作品
十一章 梅信月・壱
最初の記憶は、波に揺られるその振動だった。
それから、細波の音。
穏やかに揺られて……でも、それがすべての始まり。
生まれてまもなく、嬰児だった頃の記憶など、覚えている人間はいない。
覚えていたとしたらそれは、常人とは違うと言うことだ。
確かに自分は常人ではない。
異形の者だ。
全くの相反する血をこの身に受け、その上呪われている。
その呪いが顕れたからこそ、捨てられたのだ。
波に揺られる記憶はそのときのもの。
木枠の盥に乗せられて、自分は彼岸へと流された。
現世から常世に送り出すことで、呪いを回避しようとしたのだろう。
けれど、邪なる呪詛は、確かに働いたのだと思う。
なぜならば……辿りついた先は常世ではなく、呪いを施した者の待つ、混沌の城だった。
あの男の哄笑が、今も耳の奥に張り付いているようだ。
そうして……
名付けられることもなく、恐怖に打ち震える日々が幕を開けた。
妖魔を嗾けられては、必死に逃げる。
牙を埋め込まれ、蹴爪で肉を抉られても、死ぬことは出来ない。
この身に受け継いだ異形の血がそれを許さなかった。
強靭な生命力は、それが致命傷でも何度でも再生を繰り返したから。
首を刎ねるか、胴を断つか……さもなくば寿命の時が訪れるか、そうでなければお前は死ねない。
男はそう言った。
そう言って、更に弄った。
これは報いなのだと。
一族を裏切り、怨敵とも言える存在を愛した挙句、その男の子を生んだ。
かの巫女への報いなのだと。
『呪いは成就し、ゆえにお前はここに導かれた。あの女の血を引く、あの男の血を引く、それだけでお前には充分報いを受ける義務がある。お前の絶望、お前の苦悶は我への供物。それは我への糧となりて、やがて世界に悪意の種を蒔く』
男は……悪路王は、くつくつとのどを鳴らしながら、せつせつと語って聞かせた。
なぜ、それが自らの母から巡る因果であったとしても、自分が受けなければならないのか。
自分たちに間には、『血』しか繋がっていないと言うのに。
それ以外は何もないのに。
この身に悪路王の呪いが顕れた。
それだけで捨てられた。
世界に『凶』を……否、愛する男に……自分にとっては父に当たる……禍をもたらす存在として、切り捨てられたのだ。
強靭な生命力、再生を繰り返す肉体を持っていたとしても、痛みがなくなるわけではない。
むしろだからこそ性質が悪い。
苦痛は再生が終わるまで続く。
いっそのこと、死んでしまいたいほどに。
痛みは麻痺することがない。
だからと言って自ら死ぬことも出来なかった。
それをしたら、自分はどうなってしまうのか。
何もしないまま終わってしまう。
何も残さないで終わってしまう。
ただ、捨てられたと言う事実だけを残して。
玩具のようにいたぶられる毎日。
いつしか絶望することにも飽いた。
誰も助けには来ない。
自ら逃れることを、呪いと言う鎖が許さない。
哀怨は、屈辱と言う言葉に名を変えた。
せめてこれ以上、悪路王を喜ばせまいと……彼の者の糧にはなるまいと、閉ざした心。
その頃だった。
自分をいたぶることにも男が飽き、芽吹いた悪意の種を育てることに執心し始めて。
やがて男の気配は混沌からも消えた。
大きな力が魂と一緒に弾けて散ったのを、この身体に流れる半分の血が感じ取ったけれど。
もうどうでも良かった。
なにもかも。
呪いはいまだに、自分のことを縛り続け。
やがてそれに蝕まれて朽ちていく。
男の呪いは、最後まで自分を弄ぶのだ。
それすらも、もはや意識の外にあった。
『悔しくはないのか?』
甘く冷たい声が、耳を打って。
初めは自分に話しかけているとは思わなかった。
ここに流れ着いて以来、そんなことをする者はいなかったから。
誰かと会話することなんてなかった。
いつも一方的に、悪路王に蔑まれるだけ。
『俺の声が聞こえていないのか?』
つま先でつつかれて、そこでようやく自分に何か言っているのだと気づいて。
虚ろだった瞳に、彼が映った。
綺麗な男だった。
これまでそんな感慨を抱いたことのなかった自分の目に、初めて美醜と言うものを感じさせた。
挑発的なまでに整った美貌。
しなやかな肢体。
泣き黒子はどこか婀娜っぽく、彼の顔に凄艶さを加え、それでいてなお人形めいた印象を与えていた。
薄めの唇が、蠱惑的な笑みを刻んで。
『……だ、れ』
錆びて、乾いた声。
そもそもまともに話すことさえ出来ない自分の唇から、言葉が音声になったのはどれくらいぶりだろう。
美貌の青年の眼差しには、それだけの力があった。
禍々しいほど赫く輝く瞳。
人間のものではありえない。
自分にも半分流れている、その血を持つ者にしか発現しない瞳。
あんなに忌々しいと思っていたその色が、とても美しいと感じられた。
『俺?俺に名を聞くとはいい度胸だな。名とは力ある呪魂。力劣る者が、力ある者の名を呼べば、五体が砕けるか、さもなくば魂を虜とされる。あるいは名を知るだけでも、充分に効力があるかもしれないぞ?』
それでも、聞きたいか?
