作品
八章 楓錦月・弐
ざりざりざり。
濡れた温かいものに頬を撫でられて、リョーマは瞼を押し上げた。
「わっ」
飛び込んできたのは、耳が兎のように長い猫の顔。
「……真珠」
くるるるる、と小鳥のような鳴き声に、先ほど自分を起こした感触は、雷獣が頬を舐めていたものなのだと思い至った。
「おはよ……真珠」
手塚に貰ったときは、掌に乗るほどだったのに、今では柴犬の成犬ほどの大きさになった真珠の喉を掻いてやりながら、リョーマはベッドの上に身を起こした。
甘える雷獣を抱き締める。
余韻を探るように、リョーマは軽く瞼を閉じた。
夢を見ていた。
やけにリアルだったのは、昨夜のことだからだろうか。
『王母の蝕』のためこもっていた星彩の塔から出てきたのは、月が大きく傾いている頃だった。
塔から出て、手塚が待っていてくれたのは覚えている。
でも、そこから先を覚えていない。
抱き留めてくれた胸と腕。
女神との謁見を終えたときには、すでに夢見心地で。
どうやらそのまま眠ってしまい、ついでに昨夜のことを夢に見てしまったらしい。
「お目覚めですか、リョーマ様」
「透理」
衝立の陰から、式神が姿を現す。
「あのさ……今どれくらいなのかな。なんか随分日が高い気がするんだけど」
天窓を仰ぎながらそう問うと、透理は柔らかく微笑んだ。
「お昼過ぎです。あまりにぐっすりお休みになっていたので、そのまま寝かせるようにと、主上が」
「そっか……心配させちゃったかな」
「えぇ……ご心配だったようですよ。今も執務の途中で抜け出してきてらっしゃいますから」
にっこりおっとりと式神が言うのに、リョーマは目を丸くする。
「ええっ……じゃあ、国光、今ここにいるの?」
寝巻きなのに、とか。
顔洗わなきゃ、とか。
無意味に慌て始めたリョーマに式神が頷く前に、衝立の向こうから咳払いが聞こえた。
「……く、国光?」
「……あぁ……顔を身に来たら、ちょうど目が覚めたようだと透理が言うのでな……その、そちらに行ってもいいだろうか?」
許可を求める声はどこか照れた感じで。
さすがに寝起き直後に許しもなく立ち入るのは憚られるらしい。
「ちょっ……ちょっと待って」
執務中を抜けてきたと言うのだから、そんなに待たせられないけれど、せめて最低限の身支度は整えさせて欲しいと。
ばたばたしているのはリョーマだけ。
式神はてきぱきと水を張った盥を差し出し、ところどころ跳ねた髪を櫛で撫で付け、寝乱れた夜着を直してくれた。
「ありがと」
「いいえ……おなかは空いてらっしゃいませんか?」
「んー、空いてる」
「わかりました。では、河村様に食事のお願いをしてまいります」
手塚がいるはずの衝立の向こうに律儀に一礼して、透理の姿は掻き消える。
「いいよ、国光」
声をかけると、年上の恋人が心配そうな顔を覗かせた。
「大丈夫か?」
「平気だよ。別に病気って訳じゃなくて、本当に眠かっただけみたいだから」
「ならいいが」
心配なのか、長くて綺麗な指が優しく髪を梳いてくれる。
羨ましそうに真珠がそれを眺めているけれど、手塚にこうしてもらうのはリョーマだけの特権だ。
気持ち良くて目を閉じた。
「……王母とはお会いできたか?」
「ん…………国光、国光のお母さんって、本当に綺麗な人だったんだね」
「そうか……王母は母上の姿を写されたか」
「うん……天帝はどんな姿を借りて国光の前に現れるの?」
閉じていた瞼を開けて、眼差しとともに問いかける。
『王母の蝕』と対を成す、『天帝の蝕』。
年に一度、梅信月の月満ちる日の真昼に起こる日蝕。
リョーマが星辰の間に篭ったように、太陽が隠れている間、北辰王ただ一人で同じように天帝と謁見する儀式だ。
「……父上だ」
やっぱり。
なんとなくそう思っていたから、リョーマは小さく笑った。
天帝と西王母。
北辰王と加護女とは、すなわちその写し身なのだろう。
「それで、リョーマ……王母はなんと?」
あちらの世界のことを話した。
