたら、喜ぶね」
そういう不二の顔も嬉しそうだ。
最後に見た顔が、あまりに儚げだったのですっかり戻った顔色に、リョーマは心の底から安心できた。
「随分体調良さそうだね。陰の気は落ち着いたの?」
「もうすっかり。術を砕かれた影響もだいぶ回復したからね……タカさんのおかげで」
浮かべた笑みは、どこか婀娜っぽい。
その意味を図りかねて、首を傾げると不二は更に笑った。
「河村さんがつきっきりで看病でもしてくれたの?」
彼ならそれくらいやりそうだ。
しかも相手は恋人の不二なのだから。
不二だって、恋人に付きっきりで看病されれば嬉しいだろうし、回復も早いだろう。
そう思って言ったのに。
「確かに付きっ切りで看病してくれたよ。でも看病とはまた別物。リョーマくんにはまだちょっと早いけど、気を読んで制御できる人なら術者でなくても使える方法だからいつか教えてあげる。実地では無理だけど。誰にでも使っていい術じゃない。ものすごく限定的な術だけどきっと役に立つはずだから。もうちょっと、大人になったらね」
どこか悪戯っぽく言う不二に、リョーマは彼女が言うなら本当に役に立つだろうし、時期が来れば必ず教えてもらえるだろうと納得して素直に頷く。
それをまた楽しそうに見つめ不二は、必ず、と確約してくれた。
空腹が満たされて、お茶のおかわりをもらって。
人心地をついたリョーマは、ふと沸き起こった疑問を口にする。
「ねぇ、周助」
「なんだい?」
「聞きたいことがあるんだけど……」
「僕で答えられることなら」
「あのね……あれから、どうなったの?涼華……さんのこととか、天城って人とか……それから、仮面の鬼とか……」
手塚の力の余波を受けて、あちこちに掠り傷を作っていた彼女も癒そうとしたのだが……触れようとした途端激しい恐慌状態に陥った彼女を諌めることはできなかった。
特に手塚の手を拒み、化け物と罵り……最終的には、大石に当て身を喰らわせられて意識を失ったのは覚えているが……その頃にはリョーマも力を使い果たし、すぐに昏倒してしまったのでその後のことは全くといっていいほどわからない。
「天城殿は……今は禁堂の一室に拘留されてる」
禁堂とは、官吏や貴族が犯罪に関わった場合に収監される、拘置所のようなものだ。
そこで事情聴取などを行ったのち、罪有りと判断されれば、秋官(罪状を追求し、処罰を取り決める官。実際に裁決を下すのは北辰王)に引き渡される。
「罪状は表向き妖魔を使役し、混乱を起こそうとした……ということになってる。鬼と交流することは別に罪に定められていないけれど、明らかに人の手には負えないはずの妖魔は入手することも禁じられているからね。あくまで加護女拉致、と言うこととそれに鬼が関与しているということは内々で収めなきゃいけない。民や官に余計な不安を感じさせるわけにはいかないから。事実を知ってるのは僕たちと、太師それからそれぞれの官の長たちだけだ。乾と秋官長がじきじきに尋問中……それから……」
不二の優しげな面、眉間に微かな皺が寄った。
「涼華殿の身柄は太師が預かっている。目が覚めたのは昨日のうちだったけど、すっかり虚脱状態で放心しててね、話を聞ける感じではないらしい。彼女は今回のことに深く関わっているとは思えないけど、父親のしていることを知っていたわけだし、むしろそれを奨励していたと思われる……罪を問う問わないはともかく、何らかの処遇が言い渡されることは間違いない」
「…………そう」
傲慢な態度で他者を見下し、己こそが手塚に相応しいと思い込んでいた涼華。
北辰王としての上辺だけを見ていた彼女は、『鬼』である手塚を認められなかった。
手塚に相応しいのは自分だといった唇で、彼を化け物と罵り、否定したのだ。
その姿を、リョーマは切なく思い出す。
甘んじて罵倒を受け止めていた手塚の表情は、今になっても胸に痛い。
(……国光は、国光なのにね……)
手塚が鬼に変じたとき、本当はリョーマも少し怖かった。
怖かったけど……でも、その気持ちだってちゃんと受け止める。
ひょっとしたら、あの変貌に誰より恐れを抱いているのは、手塚自身かもしれないと……そう思うから。
「リョーマくん?」
「……なんでもないよ、あの二人に付いてはわかったけど……鬼は?」
リョーマの問いかけに、不二はゆるゆると首を横に振った。
「天城邸のどこにもそれらしい姿はなかったそうだ。使役獣と思われる妖魔を全て倒したあとも、天城殿の身柄を抑えたあとも姿を現しはしなかった……」
「……そう言えば……」
「どうしたの?」
「うん……掴まってるときにね、聞いたんだ。身体は動かなくて意識だけが覚めてる状態だったけど、覚えてる。今思い出したよ。鬼はね、俺を攫ってきて閉じ込める呪檻を作るまでが仕事だって言ってた。念のために妖魔は置いていくけど、そこから先は自分には関係ないから好きにしろって……そんなようなこと」
「本当かい?」
「うん」
「……そう、鬼がそんなことを……」
不二は思案するときの癖で、口元に手を持っていく。
しばらく考え込んでいたけれど、軽く頭を振って、リョーマに笑顔を見せた。
「このことはみんなにも話しておくよ。そろそろ英二のところに顔を見せてあげに行こっか?」
「うん」
鬼のことはリョーマも気になっていたけれど、不二の提案に頷いたのは何より菊丸の顔が見たかったからだ。
最後に見たのは血だまりの中に倒れ伏している姿だったから。
「じゃあ、行こう」
促されて、立ち上がろうとしたそのとき。
「……っと、英二に会うのはお預けになりそうだね」
「え?」
「手塚が来たみたいだ」
言われて『気』を探ると、確かに不二の言う通りのようだった。
「英二はぶーぶー言うだろけど、ここは手塚に譲ってあげるとするか。でも夕食は英二の部屋で一緒に食べようね」
リョーマの頭を優しく撫でてから、己の式神に食器を片させて。
「わかった」
頷くリョーマに笑いかけ、衝立の向こうに姿を消した。
続
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