作品
外伝 花筐
麗らかな春の陽射し。
ほの甘い桜の香りが鼻腔を擽って、不二は読んでいた書物から顔を上げて、窓の外に視線を向けた。
静かな午後だ。
たいてい一緒にいる菊丸は、恋人である大石に頼まれて、薬草と最新の医学書を購うために城下に降りていて不在。
不二の恋人・河村は、桃城や海堂と共に武官への稽古をつけるために修練場にいるはずで。
水晶宮の私室に一人、読書を楽しんでいる。
ここ一年余り、滅多にこういう時間は持てなかった。
(…………リョーマくんが来てから、毎日が目まぐるしかったからね……)
昨年の今頃、異世界より召喚された加護女。
勝気だが、いつも前向きで……不二は、この子ならば、頑なな義兄の心を救ってくれるのでは、と期待した。
いくつかの試練を越えて、実際、その通りになり、手塚は目の中に入れても痛くないくらい、リョーマを慈しんでいる。
今も、櫻花之宴を前にいつも以上に忙しい政務の合間を縫って、午後のお茶を楽しんでいるはず……
そんな二人が微笑ましく、だから不二は、一人で過ごすこの静かな時間が愛しく思えた。
優しい春の景色から、再び書物に視線を戻そうとしたその時。
「周助!」
窓の外から、名前を呼ばれて。
「リョーマくん」
つい先ほどまで思い描いていた声の主の登場に、不二は口元を綻ばせた。
「どうしたの?手塚とお茶をしていたんでしょう?」
「うん。でも、国光、よっぽど忙しいみたいで、もう太極殿に戻っちゃったんだ」
「そう……で、そんなところから、どうしたのかな?」
書物を卓の上に乗せてから、リョーマが顔を覗かせている窓のほうへと足を運ぶ。
彼の傍らには一年の間に、生まれたての子馬ほどの大きさになった真珠が、黄昏色の空を透かした金色の硝子のような瞳でこちらを見上げていた。
名前の通り、真珠のように光沢のある毛並み。
不二の姿を認めて、ゆらりと長い尻尾を優雅に揺らした。
「真珠の散歩中なんだけど、周助に渡したいものがあったから」
「渡したいもの?」
「うん。はい、これ。周助、これで作った花糖蜜(ジャムのようなもの)大好きだって、国光に聞いたからさ」
リョーマが差し出してきたのは、紫雲英(レンゲソウ)の花がいっぱいの花篭。
太極殿から、程近い内宮の一角に、このような野の花だけを集めた花園があるのだが……おそらくそこで、お茶を飲んだのだろうと推測できた。
赤みの強い明るい紫色の可憐な春の花。
名前の通り、これが咲き乱れているところは、紫の雲がたなびいているように見える。
これの花びらを砂糖で煮詰めた花糖蜜は、花の色を鮮やかに映して美しく、それを白湯に溶かして飲むのが子供のころの好物だった。
大人になるにつれて、殆ど口にすることはなくなったのだが……
「驚いたな……手塚、よく覚えてたものだね……」
そう言うと、リョーマは小さく微笑んだ。
「国光って、けっこう周助のこと、大事にしてるんだよ」
血は繋がってないけど、そういうところは、二人とも似てるよね……そんなリョーマの言葉に、不二はどう返していいのか、わからなくて。
「じゃ、またね、周助」
悪戯っぽく笑いながら、彼女が真珠を伴って立ち去った後も、しばらくその場に立ち尽くし……やがて、手の中の花篭に視線を落とした。
籐で編まれた篭の中に、いっぱいの野の花。
ふと、感じる既視感。
思い当たったのは……
とても……とても、懐かしい幼い頃の、記憶……だった。
■
毎朝、目が覚めるたびに、周助はこれが夢ではないかと思う。
今日から、ここがあなたの部屋よ……と与えられた、房室。
広くて、綺麗な部屋は、実は幻で……今は悪夢となったあの日々が、まだ続く現実なのではないかと。
炎を灯したといっては叩かれた。
風を操ったといっては蹴られた。
水に千里彼方を映したといっては、皿や杯を投げつけられた。
そうして受けた傷を大地の気を使って癒せば、柱に縛り付けられた。
師は、周助が何かするたびに、声を荒げ暴力を揮った。
だって、知らなかったのだ。
それが誰にでもできるわけじゃないこと。
師ですら会得するのに、十数年を費やしたものだなんて、知らなくて。
帰りたくても、帰れなかった温かい場所。
制御できない力で、弟に怪我をさせてしまった。
傷は、そんなに酷いものじゃなかったけど、額から夥しい血が流れて……その光景が忘れられない。
また、あんなことがあるかもしれないと思ったら、帰れなかった。
送り出してくれた家族は、信じている。
周助が、力の使い方を覚えて、立派な法術師になること。
