作品
五章 蓮荷月・壱
晴れ渡った夏空に、太陽が中天にかかろうかという時刻。
水晶宮の一角に、華やかな樂の音が響いていた。
月弓琴(げっきゅうきん。ハープのような楽器)の流れるような和音に、語りかけるような琵琶の音色が混じり、軽やかに拍子を取っている鈴の音が心地好い。
その樂の音色にあわせ、舞い踊る少女が一人。
腕にかけられた長い領布(ひれ)が、地に着く暇もなく命を持ったようにたなびいた。
少女の動きは、旋律の緩急に合わせ、ときに躍動的に、ときにゆったりと樂の音色と一体化したように見事なもの。
少女が旋律に身を任せているのか、それとも旋律の方が少女に先導されているのか……
しゃらんしゃらんと鈴の音が、耳に心に重なって響く。
耳に響くのは足首につけられた踝釧(アンクレット)の鈴。
心に響くのは……彼女がこの世で唯一無二の北辰王が魂の伴侶である証……天鈴。
樂の音色は次第に緩慢になり……やがて舞は終息を迎える。
少女は音もなく地に膝をつき、両の腕を平行に伸ばして、身をわずかに伏せた。
すると彼女の動きに添うようにたなびいていた領布も、ぱさりと力を失った。
深呼吸の気配に、惜しみない賞賛の拍手。
数日後に控えた本番に向けての余念のない練習。
少女……リョーマは、身体を起こして照れたようににっこり微笑んだ。
「すごいよ、リョーマくん。随分上達したね。これなら『紅の儀』の成功は間違いなしだ」
我がことのように嬉しそうな不二に、他の面々も頷いた。
「ええ、お見事でした、リョーマ様」
言いながら汗の滲んだ額を透理が布で拭ってくれる。
「おちびは筋も覚えもいいからにゃ。みんなの度肝を抜けるぞ、きっと」
演奏していた琵琶を片付けながら、菊丸からの太鼓判。
「主上もきっとお喜びになられますわよねっ」
明るいソプラノで、ニコニコと満面の笑みを浮かべていうのは、月弓琴を奏でていた式神・香律(かりつ)だ。
本性は月琴というだけに、楽器の扱いはお手の物。
ふわふわとした栗色の長い髪に、紅い瞳。
紅といっても鬼のように禍々しいものではなく、黄昏に溶けゆく太陽のような、郷愁を呼び起こす暖かな色合いだ。
年の頃は、リョーマより少し上……というくらいの少女の姿をしており、式神の中では最も若い外見を持っている。
性格も外見に倣って年頃の少女のようで、式神らしくはない。
「喜ぶって言うより、惚れ直すんじゃにゃいの?男は歳の離れた恋人持つと、めろめろになるって、あいつ見てると本当だったんだーってしみじみ思うもん」
「それは当然ですわ、菊丸様。だってリョーマ様ってば、こんなに愛らしくていらっしゃるんですもの。いかに主上といえど、めろめろになりますわよーv」
語尾にハートマークがつきそうな香律の言葉に、菊丸もうんうんと神妙な顔をして頷くので、リョーマは赤面するしかない。
文句を言おうにも、この二人が喋りだすと、口を挟む隙もないのだ。
溜息を付きながら、不二と透理に目をやると、二人は肩を竦めて笑っていた。
「ねぇ、そろそろお昼ご飯の時間だよ、英二。朝から練習してるから、リョーマくんもおなか空いてるだろうし、房室(へや)に戻ろう」
際限なく続きそうなおしゃべりに終止符を打ってくれるのは、いつもの通り不二で……
「わかったにゃー。今日のお昼はなにかなー♪」
「あ、菊丸様、琵琶はあたしが片付けておきますわ」
「そう?ありがと、香律。頼んだよん。おちび、不二、行こ」
菊丸が、気紛れなのはいつものこと。
うきうきと自分たちを促す彼女に、リョーマは呆れつつもなんとなく嬉しかった。
二ヶ月前、大怪我を負って、かなり長い間こと伏せることを余儀なくされていた姿を思い出すと、菊丸らしくいつも元気な方が安心するのだ。
そう思いながら、裳の代わりに、腰に巻いていた薄布を取って軽く畳み、足首につけていた練習用の踝釧を外して透理に渡した。
三人で連れ立って、やや小振りの円卓が置かれたダイニングスペースに向かうと、河村作の美味しそうな昼食がすでに用意されている。
