作品
七章 菊灯月・弐
「リョーマくん、リョーマくん」
ちょいちょい、と不二に手招きされて、リョーマは周囲を気にしながら彼女のもとに向かう。
何しろ今は宴の真っ最中だ。
菊灯月に執り行われる、菊花の宴と言う宮中行事。
丸くて大きな菊を雪洞に見たてて愛でるというもので、この日は城下の民にも、菊の花びらを浮かべた菊花酒や、菊を模した菓子などが振舞われるらしい。
このような行事が行われるのは、天領国においては満月の日と決まっていて。
だからリョーマも、手塚に新しく誂えてもらった正装で、宴に公私に渡る北辰王の伴侶として参加していた。
手塚がちょっと席を外しているものだから、諸官や貴族の挨拶はリョーマが受けなければならない。
傍に付いていてくれている大石や菊丸の目も、促すような感じだったので、首を傾げながら不二のいるところまで向かう。
「なに?」
「手塚が待ってる」
そう言って、宴の行われている広間から、北辰王の執務室へと連れて行かれた。
「待ってるって……でも、まだ宴の途中なのに」
「その点は大丈夫。君は酒気に当てられたと言っておくし、手塚は代理人がいるからね」
「代理人?」
その言葉に、書室の方から人影が姿を見せた。
手塚の姿をしている、だけど手塚じゃないのは、リョーマにはすぐ分かった。
「鑑月?国光のカッコなんてして、どうしたの?」
「主上より、宴の席にて代わりを努めるように仰せつかっております」
確かに己の式神であるのだが、手塚の姿と声で、いつものように畏まられてしまって当惑する。
「リョーマ様、主上がお待ちですので、お早く」
「理由は手塚本人に聞いてごらん。あ、これ。寒いかもしれないからね」
ふっと、厚手のショールを羽織らせると、不二は背中を押した。
頭の中はハテナマークでいっぱいだが、言われるがまま外に続く扉を開けると、満月のために明るい蒼に照らされた光景が視界を埋めた。
その蒼い光を背にしているシルエット。
玉虫色の鱗が月光を弾く神獣と、その主たる人。
リョーマが現れたことに、神獣……静嵐が低く嘶いた。
「国光?」
「来たか、リョーマ」
逆光ではあるものの、その声でリョーマは年上の恋人が微笑んでいるのを感じる。
長い裳裾を足に絡めないようにしながら、彼の元へと駆けていき……そして目を丸くした。
手塚が着ていたのは、宴が始まったときに身に付けていたものではなく……数日前、リョーマが彼の誕生日にと贈った一揃えだったのである。
「国光……それ」
着てくれたの、とは声に出せなかった。
「あぁ。これから行く場所に身につけるには、これが相応しかろうと思ってな」
「…………」
「改めて礼を言う、リョーマ。本当にありがとう。着心地も良いし、寸法もぴったりだ。一針一針想いを込めてくれたのだろう?温かい『気』を感じる」
嬉しそうにそう言ってくれるのに、胸の奥が満たされていくのをリアルに感じる。
すっと差し出された手に、リョーマは迷うことなく己の手を重ねた。
恋人は身を屈めて、悪戯っぽい囁きを耳に吹き込む。
「まるでおまえに抱き締められているようだ」
硬質のテノールが甘く囁くのに、リョーマは音でもしそうなほど一瞬のうちに自分の頬と言わず首と言わず真っ赤に染まったであろうことを自覚した。
「…………バカ」
恥ずかしくて俯くと、くつくつと笑う手塚の声。
あっと思う間もなく抱き上げられて、静嵐の鞍の上に乗せられてしまう。
手塚も間を置かず、鞍上に身体を乗り上げて、リョーマを胸に抱き寄せた。
「ね、どこ行くの?」
「墓参りだ」
あっさりとした口調でそう言うが早いか、神獣の足は空に踏み出し、夜空に舞い上がる。
視線の先、片方の手で手綱を器用に繰り、もう片方の手でリョーマの身体を優しく抱き締めて。
こんな風に密着してると、つい思い出してしまう。
手塚曰くの『嬉しくて箍が外れた』という、彼の誕生日の晩のことを。
思いも寄らないほど強い力で抱き締められて、唇を奪われた。
そう、たぶん……ああ言うキスのことを……
(……『貪るような』って言うんだ)
あのときのことを思い出すと、途端に心拍数も体温も上がってしまって……ちょっと困る。
いやだったわけじゃない。
キスは何度もこれまでにしてきた。
触れ合うだけの、体温を分け合う優しいそれ。
でも、あんなのは初めてだった。
知識として、ああ言うキスがあるのは知ってたけど、されたというかしたのは生まれて初めてで。
驚いた。
嬉しかった。
でも、本音を言うと……ちょっと怖かった。
手塚の『男』の顔を見たのはあれが初めてだったから。
