作品
七章 菊灯月・壱
机の上には山と積まれた書類。
目の前に置かれた最後の一枚に、御璽を捺印し終えた手塚は溜息と共に、椅子の背もたれに全身を預けた。
「主上、処理済の書類は乾殿のところへとお持ちしてもよろしいでしょうか?」
見計らったように茶器を机の上に乗せ、半身より預かった式神が問うのに、手塚は頷く。
「あぁ、頼む。鑑月、今日の決済はこれで終わりか?」
「はい。主上に目を通していただく必要があるのは以上になります」
てきぱきと処理済の書類をまとめる式神は、乾曰く式神にしておくのが惜しいと言わしめるほど恐ろしく有能だった。
乾、大石に加えて鑑月が職務の補佐をしてくれるようになってから、一日の仕事はさらに円滑になったといってもいい。
鑑月がいれてくれた茶で喉を潤し、一息付いた手塚は式神が仕事を終えて戻ってきたのを確かめてから、徐に立ち上がった。
「では、俺は水晶宮に戻る。リョーマにそのように伝えてくれ」
「御意」
神鏡を本性に持つ式神の姿が、白い残像を残して掻き消えるのを見届けてから執務室を後にする。
一国の為政者としての仕事は概ね地味なものだが、地味だからと言って楽なものでは決してない。
何より双肩にかかる重圧は尋常ではなく……なるほど一国を治めるというは、天よりの試練に相応しいと日々実感していた。
もとより覚悟して臨み、王としての職務を苦に感じたことはないが、以前にも増して仕事に張りというものを感じるようになったのは、一重に心に潤いを齎してくれる存在を得たからだと思う。
回廊を歩きながら、疲れているはずの身体に力が行き渡り、心が浮き立つように感じる……それが証。
自室の扉にではなく、その隣の扉に手をかけて開けば、元気な声が手塚を迎えてくれた。
「お帰りなさい、国光!お疲れ様」
にこにこと満面の笑みで、子猫のようにまとわりついてくる年下の恋人。
「ただいま、リョーマ」
腕の中にすっぽりと収まる華奢だけれど、子供特有のやわらかな身体を抱き締めると、一日の疲労が嘘みたいに消えてなくなるのだ。
前髪をかきあげ、軽く唇を触れさせる。
いまでは習慣となった行為。
リョーマは擽ったそうに肩を竦めた。
「お腹、空いてない?夕飯の仕度出来てるんだよ」
急かすように腕を引っ張るのに、手塚は苦笑しつつ応じる。
どうやら恋人は、ご機嫌らしい。
足取りが軽く、勝気さが伺える整った顔立ちには、終始笑みが浮かんでいた。
その表情を見ているだけで、自分の心が満たされていく……そんな感覚も、いつのまにか当たり前のものになった。
二人きりで卓を囲み、甲斐甲斐しく小皿に取り分けて手渡してくれる。
取り分けるための長い菜箸の扱いに、当初は梃子摺っていた節も見受けられたけれど、いまではすっかり慣れたらしく手際もいい。
それはリョーマがこの世界に馴染んでいっている証拠のように思えて、手塚には嬉しかった。
卓の上に並べられた河村手製の料理は、その美味さに舌鼓を打ちつつも早々に綺麗になくなってしまう。
成人男性の人並みには食べる手塚はもちろんだが、とにかく恋人は小柄な外見に似合わず、いったいどこに入るんだと疑問を抱くほどの量をぺろりと平らげる。
本人の言うところによれば『成長期だから』ということなのだが……
たぶん、それは半分当たっていて、半分外れている。
まだ十二歳なのだから、成長期に入ったばかりというのは間違っていない。
だが、彼が言うところの成長期を終えても、彼の食欲は人並み以上だろう。
(……母上もそうだったからな……)
天の代理人として理を監視する役目である北辰王は、目を光らせる必要はあるが常に『神力』を放出し続けているわけではない。
だが、地の守護者である加護女は常に五行の力の受け皿となり、『万物の力』と共にある。
本人は意識することはないらしいのだが、その大きすぎる力の均衡を保つための力を使っているのだ。
その反動として、加護女は例に漏れず大食漢……と言うことらしい。
思えば母も、そのほっそりした外見に似合わず、二・三人分は軽く食べていたのだから。
目の前で満腹満足の表情をしている彼がそのことを自覚する日は、当分来なさそうだと手塚は気付かれないように苦笑を噛み殺した。
「はー、今日も美味しかった。河村さん、また料理の腕を上げたんじゃない?」
「あぁ、そうだな。腕を揮う機会が増えたからだろう」
