庭球小説

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五章 蓮荷月・参

 その日、朝かららしくもなく手塚は緊張していた。
 衣服を北辰王の正装である甲鎧に改めながら、何度目かの溜息をつく。
 別に己が緊張することではないと思うのだが、下手をしたら当事者であるリョーマよりも胃やら心臓やらがきりきり痛む思いを味わっていたかもしれない。
 儀式は間もなく始まる。
 今頃、リョーマはこの房室の向かいにある、加護女のための控えの間で不二たちに最後の仕上げをされていることだろう。
 桂香月に行われた『藍の儀』と対になっている神事、『紅の儀』。
 『藍の儀』でまず、加護女の責務を果たしたリョーマだが、ある意味北辰王の介添え的な役割であった件の儀式とは違い、『紅の儀』は、幼い恋人が『加護女』としての力を、初めて示すことになるのだ。
 今朝、リョーマと顔を合わせたときは、緊張はしていたもののどこか余裕すら感じられて、彼女の器の大きさを感じて喜ばしく思ったのだが……
(本人がしっかりしていると言うのに、俺のこの有様は一体なんだ……全くもって、情けない)
 潔斎のため、部屋から出れないリョーマを慮り、彼女の朝食に付き合ったはいいが、自分はいつもの半分も喉を通らず、結局粥の殆どは見かけに寄らず大食漢の恋人が、ぺろりと平らげてしまったと言う。
 二人きりの朝食で、本当に良かったと内心胸を撫で下ろした。
 あんなところを、不二や菊丸に見られたら、からかわれることは必至だ。
 うるさいくらいの心臓をなんとか宥めようと、深呼吸を繰り返していると、隣から低い笑い声が聞こえた。
「なんだ、乾」
 傍らに立つ友人に、ちらりと視線を向けると、彼は笑いを噛み殺した表情をしている。
「いや……おまえでも、そんなにふうに緊張することがあるんだと思ってな」
「悪いか?」
「悪くないさ。むしろいい傾向だと思うよ。安心した」
「安心だと?」
 乾の言っている意味がつかめず、問い掛けると、彼は度のきつい眼鏡を押し上げてどこかほろ苦いような笑みを唇の端に閃かせた。
「おまえは確かに有能な『王』だ。長い天領国史上でも、これほどの王はいまい。そんな王に私官として仕えることができるのは、俺には……いや、俺たちにはこの上なく誇らしく名誉なことだが……それは『官』としてであって、友人としては少しばかり心配もしていた。おまえが『王』であると同時に、一人の『人間』であることを忘れてしまうのではないかってな……王は国や民に仕えるもの……けれど、だからと言ってそのために自分自身を犠牲にして欲しくはなかった」
「…………」
「だから安心したし、嬉しいよ。おまえが人間くさい表情を見せてくれるのが。からかってばかりだけど、菊丸や不二たちだって、そう思ってるんだぞ…………越前は、いい『加護女』だな」
「あぁ……リョーマは、俺にはもったいない宝だ」
 友人たちが、王の責務に過剰なほど邁進していた自分を案じていてくれていることは知っていた。
 だが、リョーマに出会う前の自分は、それに応える余裕すらなくしていたのだと思う。
 もしかしたら、親しい者として当然の気遣いに、応える術さえも忘れていたのかもしれない。
 ありがたいとは思っていた。
 申し訳ないとも思っていた。
 彼らがいたからこそ、手塚は王としての重圧に負けなかったのだ。
 けれど自覚はあっても、それを顧みている時間を手塚は自分に許さなかった。
 今思えばあれほどまでに薄情だった自分を、よくも彼らは見捨てずにいてくれたものだと思う。
 権力に縛られているような連中ではないから、見切りをつければ、手塚が王だろうとなんだろうと容赦なく紫電宮を後にしていったはずだから。