求められるのは嬉しいけど、『男の本気』はまだ怖い。
(……『鬼』の国光見たときよりも、あっちの方が俺には怖かったんだもん……)
まだまだ子供なのだ、自分は。
『好き』という感情に、追いつかない部分がある。
こればっかりは、一歩ずつ成長するのを待つしかなくて。
(……ごめんね、国光。もうちょっと待っててね。まだ時間はかかるけど、俺、ちゃんと大人になるから……)
どきどきしたのは、本当なんだよ……と心の内で囁いた。
火照ってしまった頬を隠すように逞しい胸に押し付けながら、リョーマは気を逸らすために口を開く。
「ねぇ、国光……墓参りって言ってたけど……」
「あぁ。父上と母上のな……これから向かうのは、代々の北辰王と加護女が眠っている廟堂だ」
それは天海を超えた向こう側。
北方の厳しい山岳地帯の一つ、泰山と呼ばれる山にあるのだという。
泰山は世界で最も死に近い場所。
人が死した後に旅立つ冥界への入り口があるのだとされ、天帝により『死』を司る役を賜った泰山府君と言う神を祭る祭宮などもある。
神聖にして俗人には侵されざる場所。
「俺の両親が亡くなったのは、ちょうど今くらいの時期だという話はしたな」
「……うん」
先代の北辰王と加護女は、菊灯月のまさに今ごろ亡くなったのだと、手塚本人の口から聞いていた。
リョーマは伏せていた顔を上げ、恋人を見つめる。
「母上が亡くなったのは、六年前の満月の晩だった。白虹が月を貫き、その階を昇って母上の魂は天へと還られた。あの日のことを、俺はよく覚えている」
胸がぎゅっとなりそうなほど優しい声音と、懐かしむように投げかけられる眼差し。
「それより数日前には、父が。太陽を貫く七色の階を昇っていった。父の骸は残らず、七星剣だけが還り、俺を次代へと選んだ。そうして俺は北辰王を継いだが、以来毎年、俺は菊花の宴を途中で抜け出して、墓参りをしている……不真面目な王だと思うか?」
軽い口調に紛らわせているが、真摯な問いかけにリョーマはふるふると首を横に振った。
「お父さんとお母さんのお墓参りでしょ?それくらいいいと思うよ。天帝だって許してくれると思う。年に一度くらい……亡くなった大切な人のことを偲ぶのは、絶対悪いことじゃない」
「そうか……おまえなら、そう言ってくれると思っていた。宴の途中に抜け出すのは、あまり誉められたことではないと思うが……自分の心に嘘をついても、いいことはないしな」
手塚の言葉に、リョーマは既視感を覚え……そして、そのわけを納得する。
「今の国光の言葉……」
「ん?」
「俺の親父の口癖だったんだ。『自分に嘘ついてもいいことなんざ一つもねぇ。だから俺は、自分のやりたいようにやる』って。嘘つく云々は置いといて、もうちょっとは謙虚になったらどうだよって感じだったんだけどさ。俺がそう言うと『んなことしてたら、自分がわからなくなる』とかなんとか御託並べやがって」
ぷう、と口を尖らせると、手塚は慈しむような表情で、リョーマの頭をそっと撫でてくれた。
「いい父上だな」
「そっかなー、ぐーたらで、ずぼらで、どうしようもないクソ親父だったけど」
手塚の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいに。
心からそう思うのに、恋人は微笑んだまま。
「俺のリョーマを、ここまで育ててくださった方々だ。おまえを見ていると、よいご両親だったのだろうと俺は思う……だからこそ、俺はおまえを大事にしないとな」
髪を梳く手つきになんだか涙が溢れてきそうな気がした。
けれどリョーマはそれを堪えて、大好きな人に極上の笑みを向ける。
「今回の墓参りは特別だ」
「特別?」
「あぁ、父上と母上、歴代の方々にも、ようやく俺が一人前となったことをご報告申し上げるのだから。リョーマと言う至宝を得たことをな」
そう言って、手塚は静嵐の手綱を強く握る。
頬がまた火照ってくるのを止められずに、リョーマはショールをかき合せて恋人の胸に顔を伏せた。
眼下の景色が夜の水面から、ごつごつした山岳風景に変わる。
最速の獣は目的地を見付けたのか、緩やかに降下していく。
視界に夜目にも白い大理石の建物が映った。
その入り口に、かつりと蹄の音を立てて静嵐が降り立つ。
先に手塚が降り、彼の差し出した手を取ってリョーマも大理石の上に足を付ける。
「静嵐、ここで待て」
主の指示に、人語をよく解する神獣は嘶いた。
手塚に手を取られて、リョーマは白い建物に足を踏み入れる。
建物の中は、一歩進むごとに、その先の蝋燭が灯っていく仕掛けがされていた。
白い壁も床も、蝋燭の灯りを反射して温みのある色合いに見える。