と、青年は笑った。
その笑みは、あの男がよく自分にしていたものと同種のものだったけれど、不思議と嫌悪も屈辱も沸かなかった。
こくりと小さく頷く仕種に、男は何が可笑しかったのか、今度はあざけりではなく楽しげに声を立てて笑って見せる。
『気に入った。いいか、望んだのはお前だ。後悔してもしらねぇからな』
彼は、ぐいっと顎を掴み、視線を合わせてきた。
血よりも紅く、闇よりも深く、いかなるものにも負けない輝きをもつ赫い瞳。
『俺は、跡部景吾。選ばれし、真の悪路王だ。俺の銘を好き勝手に名乗ってきた連中とは、一緒にすんなよ?』
彼の唇から、真名が紡ぎだされた瞬間。
今まで、自分を縛っていた呪いが、新たなそれに書き換えられたのを感じた。
『俺こそが鬼の中の鬼。享楽を愛する混沌の王。……お前の父親がついさっき死んだ。それはわかったろう?』
魅入られたようにのろのろと首肯する。
『お前に呪を掛けていた馬鹿が、引き際を誤ったのさ。全くあの程度で俺の銘を名乗るなんざ、片腹痛いぜ。まぁ、無様すぎて多少の退屈しのぎにはなったがな』
『…………』
『お前の父親の魂が弾けたあの色は、とても美しかった。あれは、見る価値があったな』
そんなことは知ったことではない。
父親のことなど、自分にはどうでも良かった。
己の血肉、生命の元になっただけの存在など。
それを感じたのだろうか、跡部は唇の端を意地悪く持ち上げた。
『さっきも聞いたけどよ、悔しくないか?』
『……』
『ほぅ……強がりじゃあ、なさそうだ。でも、それじゃあ、俺がつまんねぇえからな。せっかく楽しめそうだと思って、お前を拾ってやることにしたんだから、ちゃあんと期待には応えてもらわねぇと』
どこまでも、残酷に彼は笑う。
ただの気まぐれ。
ただの退屈しのぎ。
そう言いたげに。
反発を覚えた自分を、彼は面白そうに見下ろした。
『お前の父の魂が砕けた瞬間……次の北辰王は、選ばれた。お前と同じ血、同じ魂を持っている』
お前の、双子の兄貴さ。
続けられた言葉に、愕然とした。
『お前の母、鈴鹿が身篭ったのは二人。だが、あの馬鹿の呪いが顕れたのは、お前だけだったのさ。長じて必ず、北辰王に徒をなすと言う呪いがな。呪いの証は、鬼の瞳。尋常ならざる力を持つ者同士の子供は、どうしたって力の因子が強いほうが表に出るもんだ。鈴鹿も相当な妖力の持ち主で、加護女としても優秀だったらしいが、女の赤ん坊にならともかく、次代北辰王の可能性を秘めた男の赤ん坊に、鬼の血があからさまに出ることはまずありえねぇ。なぜなら赤ん坊には、予め神力を揮う器であるべく、北辰王の因子が色濃く受け継がれているはずだからだ』
赫い瞳。
鬼だけが持つ、凶眼と言われるそれ。
確かに、自分もそれを持っているけれど……
『実際に呪いが発動するかどうかはわからねぇが、北辰王に何かあれば、それはすなわち世界の大事。てめぇの子供と秤に掛けて、つまりお前はそれに負けたわけだ。お前の片割れは、太子として大事に育てられ、愛情を注がれてたってのにな』
『…………』
『ただ、瞳の色に鬼の血が出たってだけのことだったかも知れねぇ。俺が見る限りじゃ、お前とお前の片割れは全く同じ魂の形をしてる』
ひょっとしたら、ここにいたのはお前の片割れのほうだったのかもしれないな、と。
同じ血。
同じ魂の形。
それなのに、この境遇の違いはなんだ?