今日のメニューは、個々に盛られた汁麺と、大皿に何種類かの点心。
麺の上には鶏肉と、野菜がたっぷり。
スープは鶏ガラベースらしく透き通っていて上品な匂いがたちこめていた。
「これって不二の好きなやつだね」
「うん。こないだ食べたいって言ってたの、覚えててくれたみたいだ」
恋人のささやかな気遣いに、不二がほんのり頬を染めて笑う。
綺麗な顔立ちの不二だが、そんな表情を浮かべていると、ぎゅっとしてあげたくなるほど可愛かった。
「麺、延びちゃうといけないから、早く食べよ」
「そうだね」
リョーマがそう言うと、不二も頷いて席につく。
いただきます、と唱和して箸を手に取り、まずはレンゲでスープを一口。
いつもながら河村の料理は絶品だ。
一口食べれば、もう最後まで箸が止まらないのだから。
身体を動かした直後であることを慮った、胃にもたれない味付けと、食材選び。
河村のそういう気遣いには、本当に頭が下がる。
そしてそれを言うと、当の本人よりも、隣で聞いてる不二の方が嬉しそうな顔をするのだ。
微笑ましくて、見ているリョーマも胸がほんわり温かくなる。
「それにしても、リョーマくんは本当に上達したね。僕も去年までやってたけど『紅娘(こうじょう)の舞』は、そう簡単に会得できるものじゃないんだ。君の『加護女』としての資質と、それを磨こうとする努力……手塚は本当に、いい『加護女』を得た……僕も嬉しいよ」
「そうだったら嬉しいけど……周助や英二が一生懸命教えてくれたからだよ……でも、二人の舞を見てるとまだまだだなぁって思う。もっと頑張んなきゃ」
二人とも、本当にすごいのだ。
不二は本人の言うとおり、先年まで『加護女』の代役を勤めていただけあって、彼女の舞には人を納得させることのできる優雅さと美しさがあったし、菊丸は、妓楼に席を置いていたため歌舞音曲の基礎は、きっちり仕込まれている。
楽器も大抵のものはこなせるし、艶やかで華やかな彼女の舞は、宴などでは手塚でさえも披露を請うほどだという。
実際に二人の舞を見たとき、尻込みするでなく、奮起したのは一重に生来の負けず嫌いがあってこそだった。
『紅の儀』は、太極殿の舞台で主だった貴族や、諸官を前に行われる奉納舞。天地に祈りを捧げ、その舞を以って万物の気を活性化させて、邪気を払うのだ。
自分にとってはもちろん、天地の神々、そこに居並ぶ全ての人の目に満足いくものでなくてはならない。
リョーマの失敗は、即手塚の面目に関わってくる。
大好きな人の面目を潰すなんてとんでもない。
それにはかなりのレベルが要求されることをわかっているから……リョーマの目標は高かった。
「もっと頑張るのはいいけど、無理しちゃダメだぞ、おちび。そういうのなんていうか知ってるか?本末転倒って言うにゃ」
「英二の言うとおりだよ。今できることで最高のものが出せればいいんだからね」
二人の言葉に、素直に頷く。
下手に無理をしたら、面目云々の前に、手塚に心配させることになるのが目に見えてるから。
ベストを尽くす。
でも、それとは別に、いつだって目標は高く掲げていたい。
自分のために。
大好きな人のために。
「点数の辛い不二が手放しで誉めてんだから、大丈夫。それにさぁ、こういうのは『見せる』ことでしか得られないものっつーのもあるんだよ。俺だって不二だって、最初から今みたいだったわけじゃないんだからにゃ」
半分に割った点心から上がる湯気の向こうから、菊丸が悪戯っぽく笑いながら言う。
確かにそのとおりだ。
どんな達人だって、資質は別にして、初めから上手くできたわけがないのだろうから。
やるべきことは、自分のできる全てで、これまでの積み重ねを披露するだけ。
「とりあえず、本番までは練習頑張る。んで、あとは舞台に立ったら、なるようになる……よね?」
上目遣いに伺えば、二人ともはっきりと頷く。
「君は君のままで舞えばいいんだよ。変に気負う必要なんかない。手塚だって、それが嬉しいんだろうからね」
