作品
間章・弐
耳に痛いほどの静寂。
あるいは、狂いそうなほどの享楽に満ちたざわめき。
何もない、何も生み出さない。
無ですらない空間。
次元と次元の狭間にたゆたう、混沌にその男の居城はあった。
ありとあらゆる全てのものから打ち捨てられた残骸のようなその場所。
美貌の青年は、朽ちかけた玉座に腰を下ろして瞠目していた。
彼こそがこの居城の主。
鬼の中の鬼……悪路王は、目を閉じてその旋律に耳を傾ける。
美しい音色だった。
透明で、慈しみに満ちた……そう、あまりにもこの空間には不似合いな音楽。
冷酷にして非情の存在であると言われる悪路王は、だがしかし……空間を突き抜けて響く音色には、素直な称賛の念を抱いていた。
彼の心の琴線に触れるものは少ない。
故にいつでも彼は退屈だった。
悪路王にとって、退屈を紛らわせることの何かは、それだけで称賛に値する。
人界では、今頃年が改まっている頃合だ。
胡弓と、月波琴。
二つの音色は、当代の北辰王と加護女の手によるものだろう。
もっとも、天と地のみならず、この混沌の空間にさえ、魂の音色を響かせる存在などそうはいないのだから、推測するまでもないことだが。
「見事なものだ。清しく美しい音色……だが、お前は気にいらねぇみたいだな」
くつくつと喉の奥で笑いながら、悪路王は瞼を開けた。
禍々しくも美しい赫い瞳。
鬼だけが持ちうる、血の色の瞳には愉快そうな光が浮かんでいる。
繊細でどこか中性的な美貌を彩る泣き黒子は、だがしかし、儚げな印象は与えずむしろ強かな感じがするもので……
揶揄するような眼差しは、眼前に浮かぶ球体に注がれていた。
それは闇の繭。
それとも闇の卵か。
暗く深い色をしたそれを慈しむように一瞥し、悪路王は哂う。
そうして玉座から腰を上げ、卵の傍まで足を進めた。
「……くく、そう急くなよ」
中で昏々と眠り続けている『彼』に語りかける。
「もう少しの辛抱だぜ。俺の血がお前に馴染むまで、あと少し我慢しろ」
よく頑張った、と美しい目を細めて、悪路王は邪悪な笑みを唇の端に上らせた。
絶世の、と言っても過言ではない美しい顔の持ち主……だが、その笑みを見たならば一目で彼が生きとし生けるすべてのものと相容れぬ存在であると、いかな鈍い人間でも気付くだろう。
本能的な怖れを抱かずにはいられないのに、誰しもが魅了される……そんな笑み。
「鬼の中の鬼と言われる俺の血を受けてなお、お前の中には『意思』がある。褒めてやるぜ。それほどまでに深い恨み……俺には心地好くすらある。それでこそ、俺が選んだ『駒』だ。目覚めの時を待て。そして俺を楽しませろ。北辰王と、奴を愛する加護女に積年の恨みをぶつけてやれ……」
楽しげに紡ぎ出される言の葉は、まるで呪詛の唄のように『彼』へと絡みつく。
「目覚めたとき、お前はこれまで以上の力を得ているだろう。それは、俺の血を受けたからじゃない。俺の血は、あくまでも媒介にすぎねぇからな。まぁ、それでも普通は狂うか死ぬかだけどよ……お前はそれを乗り越えた」
悪路王が示すのは、慈しみに似ていた。
惜しみなく注がれる無償の愛。
しかしそれは似ているだけで、決して慈愛のそれではない。
悪路王たる彼の中には、人とのような感情はそもそも存在しないのだ。
戯れとしての愛はあっても、それは人が語るそれではない。
鬼の愛は他者には決して理解しえぬものだから。
「お前の役目は俺のものになったときから決まってる。唯一つ、俺を楽しませればそれでいい。平穏のぬるま湯に浸かっているやつらに、混乱を……それこそが俺の退屈を紛らわせるのだから」
囁きかける、声は優しい。
卵の中が、どくんと胎動した。
応えるように。
「くく……いい子だ。目覚めのときはまもなくだ……それまでは、よく休め」
溜息のような声。
その声には毒がある。
すべての理性を蕩かせ、破滅へと向かわせる甘い甘い毒が。
「楽しみだ」
悪路王の口元には笑みが閃き。
呟いた声は、混沌の闇に吸い込まれていった。
終幕・十章に続く
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