足音が反響する内部……奥まった広間には、月の光が満ちていた。
正面には、人工的に空けられたものかどうかは分からないが、穴がありそこには表現しがたい色の美しい焔が燃えている。
紅ではない。
蒼でもない。
白というのとも違う。
時として揺らめく影は黒くも見えた。
「……あれは天の焔だ」
「天の焔?」
「そうだ。北辰王と加護女の骸を焼き、世界へと還す神の火。俺たちと言う存在は最終的には身体はもちろん真名も残らん。ただ次代へと『北辰王』と『加護女』の名を継ぐのみ」
手塚は前に進み出て、恭しく焔の前に膝を付く。
リョーマも慌てて、それに倣った。
「父上、母上……そして歴代の御方々よ。お久しゅう……今宵は皆様に、ご報告の儀があり罷り越した次第……これなるは、我が『加護女』。天が私に下された、まごうことなき宝にございます」
朗々と大理石の間に響く美声。
音もなく燃え盛る焔は、応えるようにゆらりゆらりと火影を揺らめかせる。
「リョーマ」
促されて、しかしなんと言っていいかわからず、リョーマはしばし押し黙った。
逡巡は一瞬。
己を語る言葉は、自分の内にしかない。
正直な言葉でなければ、手塚の両親にも、そして自分の前に世界を支えつづけてきた人たちにも失礼だ。
「越前リョーマです。なぜだかわからないけど、ここじゃない世界から召喚されて、国光の加護女になりました。元の世界のことを懐かしく思うこともあるけど、帰りたいとは思ってません。世界のためとか、そういうのはいまいち分からないけど、俺はこの世界にきて良かったと思うし、この世界でなければ出会えなかった大切な人たちもいます。だから、俺はこの世界のためにできることがあればしたい。そしてそれ以上に、国光の支えになりたい。国光を幸せにしたいです。そのためには……これからも、俺にできる精一杯で頑張っていきます。だから……国光のお父さん、お母さん、それから俺の先輩たち……天帝や西王母がそうであるように、どうか俺たちのこれからを見守っててください」
深深と、焔に向かって頭を下げる。
飾らない言葉が、どうか今はいない人たちに届いて欲しいと。
リョーマの覚悟。
この世界にいたいと思う理由。
そして、ここにいることの誇り。
それが届けばいいと。
身を起こそうとして、強く優しい腕に抱き締められた。
「……ありがとう、リョーマ」
染み入るような声音での囁き。
溜息に似ていたかもしれない。
手塚は軽々とリョーマを抱き上げる。
「私も改めてここに誓う。父上、母上、歴代の御方々……貴方がたが築いてきたものを決して汚すことのないよう『北辰王』に相応しくあること。世界の理を守り、半身たる『加護女』を守り……そして一人の人間として『越前リョーマ』という得がたい伴侶を守る。天地の神々と共に、どうぞ我らの行末、ご照覧あれ」
そう告げる手塚の横顔は、天の焔に照らされ美しく凛々しい。
誓約の儀の夜に誓ったように、新たな誓いを重ねて……この絆はさらに強くなるのだと思う。
リョーマは手塚の首に手を回し、逞しい肩に額を摺り寄せた。
手塚もリョーマの髪に鼻先を埋めるようにする。
「リョーマ」
「ん?」
「リョーマに、母上からの伝言がある」
「?国光のお母さんから?」
「あぁ……俺が母上のお姿を見た最後のとき……母上はもはや自らの力では起きあがることもできないほど弱ってらっしゃったが、俺に言葉を残された。母上が父上と出逢ったように、俺が愛し愛される『運命』と巡り会ったなら、そのときには……『よろしく』と伝えてくれと」
そのよろしくは、どんな『よろしく』なのだろう。
純然たる意味の『よろしく』なのか。
それとも息子である手塚を『よろしく』頼むと言う意味なのか。
ひょっとしたら全てひっくるめた全部なのか。
わからないけれど……リョーマの胸に、鈴鹿御前の言葉は確かに刻まれた。
いずれ手塚と出会う自分のために残してくれた、その言葉と気持ち。
絶対に忘れない。
(貴方の息子さんを幸せにできるように、俺、頑張るから)
しがみつく力を強めると、耳元に降りてきた恋人の唇が、今はまだリョーマには言えない愛の言葉を囁く。
「……うん、俺も、大好きだよ」
胸の奥に抱いた宝物のような気持ちを告げた唇に、そっと触れてくるぬくもり。
いずれ自分たちも世界に還す天の焔の前で、優しいキスをかわしながら、リョーマは己の心に刻み付けたものをいつまでも噛み締めていた。
終幕・八章に続く
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