作品
九章 柊雪月・弐
房内に、緩やかな旋律が響く。
たどたどしくはあったが、素直な音色は聴く者に心地よい印象を与えた。
最も奏者は、弾くことに必死で、自分がどんな音を奏でているか……と言うことには気付いていない。
最後の音を爪弾いた、その音の余韻と共に小さな唇から深々と溜息が零れ落ちた。
奏者……リョーマの全身から、ようやく力が抜ける。
「俺、間違えなかった……よね?」
恐る恐る問いかける。
すると、傍らで聴いていた不二や菊丸は優しく微笑んだ。
「大丈夫にゃ」
「うん、危なげなく弾いていたよ」
太鼓判をもらえて、リョーマもほっとする。
何しろ、楽器に触れた経験はないに等しい。
学校の音楽の授業で、ハーモニカやピアノを使ったことはあるけれど、それとこれとはまったく別だ。
こちらに来て、加護女として公的な場での礼儀作法から、最低限の教養に至るまで学ぶべきことは本当にたくさんあって、中には初めて触れる分野も多い。
舞の練習などもそうだったけれど、それはもともと身体を動かすのが好きだったから大して苦にはならなかった。
この世界や天領国の歴史、法律、政の制度などを学ぶのも興味深くて面白い。
力の使い方はもちろん、法術についても知っていて損にはならないので真面目に耳を傾ける。
だがしかし。
やっぱり、苦手なものはあるわけで。
リョーマにとってのそれは、楽器を奏でるための授業であり、読み書きを練習する授業なのである。
音楽を聴くことは好きだが、実際自分で奏でるとなると話は違ってくる。
加護女として必要でなければ、絶対にやらなかったと思う。
読み書きが苦手なのは、こちらの文字はすべて漢字……文章は漢文であることと、筆記具が筆であるということが理由だ。
文章自体は読める……というか、内容が頭に入ってくるので問題はないが、やはりそれだけではいけないだろうと、こちらの言葉の読み書きも勉強することになった。
アメリカで育ったリョーマには、苦行に近いといってもいい。
日本語も堪能だったが、それは会話分野においてであり、早口で喋られると聞き取れなかったり、意味がわからない言葉も多数あったし、それが読み書きともなると小学校の低学年レベルで、日本に帰る前にやはり日本語の読み書きの勉強をしていたのだから。
ネイティヴな言語は英語。
二十六文字の組み合わせだ。
けれど、漢文といえば膨大な量の漢字の羅列であり、文法に規則性はあるものの、難解だし文字の一つ一つに意味があるものだからそれを覚えるだけでも大変なのである。
それに筆というのも曲者で、シャープペンやボールペンなどしか扱ったことのない手にはなかなか馴染まなかった。
墨のすり方一つとっても、濃淡の調節が上手くいかず、最近になってようやく慣れてきて、文字を滲ませない濃度を身体が覚えてきたところだ。
こちらのほうの上達は亀の歩みで、相変わらずミミズが這ったような字しか書けず、辛うじて自分の名前やみんなの名前だけは判別可能な文字で書ける程度。
先は長いと言える。
手塚が……誰よりも大好きな人がいるから、頑張れることだ。
みんなが褒めてくれるのも嬉しいけれど、恋人に褒めてもらうのが一番嬉しい。
(はぁ……ほんとに、恋愛の力って偉大なんだな……)
我がことながら、つくづく実感して、内心苦笑した。
でなければ、いくら負けず嫌いでもこんなに頑張ろうという気にはならないと思うのだ。
もっとも、楽器を扱うことに関しては、人並みの音感などを備えていたことと、音楽の教師である菊丸が、初心者向けの楽器を選んでくれたことも幸いしていたのだろうけれど。
菊丸が選んでくれたのは月波琴という楽器で、ファンタジー小説で読んだ吟遊詩人が持っているような半月形の竪琴だった。
大きさは、月弓琴より二周りほど小さく、膝の上に置き、肩で支えるようにして弾くものである。
笛や胡弓などと違い爪弾けば簡単に音が出るので、さほど難しくはない。
こちらには故郷のような楽譜はないため、とにかく身体に叩き込む……というやり方をして数ヶ月、何とか『音楽』と言えるものを奏でられるようになった。
「手塚にも大丈夫だって言われたんでしょう?」
不二が穏やかな物言いでそう問うて来るのに、リョーマは恥ずかしげに頷く。
柊雪月に入ってから、毎日夕餉の後に、一日の練習のおさらいを聞いてもらっているのだ。
年上の恋人は、真剣にリョーマの奏でる拙い旋律に聞き入り、その都度感想を言ってくれて、励ましてくれる。
「ま、あと二十日以上あるしね、なんにせよ、天地に捧げる音色にゃ、技術よりも心が大事。おちびがどんな心で弦を爪弾くか……音楽は正直だぞ」
「ん」
生み出される音は、心の音色だと……それは、菊丸が当初からリョーマに言い聞かせていたこと。
加護女の証たる、天鈴の音色がそうであるように。
時に言葉や態度よりも赤裸々に、奏者の心を、感情を顕すものなのだと彼はなんども繰り返した。