どうして自分が『加護女』なのかも聞いた。
でもそれは、今話すべきことではないような気がする。
納得はしたけれど、うまく言葉に出来る自信もないし。
それはたぶん時が足りてないと言うことなのだと思う。
しかるべき時になれば、自分の言葉でちゃんと伝えることが出来るだろう。
大切なことは、ちゃんと分かっているのだから。
(……でもこれだけは言っておかなくちゃ……)
それを口にするには、多少勇気がいったが、意を決して。
「あのね……西王母はこう言ってた……『風が吹く予感がする。冷たく尖った風が』って」
手塚の眉間に、きりりと深い皺が刻まれる。
風……それが意味するものを悟ったからに他ならない。
優しく髪を梳いていた指が、強くリョーマの手を握った。
「俺と俺の大切に想う人たちは、その風に立ち向かわなければいけないのだって」
言いながら、大好きな人の手に自分の掌を重ねる。
「風は、嵐になるかもしれないって……でもね、きっと大丈夫だよ。国光がいるし、みんなもいるし、俺も頑張るから」
ひょっとしたら手塚はまた、己の血と向き合わなければならないかもしれない。
でも、きっと負けない。
そう信じてるから。
強張る指先を包み込み、心からの笑みを向けると、恋人の表情も和らいだ。
「あぁ、そうだな。今度は決して、奪わせない」
力強く言ってくれるその姿が頼もしくて、リョーマは膝の上から真珠が転がり落ちるのも構わずに手塚に抱きついた。
くるぅぅぅと、不満そうな声も気にせず、自らが猫のように擦り寄った。
「うんっ。絶対大丈夫だよね!」
世界で一番落ちつく場所に全身を預け、抱き締められて心から安心する。
そっと頤が掬い取られ、唇が触れ合おうとした、まさにその刹那。
まるで図っていたとしか想えないタイミングで、衝立の向こうから声がかかった。
「二人っきりのところ悪いんだけど、食事持ってきたよ。それから、手塚、大石たちがいいかげん戻ってくれないと困るって言ってた」
不二ののんびりした声に、ぱっと身を離して、手塚は咳払いするし、リョーマはおおいに赤面する羽目になる。
名残惜しく思いながらも、そそくさと手塚が立ち上がった。
「分かった、すぐに行く……じゃあ、リョーマ……またな」
キスの代わりに、すっと指先で唇を辿ってから、手塚は本来の職務に戻って行った。
この埋め合わせは、仕事が終わってからしてもらおうと、転がり落とされたことでご機嫌斜めになった真珠を抱きなおす。
「リョーマくん、おはよう」
「にゃはは、邪魔しちゃったかな?」
わかってるくせにそんな風に言う二人に、リョーマは『知らない』とそっぽを向いたのだけれど。
不二と菊丸は、笑いながら着替えておいでと言う。
どうやら、リョーマが目覚めるまで二人ともお昼ご飯を先延ばしにしてくれていたようで。
赤い顔をやり過ごしながら着替えて、不二と菊丸に改めて挨拶する。
戻ってきた日常。
いつもと変わらない、穏やかな時間。
でも。
西王母が伝えた啓示。
不安がないわけではない。
風が吹く、とは言ったけど、それによって本当は何が齎されるかわからないのだから。
「どした、おちび?」
「まだ、眠いのかな?西王母に謁見するってことで、気、張り詰めすぎちゃった?」
ふたりが、ちょっと心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫だよ」
そう、大丈夫。
大丈夫だ。
たとえ嵐になっても、その後はからりと快晴に決まってるんだから。
手塚にも話したことを、食事の後に二人にも話そうと思った。
あとで手塚からも聞くかもしれないけど、自分からも言っておきたい。
だって。
風に立ち向かうのは一人じゃない。
自分と、手塚と、そしてみんなと。
だからリョーマは、すっかり不安の払拭された顔で、勝気に微笑んだのだった。
終幕・九章に続く
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