作品
外伝 冬の休日
連れて行きたい場所がある、手塚がそう言ったのは今朝のこと。
朝、目が覚めると、外は一面の銀世界。
花が絶えることのない内宮の庭……白い雪とのコントラストが見事で、手塚が朝の挨拶に来るまで、呆然と見惚れてしまうほど美しい景色だった。
柊雪月も半ば、天領国にこの年初めての雪が舞った。
雪は、『天の花』と呼ばれ、天上世界に咲く花の花弁が地上へと舞い散り、世界を清めるのだとされている。
特に初雪は吉事であり、その日は一日、官も民も一切関係なく仕事の手を休め、ゆったりと過ごすものなのだという。
それは王も同じ。
特に急ぎの仕事のみを午前中に済ませ、午後からはリョーマと過ごしてくれることとなった。
恋人は、とても忙しい人。
水晶宮に暮らすようになってからは、毎日顔を合わせることはできたけれど、半日以上彼を独占で来たことはない。
王としての仕事は、まさに激務なのだ。
その激務の間に許されている、数少ない休日となりそうな予感に、リョーマは不二や菊丸の微笑を誘ってしまうほど、上機嫌だった。
手塚と一緒に過ごせるだけでも嬉しいのに、どこかに連れて行ってもらえるのだから、なおさら。
加護女となったものは、基本的に宮城の外に出ることはないのだと言う。
北辰王の半身として、地の守護者として……内宮の奥深くに守られて、一生を全うする。
リョーマも、これまでに宮城の外に出たのは二回ほどしかない。
一度目は竹葉月の、星祭の夜。
忘れられない思い出となったあの時と。
菊灯月の半ばを過ぎた頃に、代々の北辰王と、その加護女が眠る廟堂を訪れるため、天海の向こう……泰山と呼ばれる山に行ったときのみ。
外の世界を知りたい、と思わないわけではないけれど、立場から考えてみても気軽に出かけてはいけないのは理解しているし、なによりこの世界の生まれでない自分には案内なしには出歩くのは難しいだろう。
案内を頼んでも、別にいやな顔をする人たちではないが、不二たちだって多忙だし、この上更なる責任を背負わせるような事態にさせてまで成し遂げたいことではない。
強制的に閉じ込められているわけでもないし、宮城で過ごすのは学ぶべきことがたくさんあることもあって、退屈せずに楽しめている。
何しろ内宮は広く、こちらに来て半年以上経つがいまだに足を運んでいないところの方が多いほどなのだ。
時折訪ねてきてくれる橘や、天狼からも彼らが旅してきた諸国の話は教えてもらえる……好奇心は刺激されても、現状に不満は全くないのだが……。
手塚が連れて行ってくれるとなれば、話は別だ。
時間が許すのならば、もっと外の世界を見せてやりたいのだ、と彼が言ってくれた言葉が忘れられないから。
加護女だから……と、決して籠の鳥にする気はない。
そんな誠実さが、とても嬉しかった。
彼の加護女でないならば、おそらく窮屈に思っただろう、今の立場。
でも、手塚の半身であると言うことは、決してリョーマを『加護女』として束縛しない。
あるがままに、自然でいられる。
そんな大好きな恋人が、連れて行ってくれる場所。
見せたいと思ってくれた光景。
心が踊らないわけがない。
空を駆ける騎獣の向かう方角は北。
目的地がどう言う場所なのかは聞かされていない。
静嵐を駆る手塚の胸に、全身を預けながらリョーマの心は、期待に満ちていた。
最速の神獣の足。
気流を操る竜の血を引く神獣は前方に、見えない盾を作って、刺すように冷たい風に、主たちが吹きさらしになるのを防いでくれていた。
流れて行く景色は、あっという間に天領国の国土を行き過ぎて。
眼下に、白く雪の積もった大地を眺めていた……そう思ったのもつかの間、青い水を涛々と湛えた天海が視界に飛び込む。
このまま行けば、北方の山岳地帯だ。
天海は、俗世から切り離されるかのごとく、四方を峻厳な峰峰に囲まれている。
大陸の中央に位置しながら、天の領域であることを主張するかのように。
故に天領国もまた、地上にありながら、他国とは一線を隔した国家であるとされているのだ。