「よしよし。おちびは出来がいい弟子で、俺も嬉しいにゃ」
「本当?」
「うそなんていってどーする。こういう風に教えるのっておちびが初めてじゃにゃいけど、教えたことを素直に吸収するから、俺としては教えやすかったよん?」
「そうだね。僕もそう思うよ。僕は物を人に教えるのは初めてだったけど、それでもやりづらいと思ったことはないな」
菊丸の言葉に、不二も同意する。
「俺が教えたことのあるやつは、妓楼の新入りになんかなんだけど、妙におどおどしているか、下手に容色に自信があるから矜持が高くて人の言うこと素直に受け取れないのが多くてなー。あの業界は、優雅に見えてもえげつない競争社会なもんだから、けっこう殺伐としてて教育係になんかなった日にゃ、憂鬱と仲良し毎日だよ」
と、菊丸は苦笑する。
決して楽しい日々だったわけではないのに、それを明るく屈託なく話す菊丸は、本当に強い人だと思う。
だから……今も時折、彼の胸を刺す過去という名の棘が、やわらかく優しいものに変わればいいのに、と菊丸の口から過去の話が出る度にリョーマはそう思わずにいられなかった。
「おちび、どした?」
僅かに押し黙ってしまった自分を訝しんで、菊丸が顔を覗き込んでくるのに、笑顔を見せる。
「なんでもないよ」
過去なんて関係ない、とは言わない。
過去があったから、今の菊丸がいるって、知ってるから。
リョーマに出来るのは、それがどんなものであれ否定しないこと。
それに菊丸なら、その柔軟な心で、いつか乗り越えるはず。
信じているから、リョーマはあえて別の話題を振ることにする。
ふと視線があった不二は、おっとりと微笑を浮かべた。
多分、彼女には自分の考えていることなどお見通しに違いない。
「あのさ、俺気になってることがあったんだけど」
「気になってること?」
「いったいなんにゃ?」
「天地拝って、大晦日から元旦にかけてでしょ?満月期じゃないじゃない?俺って、どんな格好するの?」
普通に女性の加護女なら、いつものように裳衣なのだろうけれど……
リョーマは、半陽で、天地拝の頃といえば新月期だから、男性体なのである。
これまでの儀式や行事は女性化している満月期だから、気にしたこともなかったのだが。
「そういえばそうにゃ」
「まさか、女装するの?」
首を傾げた菊丸に、更なる疑問を口にした。
まだ子供の体格なので、男の身体に女物を着ても無理はないとは思うのだが……
「まさか」
リョーマの質問が可笑しかったのか、不二はくすくす笑って、肩を震わせ否定する。
「これまでにも、半陽が加護女であった例は、いくつもある。乾がちゃんと調べてたから、確かなことだけど天地拝に半陽の加護女が、裳衣を着て臨んだって言う記述はないよ。式典用に誂えた袍を着用したということで君もそうなるね。多分手塚がちゃんと手配してるはずさ。だいたい北辰王も、この儀式に鎧甲は着用しない。楽を奏でるのには、不向きな格好だから、手塚も式典用の袍だよ。まぁ、手塚が着るのは、龍袍(りゅうほう)といって、王しか身に付けられないものなんだけどね」
龍、という言葉からおおよその見当が付いた。
おそらく手塚の纏う袍には、五本爪の竜の刺繍が施されているのだろう。
竜という神種の中にも位があって、その中の最高位……竜王、あるいは竜帝と呼ばれる竜の爪は五本。
五行になぞらえ、東西南北の四海を統べる四海竜王。そして中央に座するは、竜帝・黄竜。
至高の竜を意匠にこらして、仕立てた衣服を身に付けることができるのは、一国の国主のみ。
(…………きっと、すっごくかっこいいんだろうなぁ)
リョーマの恋人は、美丈夫と言う言葉がぴったりの人だから。
「おいおい、おちび。想像だけで紅くなるなよ」
からかい混じりに菊丸にそう言われて、リョーマは己の頬が更に熱を持ったのを自覚する。
そして効果なんてほとんどないことは知りつつも、軽く睨みつけて……
「うるさいなぁっ。悪い?」
そう抗議ともいえぬ抗議をした。
「悪くなんてないよ。可愛いなぁって思うだけ」
「そうそう。初々しくってさ。おちびは本当に手塚には勿体無い可愛い、いい子だにゃ」
ねえ、と頷きあって、笑い合う……二人に悪気がないのはわかっている。
二人は、ただ、リョーマが照れているのを楽しんでいるだけなのだ、ということは。
むうっと、剥れたのが可笑しかったのだろう。
不二と菊丸の笑みは深くなるばかりだ。
「ほら、いつまでも剥れてないの。お昼御飯の前に、もう一回おさらいにゃ」
ぷに、と菊丸の指先がリョーマの頬を優しくつつく。
こんな風に親しげなスキンシップをされると、いつまでも怒った顔が出来なくて……
きっとわかってやってるんだと思うけど。
(……憎めない、んだよね……)
はあ、と一つ溜息をついてから。
リョーマは、月波琴を抱え直したのだった。
続
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