作品
四章 竹葉月・壱
かつて北辰王の一日は、やり甲斐はあるが味気ないの一言に尽きたと思う。
当時はそんなことは考えていなかったけれど、最近になって少し前のことを振り返ると、そういう感慨が沸いてくるのだ。
寝台の上に身を起こした手塚は側台(サイドテーブル)の上に置いた眼鏡に手を伸ばしながらつくづくとそう思った。
「おはようございます、主上」
「ああ、おはよう」
漆器の盥と、朝の仕度に必要な一式を手に現れた青年に、手塚も挨拶を返す。
傍仕えをしてくれている青年は、人間ではない。
半身が遣わしてくれた、彼女の式神である。
本性が古い神鏡と言うこの式神には、他の式神にはない特殊能力がいくつかあって、水晶宮に居を移すに当たって九体いる式神のうちの一体を護衛兼側仕えとして手塚に預けてくれたのだ。
内宮の最奥にあるこの宮殿には、ごく内輪の許されたものしか出入りできない。
ゆえに内部でこまごまとした雑用を任されているのは、リョーマや不二の式神であり、この水晶宮に在る『形無き者』たちなのである。
彼らは天帝より賜った一つの巨大な神器である水晶宮を住居たらしめる存在で、王の呼びかけによって目覚め、それ以外のときは沈黙している。
彼らに形はない。
だからその存在を目にすることは決してないのだった。
彼らは一種の結界で、意志はなく、ただ王命によってのみ在るもの。
水晶宮と連動して、内部においては北辰王や加護女であっても、守るため以外の力や術は使えない。
ありとあらゆる攻撃的な術、害意を持った意志の力を無効化する。
人であろうと、神であろうと、鬼であろうと。
そう言った事情もあって、一度沈黙させた巨大な神器を再び起動させるには、正式で正確な手順を踏み時間をかける必要があった。
(……もっと早くこの水晶宮に、リョーマだけでも移していれば、あの事件は防げたかもしれないな……)
先月、愛する半身を拉致されるという不手際をやらかした手塚は、今更詮無いことと知りつつ溜息をついた。
「鑑月(かんげつ)。リョーマはもう目覚めているのか?」
気を取り直して、仕度を済ませ式神に問うと、彼は首肯する。
「はい、既に御仕度もお済みのようです」
「そうか……では、すぐ行くと伝えてくれ」
「御意」
白地に銀の刺繍の入った袍を翻して式神は姿を消す。
鏡が本性というだけあって、かの式神の人型は、肌は白く、銀の髪と瞳をしており、それが軌跡を残すようにきらきらと輝いた。
ふつう鏡といえば、女性の持ち物で、それ故人型は女性であるだろうという先入観がある。
鑑月も、リョーマの前に顕現したときは女性型を取ったと聞いているが……
神鏡として奉られていたせいもあるかもしれないが、彼の意識は男性でも女性でもない。
ふつう式神は人型を取るときの性別は固定している。
それは彼らの本質によるものだ。
剣を本性に持つ冥刃などは顕著な例といってもいい。
人に持ちえぬ色彩を持っていることが多いので、それを装うくらいはできるが、一度現れた『形』を崩すことはできないものだけれど……
それが鑑月の特殊能力の一つで、彼は男と女を変幻自在に使い分けることができる。
そして彼の本性は鏡。
他者の姿を映すことができ、影武者にもなれ、術などを反射して相手に返すことも可能だ。
彼は式神としても強い力を持っている。
古物として魂を宿したのみならず、もともとが神鏡。
当然かもしれなかった。
式神の中でも、特殊な存在である鑑月を寄越したのは、ひとえにリョーマの手塚を案じてくれる気持ちによるもの。
そして……
女性体で顕れたという鑑月が、男の姿で仕えるようになった経緯を思い出して、手塚の胸はくすぐったさと温かさで満たされる。
『……だって、国光の側に女の人がいるの嫌だったんだもん……』
己の式神であるのに、そんな風にいうリョーマが愛しくてならない。
幼い恋人の可愛い妬きもち。
それを嬉しく思わない男はいないだろう。
手塚は廊下に出るためのものではない扉を開き、そこに認めた愛しい存在に笑いかけた。
「おはよう、リョーマ」
「おはよ、国光」
花が綻ぶように笑って、恋人がパタパタと手塚のもとに駆け寄ってくる。
そうして、くいっと袖を引っ張るので、手塚はいつものように僅かに身を屈めてやった。
頬に、ちゅっと可愛らしく音をたてて触れる彼女の唇。
初めてされたときは面食らってしまった手塚だけれど、これがリョーマの世界での親密な間柄における慣習なのだと言っていた。
『挨拶のきす』というらしく、朝起きたときと、夜寝る前のそれは既に習慣化していた。
恋人がじっと見上げてくる。
これは催促。
前髪を優しくかきあげ、手塚も額にそっと触れるだけのくちづけを落とした。
そうしてやると、リョーマはご機嫌の猫のように手塚に纏わりついてくる。
それを嬉しく感じる自分が少し気恥ずかしく、しかしそれは悪くない感情だった。