そうして、家の門を叩き、帰ってくること。
だから、なにがあっても、帰れない。
どんなことをされても、耐えなければ。
そう思っていたのに……梁に吊り下げられる縄を解いてくれたのは、師ではなかった。
痺れた身体。
おなかが空いて、かすむ視界に。
映ったのは、見知らぬ大人。
後になって、近所の人の通報により、保護にやってきた役人だと聞いた。
師に捨てられたのだと知らされたとき、これまで耐えていた精神は脆く砕け……気付いたときには、ここにいて。
とてもとても綺麗な女の人。
優しそうな男の人。
それから、自分より少し年上の……女の人に良く似た男の子。
温かくて、優しいものはまだ少し怖かった。
だから、この部屋を出ることは殆どない。
ときどき、唯一心を開いているこの宮の女主人の後に付き、彼女の影に隠れながら宮殿内や、日の暮れた中庭を散策するだけ。
今日は、法術について学ぶことになっている。
周助は、これから始まる一日に目を擦りながら、寝台の上に身を起こした。
「主様、おはようございます」
抑揚のない声に顔を上げると、自らが作り出した式神の、無表情な顔がそこにあった。
「おはよう、玲萌(レイホウ)」
自らの力を錬って作り上げた式神は、人の形をしただけのものに過ぎないが、接し方によっては喜怒哀楽に近いものが芽生えるから、人にそうするように接するといい……そう教えてくれたのは、母のように親身になってくれる紅い目の女性だ。
義務的に返される目礼はなんとも言えず居心地が悪いが、式神が用意した盥で顔を洗い、服を改める。
生まれたときは、弟と同じだったのに、霊力が顕著になり始めたのと時を同じくして、周助の身体は、姉と同じに変化した。
半陽と言う第三の性。
早すぎる分化と通常よりも長い女性期間に、周囲は戸惑い、常人より強い陰の気が力の暴走に拍車をかけたため、それがまるで悪いことのように思えて……自分のこんな身体が、ずっと嫌いだった。
悪いことではないのかもしれない、と思えるようになったのは、つい最近のことだ。
すっかり仕度を整えて……
「あ……今日も……」
中庭に続く、大きな窓。
その向こうに、いつの頃からか、毎朝花篭が置かれている。
篭の中身は、いっぱいの花。
素朴で可憐な野の花であることが多い。
蒲公英(タンポポ)だったり、雛菊だったり、春蘭だったり……
まるで周助を部屋の中から外の世界に誘おうとでも言うかのように。
外は春。
生命が芽吹く、美しい光景が広がっているのだろう。
けれど、周助には、その光景がとても遠くて……今まで、一度も、その花篭を手に取ったことはない。
目に入るのも怖くて、花辺(レース)の窓掛(カーテン)を引いてしまうのだ。
そうすると、いつの間にか、日が傾く頃に花篭はなくなっている。
でも、今日は……
花篭の中に詰まっていたのは、紫雲英。
まだ、春蓮の街で、家族と一緒に暮らしていた頃。
春になると、郊外の野原にみんなで出かけ、そこに咲き乱れる紫雲英を篭いっぱいに摘んで帰った。
持ち帰ったそれを水で洗い、花びらだけを毟って砂糖で煮詰め、母が花糖蜜を作るのだ。
姉や弟と厨房を覗き込み、出来上がるのを待つ……不二家の春の楽しみだった。
懐かしくて、いつもならそっぽを向くだけの窓辺に近寄っていく。
そしてそっと窓を開けると……暖かな春の風が、頬を撫で、甘く馥郁とした香りを久しぶりに吸った。
今まで触れたこともない花篭を、そっと手に取った。
ふわりと、伝わってくる、知っているような、知らないような『気』。
直向きに、気遣うような『気』に触れて、周助はたじろぎ膝の上から花篭を落としてしまう。
「どうしたのですか?」
「あ……鈴鹿様……」
朝食を共にするためにやってきたこの宮の女主人……鈴鹿御前に背後から声をかけられて、周助はそちらを振り仰いだ。
「まぁ……紫雲英……」
床に散らばった花に、紅い瞳の美しい人は、おっとりと首を傾げる。
「あの……その……毎朝、届くんです、花篭が……それで、その……」
説明しかねて、しどろもどろになっていると、鈴鹿もその場に膝を付き転がっている籐の篭に手を伸ばす。
そして……
「あらあら、あの子ったら……相変わらずだこと」
そう、鈴の音を転がすような声で、笑い出した。
「鈴鹿様?」
「何も言わずに置いていけば、不気味に思われて当然でしょうに」
不気味とまでは、思っていなかったけれど……
この花篭の送り主を知っているというのだろうか。