「つーより、自分が選んだ衣装おちびが着てるだけで嬉しいだろ?執務の傍ら、今回も真剣に布地を選んでたって、大石に聞いたもん、俺」
からかうような菊丸の口調に、不二も実に楽しそうに微笑んでそれを肯定するので、リョーマは点心を口の中に押し込んで羞恥をやり過ごす。
正装の類は、いつも手塚が見立ててくれる。
そうしてくれるように頼んだのは自分だった。
初めて袖を通した正装を手塚が見立ててくれたのだと知ったときの喜びが忘れられなくて。
リョーマのことを考えて選んでくれた正装は、いつも心をくすぐったいような喜びで満たしてくれるのだ。
だから。
先日あることを知ったとき、思い切って実践してみようと計画したことがあって。
リョーマは、またからかわれることを百も承知で、おずおずと唇を開いた。
「あのね、話は変わるんだけど……周助と、英二にお願いがあるんだ……」
切り出した言葉に、二人はおや、と言う顔をした。
「おちびが『お願い』なんて珍しー」
「僕たちでできることだったら、なんでもするよ。言ってごらん」
促されて、頬を染めながらリョーマは『お願い』を口にする。
「……俺に裁縫教えて……」
「裁縫?」
「なんでか聞いてもいいかい、リョーマくん」
「ん……あのさ、こないだ大石さんがさ英二が作ったって言う袍着てたでしょ?そのときから考えてたんだけど……河村さんにも聞いたら、周助が仕立ててくれた物だって嬉しそうにしてたし……だから俺も覚えたいなって……」
これは遊びに来た杏に聞いたのだが、この国では男性が身につける衣服は、伴侶たる女性が用意するものなのだそうだ。
宴や式典などのときに着るものは布地の見立てだけで、あとはそれを生業としている者に頼むのものだそうだが、普段着るものは自らの手で仕立てるのが慣わしなのだという。
杏も、その話をしたとき、自分で縫ったという桃城の新しい夏物の袍を携えていた。
自分は、自分でできることを精一杯しているつもりだが、それでもやっぱり与えてもらってるものの方が多いと思う。
物理的なものはもちろん、気持ちの上でも。
変に卑下したり、卑屈になったりするつもりはない。
だって手塚は、年下とか年上とか関係なく、対等に接してくれる。
リョーマの幼さゆえに、足踏みしている部分は、大人の男である手塚にはあると思うけど、そればかりは自分の気持ちを考えてみても待っていて欲しいし、彼に無理している気配は感じられない。
悠然とした心持ちで、リョーマの心身の成長を見守ってくれていると感じる。
そういう、時間による解決しか望めないものを除いては、本当に対等だ。
だからこそ、自分でできることを増やせるものなら、増やしたい。
それに……自分が仕立てたものを手塚が身につけてくれたら、どんな気持ちがするだろう。
はにかむように、仕立てあがったばかりの袍を見せてくれた杏の表情。
本当に嬉しそうだった、大石と河村の表情。
手塚が見立ててくれたものに袖を通すときの、自分の気持ち。
いろいろ考えて、照らし合わせて……
覚えたいな、とそう思ったのだ。
あちらにいたときの裁縫の心得といえば……皆無というわけではない。
アメリカにいる頃は母はバリバリのキャリアウーマンだったし、父は家事の一切合財には不器用だった。
それ故、取れたボタンを付けたりすることくらいは自分でしなければ、いつまでもそのままだったためやったことはある。
しかし服を仕立てるというのは、雑巾を縫ったりするのとは違うだろう。
それくらいはわかるので、ちゃんと基礎から習わなければ。
「ダメ……かな?」
こればっかりは式神を頼ってみてもどうにもならない。
裁縫なんてもの縁遠いことこの上ない存在なのだから。
不二と菊丸は顔を見合わせて……すっかり二人の美貌を見慣れたリョーマさえ、どきりとするような優しい笑みを浮かべて見せた。
温かくて、ほっとする……そんな笑顔。