 乾の言うように、『王』であることを優先するあまり、『人間』であることを忘れようとしていたのかもしれない。
 思い出させてくれたのはリョーマだ。
 忘れかけていた『手塚国光』という自分自身を。
 だから、もう見失ったりしない。
「乾」
「なんだい?」
「すまなかったな……だが、俺はもう大丈夫だ」
 改めてそんな風に言われるとは思っても見なかったのだろう、乾は少し驚いた表情を浮かべて……わかってる、と小さく笑った。
「手塚、準備が整ったぞ。御座についてくれ」
 呼びに来た大石に頷いて、乾とともに控えの間を出る。
 諸官や貴族たちは、広場に平伏しており、それを見下ろしながら舞台の上座に用意されている椅子に腰を落ち着けた。
 その両脇を太師と私官が固め、一段低いところが六官それぞれの長たちの席となる。
 樂を奏でる役目の春官たちが、定位置につき。
 天鼓(大きな太鼓)が、打ち鳴らされて、儀式の始まりを告げた。
 それを合図に広場に平伏しているものたちが、頭を上げて、舞台に視線を集中させる。
 痛いくらいの沈黙。
 そこへ……しゃらん、と清んだ鈴の音が響いた。
 張り詰めた緊張感の中、リョーマが静かな足取りで舞台に上がり、その中央に歩を進める。
 彼女の姿を認めた者たちの唇から、なんとも言えない感嘆の吐息が零れ落ち、それは細波のように場に広がっていった。
 手塚とて、例外ではない。
 小作りに整った顔には、不二たちによって薄化粧が施されている。
 脂粉をはたきつけ、目の際に朱を入れ、いつもより濃い色の紅を唇に刷いた恋人は、天神もかくやという美しさだった。
 確かに幼く、あどけなさは拭えない。
 けれどそのあどけなさが、薄く施された化粧と相俟って、神秘的な風情を醸し出していた。
 剥き出しの肩や腕、下衣から覗くすらりと伸びた足には、刺青のように金色の顔料で、文様が描かれている。文様は、もちろん意味のある呪いだ。
 首や、触れるとやわらかな頬にも、それは施されている。
 しっとりと落ち着いた紅い上衣は、陽光の下、リョーマの象牙色の肌を際立たせて。
 なんと可憐で、美しい加護女だろうか。
 存命だったころの母も美しかった。
 先年まで代役を務めていた不二も、さながら天女のようであったが……
 恋するものの欲目と言われようと、手塚の目には、リョーマが一番美しく見えるのだ。
 天上の女神たちも羨むだろうと思えるほど、愛らしく、生命力に満ちた半身に、表情は変わらないものの手塚の視線は釘付けになっていた。
 傍らにいる不二は、それに気付いたのだろう。
 小さく笑う声が聞こえたが、リョーマを見つめる手塚は全く気にしなかった。
 リョーマが身体の向きを変え、正面から上座に座る手塚を見上げた。
 そして膝をつき、優雅に一礼する。
 両方の手を胸に置き、顔を伏せる一瞬に、浮かべた勝気な笑み。
 指先が、左手の薬指に嵌められた戒指に触れるのを手塚は見逃さなかった。
 先月の星祭の夜、求婚の言葉とともにリョーマに贈った戒指。
 彼女の故郷では、求婚が成立した際には、左手の薬指に合う戒指を贈る風習があると聞いたから。
 なぜ、左の薬指なのか、と聞いたら『その指が一番心臓に近いって言われているから』だと教えてくれた。諸説は様々あるらしいが、リョーマはその説が一番好きなのだと笑っていた。
 生命を維持する上で重要な器官である心臓に一番近い指に、愛を誓う証を贈る。
 それはなんだか素晴らしい慣わしに思えて……
 手塚はリョーマに、いずれ正妃となって欲しいと告げることを決意したとき、恋人の故郷の風習に倣った戒指を用意することにした。
 ごく普通に職人に頼むのではなく、懇意にしている仙に頼んで、特別に戒指を誂えてもらった。