「それで、周助……あなたは、これをどうしますか?かたづけてしまいますか?」
これ、と指し示されたのは、床に散らばった紫雲英。
懐かしさに手に取ったとき、すでに捨てる気は失せていた。
そして、触れた労りの『気』に、今まで無視してきたことへの罪悪感がこみ上げてきて……
「鈴鹿様」
「はい?」
「僕……紫雲英で作った、花糖蜜が大好きなんです」
ぽつん、と呟いた。
「そうですか……洗えば大丈夫でしょう。今日の授業は、明日に回して……一緒に作りましょうか?」
「え?」
「だって、あなたが、自分からなにを好きか言うのを初めて聞いたのですもの……これは、嬉しいことだわ」
紫雲英の花を再び、篭に詰める。
「さぁ、行きましょうか?」
「…………はい」
片手に花篭を持ち、片手を鈴鹿に引かれて、久しぶりに部屋の外へ出た。
そして懐かしい味の詰まった瓶を手に、部屋に戻って来るまでに何度も鈴鹿に送り主のことを聞いたのだが、それは自分自身で確かめるようににこやかに諭されて……
いつもたいてい花篭がなくなる頃合いを見計らう。
普段だったら、寝間の脇に設えた机で、法術関係の書物を読んで勉強に集中している時間なのだが、空になった篭を持ち中庭に面した窓を開けて待っていると……
「あ……」
茂みから姿を現した人物と、異口同音に声が出た。
気まずげに、彼は顔を背ける。
花篭の送り主は……『あなたの兄と思いなさい』……そう紹介されて以来、周助が意図的に避けていた鈴鹿御前の息子。
名前は、手塚国光と言ったか。
一国の太子である彼が、所在無げに視線を彷徨わせて……
「君……だったの?」
「……余計なことだとは思ったが……」
その一言で、彼自身が送り主であることを肯定する。
「おまえが殆ど外に出ることはないと、母上に聞いて……外は、せっかくの春で……今は、内宮のどこもかしこも花が咲き乱れて美しいのに、もったいないと思ったから……せめて、その片鱗だけでも見せて、おまえが外への興味を持ったらいいと思ったんだ……」
訥々と語られる言葉。
相変わらず視線を合わさないように。
自分は、彼のことを避けてさえいたのに。
見向きすらしない周助のために、早朝に花を摘み、窓の外にそっと置いていく。
今もまだ世界を恐れて拒絶する自分に、せめてものきっかけを与えようと。
そんな不器用な気遣いを、今まで自分は無視してきたのだ。
そのことを強く、実感する。
空の篭を抱く手に、我知らず力が篭った。
「お、おい……」
ぎょっと、目を見開き、あからさまに彼がうろたえる。
気付くと目頭が熱く、頬を濡れた感触が伝い落ちて。
「……ごめんなさ……それから、ありがと……」
それだけ言うのが精一杯。
目をぎゅっと瞑り、俯いた周助に、遠慮がちに近付いて来る気配。
おずおずとぎこちない動きで、頭をそっと撫でられて、ますます涙は溢れ、喉の奥から嗚咽が漏れた。
「紫雲英の花糖蜜が好きだそうだな?」
鈴鹿御前に聞いたのか、まだどこか躊躇いを残した口調で聞いてくる。
「内宮には、野の花だけを集めた花園があるんだ……良かったら、明日、一緒に行かないか?そして、紫雲英の花を篭いっぱいにたくさん摘もう」
迷わないように、手を引いていってやるから……
感じるのは、花篭に触れたときと同じ、直向きな気遣い。
労りの心に、周助は一歩踏み出してみようかと思う。
かすかに首肯すると、ほっとした気配が伝わってきて……涙に濡れた瞳で、彼の顔を見上げる。
鈴鹿御前に良く似た面立ちに浮かんだほのかな笑みが、いつまでも周助の胸に残った。
■
「懐かしい……」
初めて、手塚とちゃんと言葉を交わしたときのことを思い出し、不二は紫雲英を一輪手にとって目線の高さまで持ってくる。
噛み締める思い出が懐かしいのは、今がとても幸せだから。
どんなに辛い記憶も、現在に辿り着くまでに必要だったのだといえる。
これからも、きっと、そうして時を重ねていくのだろう。
そしていつか、自分たちが、手塚とリョーマの遠い思い出になる日が来たとしても。
今の自分がそうであるように、彼らにとっても良き糧となれるよう、これからを共に生きていく。
いつか、別れの日が来るときまで。
花篭に詰まった、可憐な花。
「後でタカさんと一緒に、花糖蜜を作ろうかな」
不二は紫雲英の向こうに透けて見える、懐かしい思い出に口元をそっと綻ばせた。
終幕
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