作品
八章 楓錦月・壱
星辰の間。
かつて一度だけ足を踏み入れたそこは、あの時と同じく天にも星、足元にも星。
濃密な夜の気配が立ち込める幻想的な空間がそこにはあった。
あの時と違うのは、リョーマはただ一人でこの場所にいる。
一人きりで、天より定められた儀式に臨むのだ。
北辰王の半身として。
水面の如くゆらゆらと揺れる床に映る、巨大な満月。
一人で、と言うのは心細くもあったけれど、リョーマは凛と顔を上げて蒼銀の光揺らめく満月の元へと向かった。
翡翠の環佩(おびだま)が触れ合い、きらきらと音を立てる。
漣立つ満月の中央へと膝を着き、リョーマはそのときを待った。
見上げた先。
手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じる、巨大な満月。
それが天頂に差し掛かったとき……端から徐々に欠けていく。
月蝕。
天領において、年に一度だけ新月期以外に月が夜空から姿を消す日。
それを『王母の蝕』という。
それは秋の中に徐々に冬の到来を感じ始める、楓錦月の月満ちる日と定められていた。
姿を消した月とは即ち、西王母。
本来地上世界に交わらぬ存在である女神が降臨する日なのだ。
女神は、地上に降り立ち、己が加護を与える万物の愛し子と邂逅し……そして啓示を与える。
リョーマの視界の中で、月は次第に欠けていく。
そして光の砂、とでも言うべきものが身体に降り注いだ。
完全に月が上空から消え失せて。
けれども、床には今だ月が完全なる真円を描いたまま、そこに在った。
蒼く密やかな光を放ちながら。
光の砂はその蒼い光を反射して……やがて、一人の女の姿を形作る。
若くて綺麗な女だった。
あちらにいたころ、時代劇で見たことのある、遊女……花魁のような衣装を身につけている。
金や鼈甲の櫛や簪を差した黒く艶やかな長い髪。
ほっそりした面。
筆でさっと書いたような整った柳眉に、すっと通った鼻筋。
桃紅色の唇は、ぽってりとした花弁のよう。
伏せた瞼……長い睫毛から覗くのは……あかい……赫い瞳。
(……鬼の、瞳……)
美しいその女は、瞳の色だけ見れば鬼に違いなく。
けれども、その姿……顔を見たとき、沸きあがる既視感が確かにあって。
「……ひょっとして……鈴鹿、御前……?」
似ているのだ。
面立ちが、手塚に。
(だって周助言ってた、国光は、お母さん似だって)
でも……今日、この場に姿を見せるのは、西王母のはず……
混乱しかけたリョーマの耳に、静かな声が届く。
『確かにこの姿は、先代の加護女のもの』
抑揚は感じないのに、その声は慈愛に満ちていた。
眼差しは普遍的で、何を求めることのない深く大きな愛を感じさせる。
目の前にいるその女の姿は、陽炎のように揺らめき向こう側が透けて見える……とても頼りないものなのに。
存在だけで全てを包み込むような寛大さ。
「……西王母?」
『そうです。わが加護を受けし万物の乙女よ。我ら神と呼ばれし者は、この地上においては形を持つことが出来ぬ故に、かつて在りし者の姿を借り受けるのです』
にこりと微笑んだ顔は、やはり手塚に似ていた。
はたっと気付いてリョーマは慌てて、その場に叩頭する。
見惚れていてどうするのだ。
目の前にいるのは、天地を生み出した二柱の神の片割れ。
神格も最高位の存在。
非礼があってはならない。
加護女としてここにある以上、半身である北辰王に顔向けできぬような真似はしてはならないのだから。
(…………でも)
ちらっと、鈴鹿御前の姿を借りた西王母の姿を見やる。
本当に似ている。
男女の違いはあるものの、凛とした美しさを手塚は確かに母親から受け継いだのだろう。
(……本当に綺麗な人だったんだな……国光のお母さんって)
ほのかに熱くなる頬を押さえられない。
リョーマの耳に涼やかな笑い声が届いた。
『北辰王を好いているのですね』
「…………」
リョーマの考えていることなどお見通しだといわんばかりの女神の言葉に、さらに紅くなってしまう。
