作品
十章 松露月・伍
これは夢なのだろう。
ゆらりと意識が浮上していく感覚に、リョーマはそう確信していた。
だってこれは覚醒とは違う。
もう何度も経験したことのある感覚と同じだったから。
『夢見の夢』。
今では、それをもう、己の感覚としてちゃんと捉えることが出来た。
ならこれは、いつか来る未来の、その断片だろうか。
それとも誰かが辿った、過去の名残だろうか。
映る。
巨大な月。
天領の……夜。
誰かの目を通して、その光景が。
リョーマは今、視覚を使って見ているわけではない。
誰かが見ている光景を、ただ感じている。
(……あれ?)
芽生えた既視感。
どこかで見たことのある場所。
ここは……
(彩虹苑……だ)
月下香の花が咲いている。
乳白色の花弁に、月の光を弾いて。
甘く密やかな夜の香り。
その中で。
頬を濡れた感触が伝う。
涙。
実際はリョーマ自身が泣いているわけではないのだけれど……
潤む視界に、ほっそりとした指が見えた。
女の指だ。
自分が同調しているのは、女であるらしいことがそれで初めてわかった。
女は涙を零している。
嗚咽もなく。
肩を震わせるわけでもなく。
ただ溢れるがままに任せて、涙が頬を伝っているだけ。
それでも、伝わってくる。
彼女の胸の内に渦巻く哀しみ。
切なさ。
そして絶望と紙一重の、これは……
(罪悪感?)
女の指先が、そっと腹を撫でた。
(……あっ)
生命を宿して膨らんだ場所。
(この人、妊娠してるんだ)
臨月の胎。
その場所に、そっと優しく触れて、女はまた涙を零した。
(……なんで?何がそんなに悲しいの?どうしてそこまで思いつめてるの?)
妊娠していることが悲しいのだろうか。
だとしたら、それは……とてもとても哀しいことだ。
望まれていないなんで、悲しいし、寂しい。
そんな風に生まれてきた子供は、幸せになれるものだろうか?
でも、新しい命が息づいている部分に触れている指先は優しくて。
とても、身篭ったことを後悔しているようには思えない。
(……だったら、どうして?)
問いかけても答えが返るわけではない。
女は涙を流し、何かを悔い、何かに懺悔し、そして腹部を愛しげに撫でる。
『……私は……決断しなければならない』
女が言った。
耳で聞いたわけではない。
心に響いてきた声音は、鈴の音のように優しく母性の塊のようだった。
『そうでなければ、私は私の役目を放棄することになる』
けれどその決断は、身を切られるよりも辛い。
そんな思いがひしひしと伝わってくる。
あまりに痛くて、リョーマは心が千切れてしまいそうになった。
『もしも……アレが現実になったなら……それはまごうことなき凶。この世界を守護するものとして、それは見逃すことは出来ない』
世界を守護する……女。
(この人も、加護女?)
愕然とした。
加護女であるなら、胎に宿している子の父親は北辰王である可能性が高い。
なのに、それをなぜ思い悩むのか。
男でも、女でも……王の血を残すのは、祝福されるが当たり前で…………
『わかっているのに、私は惑う。愛しいあの方の子を授かり、それを忌まねばならぬなど……』
悔しい、と女は唇を噛む。
相手の男のことを彼女はどれだけ愛しているのだろう。
(……わかる……気がする……)
誰かを、好きな気持ち。
大切に想う気持ち。
それをリョーマも知っているから。
この胸に抱いているから。
(……もし俺が、国光の赤ちゃんを生むことが出来て……それでこんな悔しい思いを味合わなきゃいけないとしたら)
どんなに辛いことだろう。
彼女の辛さと、想像だけだけどリョーマが感じるとしたら、その辛さはまったく別のものだろうけど。
『許して、とは言いません。母がすることは、道に外れし非道そのもの……それが罪と、この身に、魂に刻んで生きる。死んで詫びるなど、私には許されぬこと。またそのような手段で逃げることも、出来ようはずがない』
慈しみを込めて、胎を撫でる。
指先に、伝わってくるのは……
とくん、とくんと……魂の波動。
(……えっ……これって……)
その魂の『気』をリョーマはよく知っていた。
かけがえのない、ただ一人。
リョーマの半身。
女が胎内で育む、その魂の持ち主は……
(じゃ、この女のひとって……鈴鹿、御前……なの?)
愕然とした。
あまりの衝撃に、同調していた心が、ぶれて……
(あっ……まだ、まだダメッ……)
もっと見たい。
いや、見なくてはならない。
これが、大好きな彼の過去に関わることならば。
女……鈴鹿御前の心から、乖離していくのを感じながら……
(…………?)
魂の波動もぶれる。
臨月の胎の内で、確かに。
その『気』はぶれたのではなく、二つ。
全く相反するものが、存在していることを感じたその刹那。
夢は唐突に、終わりを告げた。
「……っ」
覚醒は突然だった。
一瞬のことに、呼吸さえ忘れるほど……
慌てて息を吸い込んで、思わず咽た。
「リョーマ、大丈夫か?」
心の底から安堵させてくれる声に、我に返る。
「…………くに、みつ」
どうしたの、と唇だけで問いかけると年上の恋人は心配そうに、眉を寄せた。
そうして、そっと指先で輪郭を確かめるように触れてくる。
「透理に呼ばれた。お前が泣きながら魘されていると」
「泣き……?」
言われて気付く。
頬を涙が伝っていることに。
それから。
「まだ……夜、明けてないんだ」
満月期だから、灯りを消していても、室内は月光で薄明るい。
手塚は夜着の上に、軽く袍を羽織っただけで。
本来は起きる時間じゃないのに。
「ごめん、起こしちゃったんだね」
「謝ることじゃない。おまえが泣いていると言うのなら当然だ。俺の知らないところでおまえが泣くのは辛い」
くいっと、涙を拭ってくれる指先が嬉しくて、リョーマは小さく微笑んだ。
寝台の上に身を起こし、この世で一番安心できる恋人の胸に、頬を寄せる。
慰めるように抱きしめられて、深呼吸した。
「怖い夢でも見たか?それとも、元の世界の夢を見たのか……?」
ふるる、と首を横に振る。
「よく覚えてない」
覚醒した瞬間、どんな夢を見ていたのか、忘れてしまった。
ただ、とても悲しい夢だったような気がする。
悲しくて、辛くて……決して忘れてはいけない夢。
なのに、リョーマの中には、その夢の記憶はなくて、ただ名残のように頬を涙が伝っていた。
「でもね、元の世界の夢じゃないのは確かだよ」
それだけは言っておかねば。
懐かしく思う気持ちはあるけど、帰りたいと思っているわけじゃないこと、手塚がいまだ拘っていることを蒸し返させないために。
「だって、大きな月が見えた。元の世界の月じゃない。天領の月だ……それだけは、ぼんやりとだけど覚えてるから」
「……そうか」
「うん……どんな夢、見てたんだろ、俺。忘れちゃいけない夢だったような気がするのに……」
思い出せない、と力なく首を振ると、大きな手がそっと背中を叩く。
優しい仕種。
「無理に思い出す必要はない」
そしていつもより甘い硬質のテノールに慰められて。
やがてまた、とろとろと睡魔が訪れてくる。
「眠れ。まだ起床時間までだいぶある」
「うん……眠るまで、傍にいてね、国光」
「あぁ、傍にいる」
安心しろ、と囁かれて。
夢の名残にほんの少し胸の奥が痛むのを感じながら。
リョーマは、緩やかに意識を手放したのだった。
終幕・十一章に続く
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