片や次代北辰王としてすべてに恵まれて育ち、片や瞳の色が赫かったために捨てられて、虜囚の身として生き長らえてきた。
『お前の存在は誰もしらねぇ。知ってるのは、母親だけだが、北辰王が死んだ今、そう長くはないだろ。わざわざ火種になりそうなことを言い残していくとも思えねぇし。つまりお前は、世界の中に存在すらしてねぇってことだ』
生まれても、死んでもいない。
秘密裏に産み落とされ、そして捨てられた。
だから存在していない。
共に生まれたはずの兄は、陽の当たる世界で、誰からも存在を認められてきたと言うのに。
どくん、と自分の中で何かが打ち震えた。
今まで感じたことのないほどの、烈しい感情。
怒り。
そして一瞬で芽生えた憎悪。
世界を守るために兄は存在を許され、世界を守るために自分は捨てられた。
壊してやりたい、なにもかも。
噛み締めた唇が切れ、血が溢れる。
『いい目だな……憎しみに染め上げた、綺麗な赫だ』
跡部は、美しい顔にどこかうっとりとした感情を乗せて微笑んだ。
『お前、俺の『駒』になれ。いい加減退屈の虫が疼きだしてきた。久しぶりに遊びをしよう』
そう囁かれて。
微かな逡巡……だが、それを断ち切り、跡部の提案を受け入れた。
『駒』と『玩具』といったい何が違うのか、問いかける己の声はあったけれど。
それでも、抗いを許さぬ声に、眼差しに、最終的に頷いたのは己自身の意思。
『いい子だ。……名前を聞こうか?』
それは隷属の証。
しかし。
自分には名乗るべき名前すらない。
『……ない』
正直に言えば跡部は、のどの奥をくつりと鳴らした。
『そうか……なら、俺がつけてやろう。そうだな……侑士。忍足侑士と言う名をお前にやる。今日からは、この名前がお前を縛る新たな鎖だと言うことを覚えておけ。お前は未来永劫俺の所有物になったんだ。たとえ俺がお前の存在すら忘れても、お前は俺に服従するしかない。俺に名付けられるというのはそういうことだ。それが幸か不幸かは、お前次第だがな』
『…………』
『こい、侑士。まずは、この俺の『駒』として相応しくなるよう、教育してやる。鬼としては半端だが、それでも力の使い方さえ覚えれば充分使えるからな』
その憎しみで俺を楽しませろ。
鬼の中の鬼に誘われて。
忍足は、立ち上がり、その手を取った。
美貌の主は、小さく笑う。
『なるほど……あの馬鹿がしきりにお前をいたぶっていたわけがわかった。お前の憎しみは、確かに心地いい』
自ら、甘美な毒へと、身を浸した。
それは、夢だった。
懐かしい……けれども、思い出したくはない夢。
夢であることを自覚して、忍足は自嘲気味に笑った。
そして、気付く。
誰かが自分の夢を盗み見ている。
当たり前だが、それはとても不快なことで。
自らの夢の領域に、その気配を探った。
夢と夢の狭間。
紗幕で遮られているような、そんな感覚が正しいだろうか。
はっきりとはしない。
でも、確かに透かして見える、そんな感じ。
(……跡部じゃあらへんな……)
忍足の主は、強大な力を持ち、他者の夢に干渉する術も持っているが、それはあくまで外的なものだ。
こんな風に、夢の中に直接存在を感じることはない。
(……夢渡りか?)
先天的な夢見には、その能力を持つものがあると聞いたことがある。
忍足は、感覚を研ぎ澄ませて、その『誰か』を探した。
紗幕の向こうに、人影が見える。
小柄で、華奢な……
(……あれは……)
見覚えがあった。
意識を失っていた身体をこの腕に抱いたことさえある。
(加護女)
自分の片割れを、一途に愛する存在。
勝気そうな目が、きっ、と自分を睨みつけてきた。
半陽の加護女が現れたと聞いたとき、忍足は焼け付きそうな嫉妬を感じたことを覚えている。
いつだって片割れだけが、手に入れるのだ。
今はもう、壊したいとしか思わなくなってしまった全てのものを。
まるで当然のように。
(……なんや、魂の形に惹かれてこないなとこに来たんか?)
皮肉げにそう思う。
北辰王と同じ魂の形に引き寄せられるように、夢を渡ってきたのかと。
だから。
『お前の北辰王は、俺だったかもしれんのやで?』
そしてここにいたのが、片割れだったのかもしれない。
声が聞こえているかはわからないけれど、忍足はそう言わずにはいられなくて。
すると加護女は、紗幕の向こうで小さく首を傾げ……
ふるふると首を横に振った。
『俺の北辰王は、国光だけ』
囁くような声が……否、感情が伝わってくる。
『仮にあんたが、北辰王なら、あんただけの加護女がきっといる。俺は、国光だけの加護女だから』
素直な感情は、胸に棘を刺すばかり。
果てしなく不愉快だった。
北辰王と加護女と、その互いに互いを想う心の絆が、何よりも。
『人の夢に土足で入り込むような真似すんなや。けったくそ悪いわ。さっさと、出ていき』
忍足は、強く拒絶する。
夢は無意識、完全に無防備な状態だからこそ、その才を持っている夢見は夢から夢を渡ることが出来るのだ。
だから、出て行けと。
断固たる意思で拒めば、紗幕は、分厚い壁となり夢見を夢から追い出すことも可能。
自分たちの幸福の影に、忘れ去られたものがいることも知らない。
それを思い知らせてやりたい。
そう願う忍足の心に。
弾き出される瞬間、加護女の心の声が触れてきて。
『じゃあ、あんたはどうして必要としないの?』
胸を掻き毟りたくなるような不快さと共に、忍足は身も心も重たくなる、そんな覚醒を迎えたのだった。
続
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