「ダメだなんてとんでもない。喜んで教授するよ」
「本当?」
「もっちろんにゃ。おちびの仕立てたものを身につける手塚をからかうっていう新しい楽しみもできそうだしにゃ。ね、不二?」
「それは、いいね。ものすごーく楽しそうだよ、英二」
悪戯っぽい口調で二人が引き受けてくれたのに、リョーマも弾かれたように笑う。
実際その場面に居合わせたら、自分にしてみても恥ずかしいような気がするのだが、それでもその恥ずかしさは嬉しい恥ずかしさだと思うから。
そのまま和気藹々とした昼食を終えるかと思いきや……
「……扉の外に誰かいる……海堂さん?」
見知った『気』が房室の扉の前で右往左往しているのを感じて口に出すと、不二も『気』を探って頷いた。
「確かに海堂だね。なにしてるんだろう」
「あいつのことだからなんかまた遠慮してるんじゃにゃいの?」
確かに海堂はぶっきらぼうに見えて、かなりシャイなのでそういうことが今までにも何度かあった。
これが桃城なら役者のように朗々とした声で、入室を請うのだが、海堂は特に手塚に頼まれごとでもしない限りこちらが気付くまで扉の前に佇んでいることが多い。
「透理、海堂さんを通して」
「畏まりました」
間を置かず、透理が海堂を伴って衝立の向こうから姿を現した。
手には、美味しそうな瓜の入った籠を持っている。
「遠慮しないで入ってくればいいのに」
言ったところで、染み付いた性分が簡単に改善されることはないだろうと思うのだが、それでも毎回リョーマは同じことを言ってしまう。
「そうだぞー、海堂。少しは桃を見習えば?」
「それだけはゴメンっすよ」
きっぱり即答して、ずいっと手に持った籠を、差し出した。
「それって、確か辺境にしか生らない瓜だよね?春蓮のあたりでは流通してないはずだけど……」
赤茶色の色をした皮の瓜。
不二が首を傾げる。
春蓮で流通がないということは、宮城にも納められていない。
天領国は、果物が豊富で食卓には必ず並ぶものだけれど、リョーマもその瓜は今までに一度も目にしたことがなかった。
「どうしたんだい、それ?」
「……俺が育ったあたりにはよく生ってたの思い出したんで……あの辺では貴重な甘い果物だったから……」
海堂は流浪の民の出身。
彼らは辺境……主に天領国とは天海を隔てたあたりを転々としているのだが、集団によってテリトリーのようなものがあるらしい。
流浪の民の生活は貧しく、身体を売ることを生業にするもの、あるいは旅回りの一座に加わり演員(役者)や曲芸師になるもの、腕に覚えがあれば傭兵になるものも多い。
海堂がまさにそれだった。
「ひょっとして君、わざわざ取ってきたのかい?」
「…………」
沈黙は肯定。
海堂は自ら進んで接触してくることは少ないが、それでも充分に信頼に足る人間であるし、時折こうして不器用な気遣いを見せてくれる。
リョーマは甘いものが好きだし、果物も大好物だ。
多分それを、覚えててくれたのだろう。
「ありがとう、海堂さん」
「…………おう」
「せっかく来たんだから、一緒にここで食べていこうよ」
「なっ!!」
何気なく誘っただけで、視線を彷徨わせ、ちょっと紅くなってしまうのだから本当にシャイな人だ。
「それいいね。ほら、席はあるんだから、座ったら?」
「ぼさっと突っ立ってなーい、おっ、これちゃーんと冷やしてあるんじゃん。海堂、気がきくー。透理、厨房から包丁持って来てくんにゃい?」
「はい。お皿なども持ってまいりますね」
「頼んだよん。ほらっ、海堂ってば」
やや強引に菊丸が引っ張るのに、海堂はされるがままだ。
強面で、お世辞にも目つきもよろしいとはいえないので誤解されやすい海堂だが、本質を知れば可愛い面も見えてくる。
本当に自分の伴侶は人を見る目がある……と十分冷えた瓜を手にとって海堂と交互に眺め、リョーマは誇らしさに内心でひっそり微笑んだ。
続
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