リョーマに促されるまま、籐の長椅子に腰を降ろす。
彼女が自分の横にちょこんと座ると、膝の上に真珠がよじ登ってきて、卓の上に透理が温かいお茶を置いて姿を消す……それは水晶宮で暮らし始めてからの、ささやかな日常の風景。
手塚とリョーマの房は隣同士、壁の扉を挟んで続き部屋になっている。
水晶宮でもっとも奥まった場所にあるそこは、もともとが北辰王とその妻のためのもの。
北辰王は数少ない例外を除いて、加護女を娶るため北辰王と加護女のために設えられた居室と言っても良かった。
この部屋で暮らすようになって一緒に過ごす時間は、ぐんと増え、それをリョーマも自分も等しく喜びとして感じている。
今までやり甲斐はあるが……気付かないうちにそれだけになっていた生活に、張りがでてきたと思う。
それはこの小さな恋人が、自分にとっての潤いとなってくれているからだろう。
朝食までのほんのひとときをこうして寛ぎながら、手塚はそんな想いを噛み締めた。
特別な会話は何一つない。
昨日見た夢の話だとか、今日の予定だとかそんな他愛のないこと。
けれど、その積み重ねが幸せなのだと、リョーマを愛するようになって、手塚は思い出したのだ。
かつて父と母と不二とそのようにして過ごしてきたことを。
「そう言えば、『紅の儀』に向けて随分頑張っているらしいな」
「当たり前じゃん!ちゃんと踊れなくて悔しい思いをするのも、国光に恥じかかせるのも死んでもイヤ」
「……そうか」
労うように頭を撫でてやると、首を竦めて嬉しそうに恋人は笑った。
『紅(こう)の儀』は『藍の儀』と対になる神事で、加護女が舞によって邪気を払い万物の力を活性化させる。
先年までは不二が代理をしていたそれは、来月に迫っているため現在リョーマとその世話係兼保護者たちは練習に余念がないのであった。
そしてその『紅の儀』こそが、リョーマが加護女として初めてその力を周囲に知らしめる行事なのだ。
本人はもちろん、不二や菊丸の気合も並々ならないものだ。
彼女らはリョーマをとても可愛がっているから。
その可愛いリョーマに対して重箱の隅を突付いて、難癖つけようとする輩がいないとも限らない。
天城のようにあからさまな動きを見せる者は今のところいないが、用心にこしたことはないと全員が思っている。
あんなことは二度とごめんだ。
何者からも彼女を守りたいと言う決意が日増しに強くなっていくのを確認しながら、手塚はリョーマの言葉に耳を傾ける。
「でも舞を舞うってけっこう難しいね……向こうじゃフォークダンス……んー、みんなで焚き火とか囲んで輪になって踊るんだけどね……それくらいしかしたことなかったから。ま、身体動かすのは好きだし、あと一ヶ月あるから絶対完璧にするけど」
リョーマの負けず嫌いな向上心は、手塚には好ましいものだった。
努力をしない人間は、そもそも人としても好きになれない。
「あぁ、楽しみにしているぞ」
「うんっ」
「……リョーマ」
「なぁに?」
「今夜、夕食が終わったら、おまえをいいところに連れて行ってやる」
「いいところ?」
どこ?と可愛らしく首を傾げる恋人に、それは着いてのお楽しみだというとちょっとだけ拗ねたような表情を見せる。
「頑張っているご褒美だ。きっと……気に入る」
「……じゃあ、楽しみにしてる」
「いい子だ」
そう言って軽く唇を啄ばむと、リョーマは嬉しそうに頬をわずかに紅潮させた。
「そろそろみんなも起き出しているだろう。行こうか?」
「うん」
水晶宮に移ったのは、手塚とリョーマだけではない。
私官の全てがこの宮殿に移った。
恋人と、気の置けない友人たちと暮らすのは今まで曖昧になっていた執務と私事の境界……公私の別をきっちりと分け、手塚に規則的でより効率のよい日常をもたらしてくれた。
執務室で寝起きをするのも悪いことだとは思わないが、起きている間は常に仕事で、自分の時間を作るということをいつしか忘れていたのだ。
習慣となったことも、いくつかある。
そのひとつが宮殿内の一室をまるまる食堂にして、よほどのことがない限りはみんなが時間を合わせられる朝食を共に食べるようになったこと。
今日も食堂の扉を開けると、既に円卓を囲んでいる者たちがいる。
「おはよう」
「はよーっス」
投げかけられた挨拶を、こちらからも返してリョーマと隣り合って席につく。
この場にいるのは、乾、桃城、海堂の三人。
河村は朝食の仕度をしているのだろうし、不二はそれを手伝っているに違いない。
大石と菊丸は……
予想しかけたところで、扉が開き二人が姿を現す。
大石はいつもと変わらない……いや、むしろいつもより調子が良さそうな具合であるのに対して、菊丸はまだ眠たそうにしているのを見て、手塚は己の予想が正しかったことを悟った。
「おふぁよー、おちび」
