作品
九章 柊雪月・参
堂内は、静寂と闇とに満ちていた。
ここは天の領域。
星彩の塔の最下層である星見の間には、地下であるにも関わらず清々しい神気に包まれている。
ここで星占を行うのは、北辰王直属の宮廷法術士に任じられた者の定め。
不二にとってはすでに日課となって久しい。
堂の中央には、月の光を映した水を湛えた水鏡。
器も、そこに張られた水も、初代が天より賜った神器だった。
不二は水鏡にそっと手を伸ばす。
深遠とも思える闇の中に在って、水鏡と、己の存在は和えかな光を放っていて、迷うことはない。
そうして水面を軽く弾いた。
すると水は、満天の夜空を映し出し、不二に未来の予兆を見せるのだ。
もちろんそれは、確定された未来ではない。
予兆はあくまでも予兆。
起こるべき未来の、いくつもの可能性の断片に過ぎない。
未来への道筋はいくつも存在していて、数ある可能性の中でも、最も高いものが、この水鏡を通して不二の常人にはない感覚に訴えてくる。
水に映る星々の輝き。
「斗(ひきつ)、牛(いなみ)、女(うるき)、虚(とみて)……玄武の七宿(しちしゅく)」
星の並びから言って、北天の夜空のようだ。
そして中天……天極には、不動の星と、それを巡る七曜。
北極星と、北斗七星。
何を意味しているかなど、明白だった。
「……神の力宿りし水よ、我に星の行く末を示せ」
常にはない張り詰めた声音。
その声と、不二の法力に呼応するかのように、水鏡には波紋が広がっていく。
「……これは……」
星はいつもと変わりないかのようであった。
けれど不二の目には、確かに『視』えた。
水面に映った星は、微かに……本当に微かにだけれど靄がかかっているようで……
一瞬だけれど、天に不動、唯一無二の北極星が二重にぶれたように見える。
星がぶれるなどありえない。
ましてや、不動であるべき北極星だ。
だとするならば、ぶれたように見えた、ありえない星……ということになる。
「妖霊の星……西王母が、リョーマくんに与えた啓示。風の吹くときは近いという証だろうか」
妖霊の星とは、すなわち凶兆。
柳眉を寄せ、口元に手をやって不二は溜息をついた。
優しげな面が、憂いに曇る。
「だとしても、危害なんて絶対加えさせやしないよ」
淡青色の瞳には、強い意志。
自分のことを見守り続けてくれた義兄(あに)と、家族と慕ってくれる妹のような存在に、禍を齎さんとするものは不二にとっては敵である。
やっと……やっと、穏やかな刻を得たのだ。
自分も、そして不二の大切な者たちも、幸せに過ごせる時間を。
それを奪わせたりしない。
相手が誰だって。
『周助……あなたの力は、確かに人が持つにしては強すぎるものかもしれません。けれども決して、恐れてはならない。その『力』は、きっとあなたを守り、あなたの大切な者たちを守るものだと信じるのです。そうすればきっと、あなたの内に眠る力は、あなたが『必要』と感じたそのときに、応えてくれることでしょう』
かつて、自らの力を恐れ、異端なることを恨んでいた自分に優しく語り掛けてくれた声を思い出す。
「……鈴鹿様」
自分にこの力の意味と使い方を教えてくれた人。
そして、居場所をくれた人。
先代の北辰王も、そして幼かった義兄も、不二を新たな家族と迎え入れて、許容してくれたからこそ、今の自分がいる。
河村と出会えたことも……
「僕はあなたの教えてくださった幸福を、手塚とリョーマくんに必ずお返しいたします……そしてあなたが願ったように、みなで幸せな未来を迎える……」
いまわの際。
失われていく命を感じ、冷たくなっていく手を握り締め、ついには涙を堪えきれなくなった自分に鈴鹿御前が残した言葉。
ただ一人、看取ることを許された枕元で。
『あなたも……そして国光も……みなが幸せであることを、遥かな場所から祈っていますよ……』
はらはらと涙を零す自分に、紅い瞳は優しく笑いかけて。
溜息に紛らわせたのが、かの人の最期の言葉となった。
眠るように安らかに旅立っていった鈴鹿御前の顔は、今もまだ忘れていない。
大切な恋人にさえ、語れなかった辛い喪失の記憶。
思い出すことも辛かったそれを、ようやく痛みではなくほんの少しの郷愁を伴って思い出せるようになったのは……
(リョーマくんがやってきて、手塚が人間らしく、笑ってくれるようになったからだ)
一人の人間であることを、忘れようとしているかのような手塚の姿が不二には悲しかった。
天の意志、天命を全うするためだけの人形のようにはなってほしくない。
けれど、その願いを口にする余裕はあの頃の不二にもなかったのだ。
心の支えを失ったことで、精神の均衡を保っているだけ、手塚やみんなに余計な心配をかけないようにするだけで精一杯。
河村と出会い、彼と心を通わせるまでは。
そうして自身の心に平穏が訪れたときには、すでに義兄の心は頑ななほど『王』で在り続けようとしていて……
(有能な王に仕えることは喜びだけど……先代様たちも……そして僕たちも、手塚にそれだけの存在にはなってほしくなかったんだ)
でも。
リョーマという半身を得て、手塚は変わった。
否、そうではない。
変わったのではなく、取り戻したのだ……『王』となる前の、ただの手塚国光であった頃の自分を。