『それで良いのです。誰かを愛することの出来ぬものに、世界を愛することが出来ようはずがありません』
なぜならば、世界の意味とはそこにあるのだから……と王母は言った。
『その気持ちを大切に育みなさい。それこそが、私が貴方に望むことです』
西王母の笑みを見ていると、教会で見た聖母マリア像を思い出す。
そして母親の姿を。
(……母さん……)
天領と言う世界の母とも言える女神を前に、ふとよぎる郷愁。
あちらの世界にいる家族への思慕。
普段は心の奥にあるそれが急速に膨らんできて、奥歯を噛み締めた。
たおやかな手がそっと伸びて、リョーマの俯いた頬を慰憮する。
実体ではないはずなのに、女神の手は暖かかった。
『私に何か聞きたいことはありませんか?異界より招かれし加護女よ』
その質問に、思わず顔を上げる。
聞きたいこと。
世界の柱たる女神。
絶大な力を持つ存在。
自分を加護女として選び、この世界へと召喚したかもしれない……聞きたいことは、あった。
誰も答えを持たなかったこと。
万が一それを気にしていることを知っても、誰も自分のことを咎めたりはしないだろうけど、困らせることはわかっていたから口にしなかった。
いつしかそのことが気にならないくらい、この世界で過ごす日々が楽しく大切になっていったけれど、リョーマの中から消え去ったわけではない。
「…………あっちは、今どうなってるんですか?親父や母さんは……それに、俺のことはどんな風に扱われてるのか知りたいです……」
王母は手塚によく似た鈴鹿御前の姿を借りて、優しい表情を浮かべる。
『こことは異なる世界ゆえ、はっきりとしたことは私にも見通すことは出来ません。ですが貴方のことは……本来交わらぬ世界が交わった影響なのか反動なのか……どうやら貴方と言う存在そのものが、初めから消失してしまったようです』
「……じゃあ、俺がいなくなったことで、誰も悲しんだりしてない?」
それは寂しいような気がしたけど、気がかりが一つ減って何とはなしにほっとした。
『そうですね……ですが、貴方があの世界で過ごした時間は確かありました。ご両親や貴方に関わりを持っていた方々の中には、見知らぬ喪失感を感じることもありましょう』
「そっか……でも、良かった。いつまでも悲しみに捕らわれてる親父たちじゃないけど、それだけが気がかりだったんだ」
自分は幸せだ。
初めは見知らぬ世界だったこの場所を、今ではここが自分の居場所なのだと言えるようになった。
みんなに大切にしてもらって、手塚が愛してくれて。
でも自分だけが幸せで、あちらの世界の大切な人たちが悲しんでいるのはやっぱりいやなのだ。
『良かったと、貴方は言うのですね……もとの世界が恋しくはないのですか?』
「……国光やみんなもそんな風に言ってくれたけど……俺、もとの世界に戻りたいとは思いません。懐かしいのは当たり前だし、そう思うことを止めようとは思わないけど……今は国光の傍にいたい。国光の加護女でありたいから」
その言葉に嘘はない。
諦めじゃなくて、リョーマ自身の断固たる意思。
『……そうですか。貴方は本当に、北辰王を好いているのですね』
染み入るような声音に、頬を火照らせながらも小さく、はっきりと頷いた。
「……もう一つ、聞きたいことあるんです。いいですか……」
『私で答えられることなら』
「あの……どうして俺が加護女なんですか?俺、この世界の人間じゃないし……貴方と天帝が、俺をこの世界に召喚したんですか?」
それもずっとリョーマの中で燻っていた疑問だった。
手塚と出会えたことには感謝している。
いくら感謝しても、足りないほどに。
けれどそれとは別に、『どうして、自分なのか』という疑問は消すことが出来なくて。
西王母は、不思議な微笑を浮かべた。
『北辰王の心に、貴方の心が応えた……その結果です。世界を越えるほどに喚び合う心に、私と玉公が力を貸したに過ぎません』
一つの世界の柱たる神であっても、界と界を越えて存在を召喚するには、相応の年月がかかったのだと。