 金属に見える部分は、仙術により、月光を凝って物質化させたもの。月は西王母の象徴であり、月光は加護女を守護する光だ。石は、蓮暁石という、それ自体に聖性のあるものを用いて、リョーマの守りになるように……
 恋人は、故郷の風習に倣った指輪をたいそう気に入り、とても大事にしてくれている。
 本人が気付いているかはわからないが、ことあるごとにその戒指に触れるのが、癖になっているらしい。
 その仕種が、とても愛しく、嬉しかった。
 顔を上げた恋人にだけわかるように、目元を和ませると、リョーマも小さく微笑んだ。
 手塚が見守る中、天地双神に捧げ、万物の力を活性化させるための舞が始まった。
 樂は、石琴の音から始まり、月弓琴、七弦琴、琵琶、笙、竜笛、天鼓などで奏でられる。楽器にはそれぞれ意味があり、それらが奏でる音色にも意味がある。
 軽快な旋律の間を縫うように、拍子を取るのは耳と心に聞こえる鈴の音色。
 しゃらんしゃらんと、リョーマの動きに合わせて鈴の音が響く。
 両腕にかけられた領布(ひれ)は、蓮の花のような淡紅色。
 身長より遥かに長いそれを一瞬も地に付かせることなく、それ自体に命が宿ったようにはためかせる。
 美しい蝶のように、ひらひらと舞うリョーマの姿は、後世に語り継がれることを予感させるほど見事なもので。
 次第に曲調が高まっていき、舞いも中盤に差し掛かろうかというころ。
 心に響く天鈴の音も高らかに、リョーマの周囲に異変が起こる。
 光の粒子がきらきらと集い、神秘的な光景を展開させていた。
 加護女の舞に感応し活性化した、万物五行の力が、ああして光の粒子となって人の目に映るのだ。
 気ままに飛び交い、時に従うように浮遊する五行の光は、数を増やしながら、天鈴の音色に共鳴するように明滅する。
 初代・北辰王の加護女が、荒廃した大地に再び生命を吹き込むために舞ったとされる伝承が、この舞いの始まり。
『紅娘の舞』……紅娘とは、初代の加護女のこと。
 それが真名なのか、愛称なのかはわからないが、天上の舞神の化身とまで言われた舞姫だったと伝えられている。
 森羅万象、生命の営みを体現しているという『紅娘の舞』……それを、舞いの素養などないに等しかったにもかかわらず、二ヶ月に満たない期間でこれほどまでに、見事な舞いを披露するとは……
『俺ね、一生懸命踊るから、見ててね。世界のこととか、神様に捧げるためのものだとか、一応考えるけど……でも、国光のこと一番考えて踊るから。だから、一瞬でも見逃さないで……それが俺の、国光の『加護女』ってことだから』
 そう、リョーマが言ったのは、数日前のことだ。
 一瞬でも見逃す?
 とんでもない。
 言われるまでもなくそのつもりだったけれど……そんな心構えは必要なかった。
 手塚の目を、心を奪って止まないリョーマの舞に、見入るばかりだ。
 それだけでなく、手塚の胸は熱くなる。
(……俺のことを一番に考えて……おまえは、そう言ったな、リョーマ……この舞いがそうだというのなら、俺は……)
 手塚は、心から、天地双神に感謝せずにはいられない。
 こんなにも愛しく、誇らしい存在と出逢わせてくれたことを……
 大切にする、誰よりも。
 他の誰にも、それが天帝だったとしても……譲れない、奪わせない、愛しい恋人。
 躍動するリョーマを中心に、波紋のように『加護女』の力が世界に広がっていくのを感じる。
 誰の目にも明らかに、彼女は己に課せられた役目を果たしたのだ。
 終焉に近付いている舞いを手塚は、今までになく優しい眼差しで見つめ続けた。


「リョーマ、今日は本当にご苦労だったな。見事な舞いだった……おまえの努力の成果、しっかりと見させてもらったぞ」
 全てを終えた、リョーマの房室。
 二人きりの部屋で、手塚は恋人を心から労った。
 彼女は、頬を紅潮させ、はにかんだ笑みを見せる。
「国光に誉められるのが、一番嬉しい」