思い出すのは幼い頃の風景。
橘兄妹や桃城と、かくれんぼをして遊んだ。
だけど自分は、一人で隠れるのかいやだった。
だって、誰も見つけてくれなかったらどうしようって思えたから。
強すぎる力のせいで、師に虐待され、放り捨てられた記憶。
家族を傷つけるのが怖くて、温かいあの場所に帰ることも出来ない。
いつだって、また捨てられたらどうしようと……
不二は義兄の袖を握り締めて離せなかった。
(……あの時手塚は、何も言わないで僕の手をとって、一緒に隠れてくれたっけ……)
閉じていた心が、何とか開きかけていたときで。
手塚のその態度は嬉しかったのを今も覚えている。
だからこそ『王』になってからの手塚が悲しかった。
やっと得た幸福の時間を乱すものは許さない。
「それがどんな風でも、ね」
不二は水鏡に翳していた手を下ろすと、星占の結果を報告するために踵を返した。
水鏡に背を向けたとたん、景色が変わる。
星彩の塔の一階へと転移されたのだ。
堂の外に出たところで、不二は視界にあるものを認めて、苦笑した。
「こんなところで何してるんだい?」
「もちろん君を待ってたんじゃないか」
すでに日は暮れている。
徐々に満ち始めた、巨大な月。
その月明かりを背に立っている長身。
度のきつい眼鏡のせいで、表情が伺えない。
「いったい何のために待ってたのか、聞いてもいい?乾」
「今後のことで、法術師殿の意見を聞こうと思ってね」
「それなら部屋に来ればいいじゃないか」
「とんでもない。君と河村の時間を邪魔するほど野暮じゃないし、命知らずでもないよ」
言いながら、乾は肩を竦めた。
そうしてふと真面目な表情になる。
「星占に、凶兆が出たな」
やけにはっきり断言されて、不二は小さく笑った。
「うん。だからわざわざこんなところで待ってたんだね……でも、いい気はあまりしないなぁ。僕の『視』たものと、同調する誰かがいるって」
「それは俺のせいじゃないよ。それに別に日常的に見えているものが見えるわけじゃないからいいじゃないか。俺に『視』えるのは、不二が星見の水鏡に映した、星占の結果だけなんだから」
「そうだけどね」
「……仕方ないだろ?幸か不幸か、俺たちは『対』らしいからな」
七星神の依代。
乾に降りるのは、一の星・貪狼星(とんろうせい)。
不二に降りるのは、七の星・破軍星(はぐんせい)。
北斗七星、起点と終点の星は、剣の柄と切っ先にたとえられ、貪狼星は『陽気』を、破軍星は『陰気』を司る七星剣の要とされている。
陰陽は常に一対であることから、その星を降ろす私官も一対と言われていた。
それは形式上だけでなく、貪狼星と破軍星の私官は、一種の共有感覚というべきものを有しているためだ。
もっとも北辰王と加護女のそれとは全く別種のものである。
不二と乾の場合は、星占の結果を共視するというもので……確かにこればかりは、乾の言うように仕方ないといえば仕方ないことだった。
「ある意味便利なんだけどさ」
『対』と呼ばれる存在が、最愛の恋人でないことは、不本意極まりない。
やれやれと溜息をつく。
「それで……乾はどう見るわけ?」
「どうもこうも何かが起こるってことしかわかってない現状じゃあ、やれることは限られてる。ことが起こったとき、せいぜいあたふたしないように最善を尽くすだけだよ。手塚が言うところの、『油断』しないようにね」
「つまり、警戒を怠らないってこと?」
「そういうことだね。あとは自らの持てる力を鍛えておくことかな……頼まれてた、法術関係の古文書、河村に渡しといたから目を通しておくといいよ」
そう、風を防ぐ盾になり、嵐に立ち向かう剣であるためには更なる力が必要だ。
相手が鬼だというのなら、なおさらに……
そのために有効な術を開発するべく、最近は古文書などに目を通して模索しているところだ。
史官の家柄である乾の実家には、宮城にはない書物なども眠っているため、それを貸してもらえるよう頼んでいた。
「ありがとう」
「どういたしまして……まぁ、あれだな。我らが加護女の啓示を信じようじゃないか」
「……リョーマくんの?」
「そう、越前は言ってたろ?嵐の後には、必ず空は晴れるんだってね。全く、たいした子だよ。稀代の北辰王にふさわしい加護女だと、思わないか?」
確かに、あの子の言葉は自然と人を前向きにする。
生来の勝気さは、実に好ましいものだった。
「そうだね。あの子が言うなら、きっとそうなる」
手塚も、迷うことはないだろう。
あの子のためなら、誰より強くなる……そんな確信。
彼自身に流れる血も、決して妨げにはならない。
負けることもない。
そして自分たちは、そんな二人の剣であり、盾であるのだ。
「さて、それじゃあ、二人で手塚に星占の報告に行くかい?早くしないと、水晶宮に戻ってしまうだろうからね」
「君と二人、なんて全くもって不本意だけどね」
どうせなら、タカさんとがいいなと笑う。
「正直は美徳だが、ときとして失礼だぞ、不二」
そう言う乾も苦笑ではあるが笑っていて。
二人して肩を竦め、今後の方針をさらに話し合いながら、主のいる太極殿へと向かったのだった。
続
タグ:[比翼連理]