大石から離れて、いつものようにリョーマの側にくると、菊丸は彼女を抱き締めて頬を摺り寄せる。
もはや見慣れた朝のひとコマだ。
「英二、おはよ。何、夜更かしでもしてたの?」
「夜更かしー?んー、まぁ、そんなトコ」
幼いリョーマは、大石と菊丸が恋人同士だと理解はしていても、深読みしたりはしない。
というより、そういう関係であるのだろうな、とは思っても、実際にそこまで思い至らないのだろう。
ある意味核心をつき、ある意味的外れな問いかけを曖昧に肯定する菊丸に、大石は口に茶を含んだのが災いしてか盛大に咽ている。
そこにいるものたちは敢えて突っ込んだりしないが、乾はやれやれと肩を竦め、桃城は声に出さないように必死に我慢しつつ失笑しており、海堂はなにやら神妙な顔で、少し赤面していた。
(……なぜ、そこで恨みがましく俺を見る、大石……)
気持ちはわからなくはないものの、手塚は友人からさりげなく視線を逸らして苦笑を噛み殺した。
「みんな、揃ってるね」
河村と不二が顔を出したことで、食事が運び込まれ、大石だけがなんとなく居心地悪そうなまま、和やかに朝食の時間は過ぎていった。
朝食を終えて、散会し手塚とその補佐をする乾・大石は執務室へ向かう。
すると既に机の上には山と書類が詰まれていたりするのだが、有能は王とその臣たちは物ともせずにそれらを実に効率的に処理していくのだ。
「越前と上手くいってから、手塚はますます仕事が速くなったね」
しみじみと乾が言うのを、手塚は素直に認めた。
リョーマとの時間を過ごすためには、とにかく仕事を効率的に進めるのが一番だとわかっているから。
以前のように朝から晩まで仕事漬け、と言うのではなく、きちんと時間を区切り『定刻通りに仕事を終わらせる』という目標を据えるようになってから、自分の処理速度は著しく上がった自覚が手塚にはある。
「恋はかくも人を変える……か、先人のいうことはあながち間違いではないって言うことだね。実に興味深いよ」
「興味深いのは構わんが……俺とリョーマを研究対象にしようなんて思うなよ」
「そりゃ、残念」
釘をささなければ、何をされるかわからない。
否、何を書かれるかわからない。
乾は歴史学者だ。
公式の史書の編纂は官の役目だが、この世には私的にかかれた史書の類は五万とある。
せっかく北辰王の側近くに仕えているのだから、後世に残るような覚書でも纏めたい、といったのを手塚は忘れちゃいないのだ。
「そうだ、乾」
「なんだい?」
「今夜、リョーマを連れて宮城の外に出る。何かあったときはおまえと太師に一任するから、頼んだぞ」
さすがに一国の王ともなれば、誰にも何も言わず姿を眩ますなどできるわけがない。
しかも今回はリョーマも一緒だ。
すると乾はしばらく逡巡して、ああ、と大仰に頷いた。
「そうか、今日は星祭か。了解。今夜ばかりは、大石や不二は当てにならないだろうし。俺も無粋をやらかすのはごめんだからな。全く独り身は寂しいねぇ」
くつくつとからかうように言われて、手塚は憮然とする。
「越前も、天領に来てから、宮城の外に出るのは初めてだろう?ゆっくり楽しんでくるといい」
「そのつもりだ」
そこへ……
「手塚、例のものが届いたぞ」
論われていたとも知らず、席を外していた大石が戻ってきた。
腕に抱え込まれた箱を、大事そうに手塚の前に置く。
「随分時間がかかったな」
手にしていた書類を置いて、乾が長身を屈めて手塚の手元を覗き込んだ。
上蓋を開けられたそこに並んでいたのは、七つの戒指(ゆびわ)。
それぞれに夜光珠(ダイヤモンド)、珊瑚、瑠璃、翡翠、遊色石(オパール)、真珠、黒曜石があしらわれている。
それは、神器・七星剣にあしらわれているのと同じ石。
即ち、七星神を象徴しているのだ。
「物が物だからな、仕方あるまい」
仲間たちが、己の判断で武器に星神を降ろすための媒介として、知人である仙に頼んで特別に作ってもらった代物である。
神の媒介にするためには、ただ宝石を揃えればいいというものではない。
この一つ一つが、長い時間をかけて霊力を宿した霊石。
それを全てそろえるには手間もかかり、通常の細工師ではせっかく宿った霊力まで削りかねないため、このような呪具を作れる存在は限られてくる。
この呪具に、手塚が神術を施してこの戒指は媒介として完成する。
「それともう一つ……これも届いてたけど……」
大石が首を傾げながら、差し出したのは手のひらに乗るくらいの小箱。
「あぁ、それも俺が頼んだものだ。今夜に間に合ってよかった」
「越前への贈り物かい?」
「まあな……なんでもあちらの風習らしい」
これを渡したらどんな顔をするだろうか。
それを想像して、小さく笑った手塚に、乾たちは顔を見合わせ、当てられるのはごめんとばかりに各々の仕事に戻っていった。
続
タグ:[比翼連理]