 そう言って、隣り合って座った長椅子の上で、リョーマは甘えるように、手塚に身を寄せた。
 やわらかく、華奢な身体を手塚はそっと抱き上げて、自分の膝の上に乗せる。
 すると幼い恋人は嬉しそうに、身体を凭せ掛けてきた。
『紅の儀』を無事終えた後、大々的な宴ではなく、ごく内輪の仲間たちだけで、ささやかな宴席を設けた。
 大役をこなして、自覚はなくとも疲れているだろうリョーマには、そのほうがいいと思ったからだ。
 宴席といっても、今日は果たせなかったみんなでの朝食を、夕食にすりかえただけに過ぎないが、それでも献立はリョーマの好きなものばかりを並べてもらい、彼女の労を全員で労った。
 特に、指導をした不二と菊丸は、リョーマの見事な舞いを我がことのように喜んで……酒も入ったことにより、いつもより賑やかな食卓に、リョーマも終止嬉しそうにしていた。
 ことに、酒の入った菊丸に促されて、ここしばらく弾いていない胡弓を弾いて見せたときには、大きな目をきらきらさせて……
「ねぇ、国光」
「ん?」
「またさ、胡弓弾いてくれる?今度は俺のためだけに」
「もちろん……リョーマが望むなら、いつでも……」
「へへ……嬉しい」
 ぎゅう、と抱きついてくるのが愛しい。
「でも、国光にあんな特技があったなんて、意外だな」
「らしくないか?」
「ううん。すっごくさまになっててかっこよかったよ!でも、びっくりしたんだ。国光に楽器ができるって考えたこともなかったから」
「弾いたのは、久しぶりだが……子供のころにな、母上が教えてくださった。俺には胡弓、不二には竜笛を」
「じゃあ、周助も笛、吹けるんだ」
「あぁ、今ではもっぱら、河村にしか披露しないそうだが……時々聞こえてくることがある。楽器を奏でることは、『気』の流れを読む修行の一環として始めたんだ。教養にもなるし、一石二鳥だと母上が仰って……」
「ふーん。絶対また、聞かせてね、約束だよ」
 すりすりと、まるで仔猫がそうするように頬を摺り寄せてくる恋人を、手塚は腕の中に閉じ込めて、そのぬくもりを堪能する。
「喜んで、リョーマ」
 髪に鼻先を埋めると、一度風呂に入ったリョーマの髪からは、香玉のあえかな香り。
「ありがと、国光。大好き」
 嬉しい言葉に、応えるように髪を梳いてやっていると、しばらくして規則正しい寝息が首筋を擽った。
 平気そうにしていたけれど、やはり疲れていたのだろう。
 すっかり寝入った幼い恋人の身体を、横抱きにして奥の寝台へと運び、小さな身体を横たえてやる。
「……んー……」
 ぬくもりが離れることを嫌がってか、むずがるリョーマに、手塚は苦笑を浮かべながら、そっと口づける。
 触れるだけのくちづけを、しっとりと何度も施しているうちに、彼女はすっかり大人しくなり……力が抜けて、上着の布を握っていた手がことりと落ちた。
 風邪を引かないように、上掛けをかけてやり、稚い寝顔に自分の中で息衝く、優しく激しい気持ちを噛み締める。
「……おやすみ、リョーマ」
 いつものように、額に唇を軽く押し付けて、手塚は恋人を起こさぬように、静かに寝台から離れて。
「透理」
 小声でリョーマの式神を呼ばわる。
「お呼びですか、主上」
「あぁ。リョーマが平服のまま寝入ってしまったからな、起こさぬように着替えさせてやってくれ」
「畏まりました」
「頼んだぞ。では、俺も、もう休む」
「はい、お休みなさいませ」
 一礼する式神に後を任せ、手塚は少しばかり後ろ髪惹かれる想いを持て余しながら、自分の部屋に通じる扉に手をかける。
 明日もまた、恋人の勝気な笑みが見れることに、想いを馳せながら……


終幕・六章へ続く

  • 2012/01/18 (水) 04:43

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