作品
十一章 梅信月・四
その音は、混沌の城の主にも届いた。
薄く脆い硝子に皹が入ったような、澄んだ美しい音。
跡部は薄く形の良い唇に笑みを上らせる。
世界を支える力の一端。
万物五行の気の流れが掻き乱された。
それを心地好く感じながら……
「侑士……よくやったな」
何もなかった目の前の空間がゆらりと傾いで、長身の青年が姿を現す。
彼は面白くもなさそうな表情で、こちらを見ていた。
「なんだ……少しは嬉しそうな顔をしろよ。この俺が誉めてやってるんだぜ」
「…………」
「いかに俺でも、『理』に無理やり介入することはできねぇ。全く相容れぬ存在だが、世界が俺たち一族を許容している以上はな。せいぜい揺さぶりをかけるのが限度だ。まぁ、瘴気を撒き散らすだけってのよりは、芸があると思うけどよ」
己のための銘を勝手に名乗ってきたものたちよりは。
悪路王とは、本来自分のために与えられた銘。
いつの間にかそれが、勝手に一人歩きしていった。
それを静止することなく、好き勝手にさせていたのは、偏に退屈凌ぎのために過ぎない。
世界はいつも退屈だ。
それほど永く、跡部は生き続けてきた。
もはや生まれたときを思い出せない。
鬼である自分には、自ら死ぬという概念がない。
ヒトがそうすることは知っている。
なぜそんなことをするのか知りたくて、そのように仕向けたこともあるが、結局理解は出来なかった。
死を選ぶという選択肢がないなら、生きるしかない。
いや、死がないのだから、すでに生きているのではなく、ただ存在し続けているだけなのかもしれないけれど。
飽きることにすら飽いて。
ここしばらくは、大人しくしていたのだけれど。
先代の北辰王の魂が砕け散る、あの光に覚醒して。
しばらく忘れていた感情を思い出した。
幸い、駒と成り得る存在は手に入ったし。
楽しまなければ、馬鹿を見るというもの。
次に、いつこんな機会が巡ってくるかわからないのだから。
「五行の巡りを円滑にするための結界は、決して俺を受け入れない。だがお前にはそれが可能だ。お前は北辰王と同じ血、同じ魂を持つものだからな」
北辰王と同じ。
そう指摘されるのか、嫌いなのを知っていて、わざと言ってやると、案の定忍足は不機嫌そうな表情となった。
「くく、お前は本当に俺を楽しませるな。侑士、お前の負の感情は、本当に心地いいぞ」
それでこそ、駒として飼っている甲斐がある。
「お前が北辰王と同じなのは、仕方ねぇだろう?魂と血を分けた双子なんだから。その便利な力には、俺も一目置いてるんだぜ?」
当代の北辰王を片割れとする忍足には、鬼として考えればあまりにも特異な能力が備わっていた。
鬼を退ける神力の護りが一切役に立たないのだ。
よって紫電宮の結界も無効だから、加護女を攫うことも出来た。
北辰王が、忍足の存在を感知できなかったのも双子ゆえ。
仮面を使って、鬼の力を完全に封印してしまえば、より完璧だった。
そして妖力を込めた血で、大地を汚すことも出来る。
跡部の血をその身に受けて、神宝や天の力からなる結界にも、それは可能となった。
「……別にこんな力、欲しかったわけやあらへん」
表情を固くしたまま答えるのに、跡部は笑った。
そうして朽ちかけた玉座から立ち上がり、口元に笑みを湛えたまま、忍足に近づき彼の顔を覗きこむ。
眼鏡を外してやると、明らかになる。
赫い瞳。
禍々しく美しいその色。
「馬鹿だな」
甘く優しくそう囁く。
「望もうと望むまいと……便利なことにゃ、変わりねぇんだから使わなきゃ損なんだよ。人間のガキみたいに、意固地になりやがって」
くつくつと、喉を鳴らして。
「布石は敷いた。これで北辰王自身が出て来ざるを得なくなる」
「…………」
「不満か?けどな、お前をすっきりさせてやるわけにはいかねぇな。お前は俺の所有物だ。俺を退屈させねぇえのが、お前の使命。わかってるな?」
「…………あぁ」
不承不承、というのがあからさまだ。
たが、そんな反抗心も跡部には楽しいばかりで。
喉を擽るようにしてから、玉座に戻る。
「とりあえず、少し休め。五行の結界を汚すのに、それなりの血を流したろう?あっちにも動く時間が必要だ。その頃までには、人形も出来てるだろうよ」
「人形やて?」
「そう……本当は二体用意するつもりだったんだがな。一体は、俺の力を弾いて壊れちまったよ。ま、神力が埋め込まれてるところに無理やりやっちまったからな。しかたねぇから、こいつの糧になってもらった。まぁ、久しぶりのいい餌だったと思うぜ」
たてかけていた太刀を、鞘からすらりと引き抜いた。
その刀身は、黒い。
闇よりも濃い陽炎のようでもあった。
これこそが、跡部が悪路王たる所以。
初代の北辰王に滅ぼされた、混沌の邪神が打った太刀だ。
蚩尤(しゆう)の太刀。
命と魂を糧とする、その魔剣を揮う者こそが真なる悪路王。
かの邪神こそが、鬼の一族の祖とも言われているがその真偽はどうでもいい。
ただ、この魔剣は跡部と共にあり、ゆえに悪路王と呼ばれているのだということ。
「以前は大して役に立たなかったからな。挽回の機会をやろうかと思ったんだけどよ」
「悪趣味やな」
「……鬼だからな。下がれ。呼ぶまで休んでろ」
断固たる声で命じると、忍足の姿がするりと掻き消えた。
誰もいなくなった空間で。
跡部は、黒い刀身をそっと撫でる。
当代の北辰王は、初代に並ぶ存在と誉れ高い。
「ならば、相手にとって不足はねぇ。久々に楽しめそうだ」
本気になれるかもしれない存在。
彼は己の母がなしたことを知り、どのような反応をするだろうか。
それがどんな反応であれ、楽しみだと跡部は笑った。
平和を満喫している連中に、刺激というものを思い出せさてやろう。
日常というのは、存外脆いのだと。
蚩尤の太刀を翳しながら。
そのときの期待に打ち震え、混沌の王は、その美貌にうっとりと笑みを上らせた。
続
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