いくつかの国と国交があるにはあるが、諸外国の末端に当たる人間のほとんどは天領国のことを『桃源郷』のようなものと認識しているらしい。
中には、その存在すら疑うものもいた……と笑うしかないようなことを、橘が話して聞かせてくれたほど、異質な国家。
それを聞いた手塚は、まるで『北辰王』そのものだな、と苦笑していたっけ。
天帝直属の将軍でありながら、人間である存在。
天領国という国家の為政者であるにもかかわらず、民たちは北辰王を神のごとき存在と捕らえ、王として意識することはない。
野心を持つ他国の中枢を担う人間たちには、この国も、北辰王という地位も垂涎の的であるだろうが、そうではない存在にはそれが架空だろうと現実に存在していようとあまり関係はないのだろう。
外界と分かつように存在する山脈。
四方の神などを祭る祠や祭宮なども点在し、仙道が洞府を構えていたりもするため、外界と分かつための一種の結界とも言えた。
人が暮らすには厳しい環境ではあるが、少数民族や、流浪の民が細々と生活を営んでもいる。
だがそれは、比較的暮らしやすいとされる場所で、静嵐の向かっている先は最も険しい北の方角だ。
住んでいるのは霊獣や、仙道の中でもよほどの変わり者だけ。
その原因が先々月にリョーマが手塚と共に訪れた泰山である。
代々の北辰王や加護女が眠る地であるというだけではない。
泰山の何処かには、人が死した後に行きつく世界『冥界』への入り口があるのだという。
この世界で最も『死』に近い場所。
天帝のもと、『死』を司る神である泰山府君の祭宮もあり、生者は死の神と死者への敬意と畏怖の念からこの場所を進んで訪れることは滅多にない。
手塚も両親が亡くなった時季に訪れる以外で足を運ぶことはないため、そこが目的地ではないはず。
いったいどこに連れて行ってくれるのか。
そう思ったとき。
「リョーマ、降下するぞ」
つかまっているように促されて、リョーマは彼の逞しい胸にしがみついた。
軽い浮遊感と共に、静嵐がどんどん高度を下げていく。
真っ白い山肌が近付いてきたとき、鼻腔を良い香りが擽った。
さくっと音をさせて、雪の中に静嵐が降り立つ。
北の山は、昨日のうちに宮城を真っ白に彩ったもの比べ物にならないくらい深く、雪に覆われていた。
それは目で見てもわかるくらいなのに、ずぶずぶと沈み込んだりはしない。
空行できるため見た目より遥かに軽い静嵐だけかと思いきや、手塚もリョーマもほんの一センチほど窪んだ足跡を残すくらいであることから、何らかの特殊な力が作用しているのだとわかった。
見上げると、リョーマの疑問を汲み取ってくれた手塚が唇を開く。
「北方の山は、死者を鎮める霊域……それはわかるな?」
「うん」
「それゆえ清めの雪は、むやみやたらと命を奪わない。最も、この霊域を汚すような振る舞いをすれば、即座に雪は雪崩となって不届き者を飲み込むだろうが」
「そんなに寒くないのも、そのせい?」
南海の果てにあるという火山の中に住む火鼠(かそ)というねずみに似た妖獣。
火に強く、紡績して糸に加工してなお温もりを発すると言う毛皮を使ったふかふかのケープを防寒のために羽織ってきたのだが、そこまでする必要はなかったのかと思わせるほど、ただ心地良い冷気が時折頬を撫でていくだけだ。
なんとも清々しい香りと共に。
「あぁ、そうだ。冬になれば深く雪に閉ざされる土地だが、少なくとも明らかに邪心を持ってこの山に登ったとされるもの以外で、凍死した人間がいるとは聞かんな」
それはやはり、霊域を守る天の力……あるいは泰山府君の力が働いているのだろう。
何度も思ったことだが、こちらの世界は、本当に不思議なことばかりだ。
しかもその不思議なことの一角に自分も組み込まれているのだと思うと、リョーマは運命の妙を感じずにはいられなくなる。
「リョーマ?」
ぼんやりした自分を気遣うように声をかけてきた恋人に、リョーマは明るい笑顔を見せて安心させる。
そしてもう一つの疑問を口にした。
「このいい匂いも、ここが霊域だから?」