リョーマのように、心から美味そうに食べてくれる相手には作り甲斐もあるだろうし。
「そう言えば、おまえの世界の料理にも興味を示していると不二から聞いてるぞ」
「うん。どんなものを食べてたのか教えてくれって言われたよ。でも、俺、料理ってあんまりしたことないから、教えてあげられるものなんて本当に少ないと思うんだけど……簡単なお菓子とかくらいだったら、ちゃんと説明もできるかなって思ってる」
「そうか。多少覚束ない説明でも、要点を押さえてさえいれば、あいつなら再現することもできるだろう」
だから安心して教えてやれ、と言うとリョーマは微笑みながら頷いた。
河村と言う男は、本当に律儀で生真面目だ。
こちらの料理をすっかり気に入って、リョーマの口から不平など聞いたことはないが、それでも故郷の味を再現して食べさせてやることができれば……という心遣いもあるのだろう。
(まぁ、純粋に料理人としての興味もあるだろうが)
河村が紫電宮に上がって二年。
その間武術の鍛錬と平行して、宮廷料理長のもと修行に明け暮れてきた。
下地はあったらしいが、彼の料理の腕はめきめきと上がっている。
それは彼の料理を口にしたことのある全ての人が認めるところに違いない。
「この分では、師匠から一人前と認められるのも間近いに違いない。不二には待ち遠しいことだろうな」
笑い含みにそう言えば、年下の恋人が小さく首を傾げる。
「河村さんが一人前に認められるのが、周助にも待ち遠しいことなの?」
「あぁ。河村が一人前と認められたとき、一緒になる約束をしている。不二は養い子ではあるが、俺にとっては家族だ。そのときには、王家から嫁すに相応しい華燭の典を上げてやるつもりでいる」
あまり派手なものはいやがるかもしれないが、それでも……不二が河村と将来を誓ったと聞いたときから、手塚がずっと心に決めていたこと。
不二を実の娘のように可愛がっていた両親もそれを望んでいるだろう。
私官たちはみな自分にとって甲乙つけがたい友人たちであるのだが、やはり幼いころから家族として過ごした不二は少しばかり特別なのだ。
「そうなんだ……大好きな人と結婚できるなら、待ち遠しいのは当然だよね」
夢見るようにうっとりと、頬を少し紅潮させて納得するリョーマの小さな頭をそっと撫でる。
すると恋人は掌にさらに押し付けるような仕種をして甘えた。
誰かに……否、特別なただ一人に甘えられることの心地良さは、一度味わったら忘れられないほど甘美なものなのだと。
リョーマを得て、初めて知った。
知ることができて良かったと思う。
そうでなければ、自分の人生はなんとも乾燥したものになっていただろうから。
「でもさぁ」
掌の下で、恋人が小鳥のように、くくっと笑った。
「なんだ?」
「さっきの話聞いてると、国光もひょっとしたら橘さんのこと笑えない兄バカなのかなぁって思う」
可笑しそうに彼が言うのに、手塚は顔を顰める。
「俺はあそこまでひどくはない」
幼馴染の、妹溺愛ぶりを思い返して、うんざりと口にすればリョーマはさらに笑った。
「それはわかってるよ。国光があんなだったら、俺やきもち妬きっぱなしになっちゃうじゃん」
さらりと。
なんだか嬉しいことを聞かされた気がするのだが。
なんとかそれを表情に出す醜態だけは、培った鉄面皮で切り抜ける。
「でもさ、国光は国光なりに、周助のことすごく大事にしてるのは確かだよね」
くすくす笑いながらの発言には、咳払いすることで応えた。
式神に食器の片付けを任せ、居間に移動して食後の一時を楽しむ。
菊灯月に入って、これからの季節に相応しい調度に模様替えされているため、まだどこか見なれぬ感がある。
長椅子に代わって、毛足が長く暖かそうな絨毯を敷き、寛ぐための脇息を置いた場所に手塚は腰を下ろした。
硝子の卓も片付けてしまったらしく、リョーマは大き目の盆を手にしている。
リョーマの分は蜜湯。
手塚の分は、酒。
飲めないわけではもちろんないが、宴席などならばともかく進んで嗜むことはなかったもの。
余裕があるつもりでも、ひょっとしたら酒を楽しむのを無意識下で避けてきたのかもしれない。
自分には、本当はそんなに心の余裕はないのだと。
最近では、毎晩と言うわけではないけれど。
恋人と話をすることを肴に、明日に残らぬ程度に酒を楽しむ。
酒盃に酒を注いでくれるのは可愛い恋人。
その恋人の雰囲気が、どこか落ち着きなく感じて。