女神の言葉に、リョーマはさらに首を傾げる。
納得できたような、けれどそれはリョーマが思っていた答えとは違うような……
その仕種に、王母は鈴を転がすような声で笑った。
『貴方たちの想いがまずあってこそなのだと理解なさい。北辰王が北辰王であるからこそ、貴方が貴方であるからこそ、今を導いたのです』
「俺たちじゃなければ意味がなかった、ってこと……ですか?」
言葉はなく、至高の女神はおっとりと頷く。
『そのように受け取っても構いません』
世界のためだとか、なにか理由があって選ばれたのだとか、そう言ったことは一切関係なくて。
ただ手塚だから。
ただリョーマだから。
自分たちが漠然と理解していた通りでいいのだと、王母は言うのだろうか。
女神に太鼓判を押されたような気になって、リョーマは今まで胸の奥にしこりのようになっていた疑問を全て何もかも捨てることにする。
大切なことは何か、すでに知っているのだから。
いつものように勝気な眼差しで西王母を見上げると、彼女は満足げに微笑んだ。
『貴方のその強さはきっと、何にも手折られることはないでしょう。二人でいることの意味をちゃんと分かっているようです。なればこそ、私も安心して道を示せると言うもの』
「……道」
王母の蝕、この星辰の間で行われる女神との謁見は、来るべき未来への啓示を示すものなのだと……リョーマは思い出す。
確定未来では、もちろんない。
いかなる優れた占師でも、また先見の力を持つ者にも、完全なる未来を予測することなどできはしないのだから。
それは至高の女神であっても同じこと。
時流を操り、人の世を意のままにする力を持っていたとしても、天地の神々がそうしないのは……人の世の歴史を紡ぐのは、人でなければならないと、そう思っているからなのだ。
けれど天地双神にとって、この世界はまさに子供と言えるもの。
親の情として、子の行末が気になるのは、当たり前なのだろう。
それゆえの降臨。
それゆえの啓示。
これより先の道標たらんと、ささやかな予感を齎すのだ。
『…………風が吹く、予感がするのです。冷たく尖った風が……風は嵐になるかもしれません。貴方と貴方の大切に想うものたちは、その風に立ち向かわなくてはならないでしょう』
冷たく尖った、風。
リョーマの脳裏に思い浮かんだもの。
「…………鬼」
ひやりと、全身をかける震え。
手塚と引き離され、呪檻に捕らわれていたときのあの感覚を思い出す。
そして、不二と菊丸と、二人から流れた血が。
自分を攫った仮面の鬼は、明らかに手塚への憎悪を持っていた。
誰もが、あれで終わったとは思っていない。
また何かしかけてくるかもしれないと、危惧している。
怖くないと言えば嘘だ。
でも。
「無風状態のままなんて思わない。風はいつだって吹いてるものだ。それに俺は一人じゃないから……信じてる。嵐の後は、信じられないくらいいい天気なんだってこと」
自分に言い聞かせるように、リョーマは呟く。
左手薬指の指輪に、そっと触れると伝わってくる手塚の『気』。
そして自分の中に感じる、彼の存在が。
大丈夫、力になるから。
「大丈夫です。一人じゃないから」
きっぱりと、リョーマは女神の目を真っ直ぐに見て言った。
神なるものの瞳。
天狼星神の視線を受けとめたときも思った。
なんと雄大な力と光を、宿しているのだろう。
時に恐れさえ感じさせるほどの、深い愛と共に。
けれどリョーマは臆さない。
西王母は限りない慈しみを込めて首肯する。
『確かに息衝く絆を信じていなさい。道が拓くことを疑ってはなりません。貴方が貴方であるように、世界と存在はあるのです。貴方の選んだ道が、温かく光溢れているよう、高き処より見守っていましょう』
薄れていく女神の気配。
空を仰ぐと、月が再び満ちていく様が映る。
蝕が終わるのだ。
『いずれまた時が巡るまで……我が愛し子よ、汝の幸いなるを』
静かな。
静かな余韻。
愛しい人の母を写した女神の姿は掻き消えて。
幾重にも、幾重にも重なる鈴の音が、心に響いた。
続
タグ:[比翼連理]