「そうだとも言えるし、そうではないとも言えるな」
「?」
「雪が香りを放つのは、天海を囲う四方の山々はもちろん、北方の山岳地帯の中だけでもこの一帯だけだからな。この山の名前は、『コウセツレイ』というんだよ」
リョーマの手の平を取り、『香雪嶺』と書いて教えてくれた。
「香雪嶺の雪は、特に清めの力が強いと言われている。だから術者の中には、この雪を溶かして聖水とするために、ここを訪れるものもいる」
「へぇ」
頷いて、リョーマは胸いっぱいに空気を吸い込み、雪の放つ香りを堪能する。
そう、雪の持つイメージを香りにしたら、こんな感じなのだろう。
清らかで、癖のない……ほのかな優しさを秘めた香りだ。
この世で一番『死』に近い場所。
リョーマの力とは、全くの正反対のものであるそれに満たされているはずのそこは、やすらかな静寂が横たわるのみで、不快感は一切与えない。
かつて、鬼の術によって体感した『全てが静止した空間』とは全く別物だ。
生も死も、等しく流転する万物の内なのだと、実感させてくれる。
五行は正しく巡り、雪に宿る清めの力が、リョーマの持つ万物の力にそっと囁きかけてくるように感じた。
なんだかとても、優しい気持ちになって、自然と口元に笑みが浮かぶ。
加護女の持つ万物の力……完全に覚醒したそれを、使いこなすまでには到っていない。
特になにか問題を起こすような事態があったわけではないけれど、大きな力を制御しきれていないプレッシャーは、リョーマの精神を無意識に疲弊させていたらしいことに、今気づいた。
たぶん手塚は、それを察して今日ここに連れてきてくれたのだ。
清らかな雪の力が疲れた精神を癒し、この香りが気晴らしになるように。
「国光」
「ん?」
「ここ、すごく気に入った」
笑顔でそう言うと、恋人は、そうか……と優しく表情を和らげた。
「おまえには、もう一つ見せたいものがあるんだが」
「なに?」
「リョーマ、あれを……」
手塚が腕を伸ばして指差した先。
きらきらと光るもの。
雪が太陽に反射しているのかとも思ったのだが……違う。
雪とは別に、光を反射しているものがあって……リョーマは、そこに近付いてみる。
「わぁ!!」
唇から零れたのは、感嘆の声。
振り向いた先で、手塚が満足そうに頷いた。
リョーマはしげしげと、輝くものを見つめる。
それは氷でできた花だった。
まるで薔薇のように、薄い氷が幾重にも重なって咲いている。
人間の手で意図的に作れるものではない。
まさに自然の芸術。
それが点々と咲いていて……陽光を反射し、きらきらと光を放っているのだ。
「……すごい」
「雪輝薔薇という、この時期、香雪嶺でしか見ることのできない氷の花だ」
見惚れているリョーマのすぐ傍までやってきた恋人が、そう教えてくれる。
「雪に覆われた景色は美しいが、殺風景でもあるだろうと……西王母が、死者への手向けに咲かせる花だといわれている……王母の加護を受けるおまえに見せてやりたいと思っていたんだ」
果たせて良かった、と微笑む手塚の心がとても嬉しくて、リョーマは思わずぎゅっと抱きついた。
「リョーマ?」
「ありがと、国光。大好き」
胸に頬を寄せると、優しい腕が抱き返してくれて、とてもとても幸せな気持ちになる。
世界で一番大好きな人が、自分のことを考えて、大切にしてくれているのだと感じる喜び。
嬉しくて……だからこそ、世界がとても愛しくなる。
天の代理人と、地の守護者……その理の内かもしれないけれど、この気持ちは確かに自分のものと、胸を張って言えるから。
「ねぇ、国光」
「なんだ?」
「来年も、初雪が降ったら、俺をここに連れてきてくれる?」
「あぁ……もちろん」
約束しよう、と言う囁きと共に唇に触れてくる温もり。
真っ白い雪景色の中に咲く、氷の花が陽光にきらめくのを視界の隅に捕らえながら、甘い気持ちを堪能するためにリョーマはほんの少し背伸びして、ゆっくりと瞼を下ろした。
終幕
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