「どうした、リョーマ?」
心配になって問い掛けると、彼はぱっと頬に朱を散らした。
そうして上目遣いに見つめてくる。
「あのね……あの……俺、国光に受けとってほしいものがあるんだけど……」
「受け取って欲しいもの?」
こくんと頷く、小さな頭。
リョーマがくれると言うものを、もちろん自分が受け取らないわけがない。
そう言うとリョーマの顔が、喜色に染まって。
取って来るから待っていて、と部屋の奥へ駆けていってしまった。
いったい何をくれると言うのか……
首を捻っていると、間を置かず、リョーマが何か包みを抱えて戻ってきた。
布紙(和紙のようなもの)で包み、飾り紐の結ばれたそれを恋人は顔を真っ赤にして差し出してきた。
一つの、言葉と共に。
「国光、誕生日おめでと」
「え?」
「今日、誕生日なんでしょ?菊灯月の七日。周助に聞いたんだよ。俺の世界では、誕生日は祝うものって教えたよね?だから……」
じっと見つめる瞳が、不安そうに揺れるのに、手塚は我に返った。
そう、確かに聞いたいた。
リョーマの世界では、誕生日には家族や親しい人、あるいは恋人同士で祝うものなのだと。
そして心をこめた贈り物を贈る。
聞いてはいたけれど、自分の誕生日と言うものを余り意識しない風習に育ったものだから、咄嗟に対応ができなかったのだ。
手塚は差し出された包みを受け取り、恋人に微笑みかけた。
「ありがとう、リョーマ」
「どーいたしまして。だって、国光が生まれてくれた日だよ。お祝いするのは、当然だもん」
俺の大事な人なんだから、とはにかみながらの言葉に、よくぞ堪えたと手塚が己の理性を誉めたくなってしまったのはやむを得ないことに違いない。
「開けてもいいか?」
「うん!……でも、笑わないでね?」
何を貰ったとしても笑うはずなどないのだが……
なんだろう。
包みの下から感じるのは、紛れもなくリョーマの『気』だ。
飾り紐を解き、中から姿をあらわしたのは……
一揃えの袍衫だった。
袍は深い藍色の絹に、艶を消した金で縁取り。
衫は黒い綿地のもの。
指に触れれば、半身の『気』はより濃くなった。
これは、そう、まるで……
リョーマが自ら作ってくれた、耳を飾る耳環と同じ……
「リョーマ、これはひょっとして……」
「……俺が作ったの。周助と英二に教えてもらって……まともに裁縫ってやったことなかったから、もう、なんとか形になったって感じなんだけど……一生懸命作ったんだ……貰って……くれる?」
恥ずかしそうに言うその姿に、先ほどはなんとか保てた理性が、今度こそ音を立てて崩れた。
傍らで手塚の反応を覗っている華奢な身体を強引に腕に抱き込んでしまう。
「ちょっ……国光……んっ」
噛み付くように重ねた唇。
小さくて花弁のようなそれを舌でなぞり、僅かに開いた隙間から侵入する。
驚いて縮こまったリョーマの舌を優しく擽って強張りを解いていく。
初めて味わう可愛い恋人の口内は、とても甘くて愛しさを募らせるには充分だった。
「ん……んんっ」
苦しそうな声。
腕をぎゅっと掴まれて、ようやく理性が戻ってくる。
はっとして、身を離すと、深いくちづけに酩酊状態になったリョーマが胸に倒れ込んできた。
頬を紅くして、息を喘がせて。
今まで触れるだけのくちづけしかしてこなかったリョーマには、少しばかり刺激が強かったのかもしれない。
(……いくら嬉しかったからと言って……俺の理性も案外脆いものだ……)
柔らかい髪を梳いてやると、身を摺り寄せてきた。
「大丈夫か?」
「ん」
「すまなかった……あんまり嬉しかったから、理性の箍が外れた」
「嬉しい?」
「あぁ。本当にありがとう、リョーマ。とても嬉しいよ。大切にする」
ゆったりと抱き締めて、耳元に囁くと、リョーマの口元に笑みが浮かぶ。
「ん……俺、もっと、裁縫上達するね。それで、国光にいっぱい服作ってあげる」
「楽しみにしている」
いつものように軽いくちづけを頬や瞼に降らせながら、そう言うとぎゅっと胸にしがみついてくる。
その幼い仕種が愛しくて。
(……先ほどのような振舞いはしないよう、気をつけないとな……)
せめて、リョーマの心がもう少し成長するまでは。
そう心に改めて言い聞かせて、手塚は可愛い恋人の耳に、もう一度感謝の意を流し込んだのだった。
続
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