作品
外伝 桂花
秋の紅は好きじゃない。
それまで当たり前だと思っていた日常が、小さな手のひらからさらさらと、砂みたいに零れ落ちていった記憶を思い出させる。
他の季節ならなんとも思わない。
むしろ、好きな色だった。
でも。
秋を染めていく紅は、まだ胸に突き刺さるから。
一人では、決して、見ることはできない。
昼下がりの水晶宮。
珍しく、菊丸は厨房に立っていた。
料理が得意というわけではない。
花柳界という特殊な世界にいたせいで、歌舞音曲や、裁縫は仕込まれたが水仕事の類には、触れることなく育った。
厨房に立つようになったのは、私官として宮城に上がってからだ。
覚えている母の姿を、見よう見真似で。
だから、初めのうちは失敗の連続だったけれど、河村が来てからはコツを教えてもらったこともあり、今では唯一の得意料理だ。
そう、唯一。
菊丸が作れるのは、それだけ。
生地に蒸した旬の南瓜を裏漉ししたものを練り込んで、丸く形作り、白胡麻を塗して油で揚げる。
今は亡き母が得意だった揚げ菓子で、家族で囲んだ最後の食卓に乗っていたもの。
胡麻と表面が香ばしくて、揚げたてなどは齧ると湯気が昇った。
南瓜の甘みだけの、素朴な味が……菊丸も兄姉たちも大好きで。
秋のおやつの定番だった。
南州の小さな町で、名医と評判だった父と、大らかで料理上手、薬草に通じていた母。少し年が離れていたせいか、可愛がられていた記憶しかない兄姉たち。
もういない、血を分けた大切な家族。
小さく溜息を漏らして、出来上がった揚げ菓子を、皿に盛り手早く使った器具を片付けると、自室に戻ってお茶の準備をする。
相伴する相手はいない。
リョーマは、手塚とお茶の時間であるし、いつもだったらたいてい一緒にいる不二は年が明ける前に河村との婚姻の儀が決まっているため、ここ最近はその打ち合わせやら用意やらと不在なことが多いのだ。
「あー、そういや明日、衣装選びに付き合えって言われてたっけ」
義兄である手塚が、相当張り切っていて、婚礼の衣装のための布地や装飾品のための材料を各地から取り寄せているらしい。
「まぁ、めでたいのはいいことだしにゃ」
そう呟く自分の口調に、どこか覇気がないのを自覚して菊丸は自嘲の笑みを浮かべる。
親友の吉事は我がことのように嬉しい。
その気持ちには曇りも偽りもない。
けれど。
どこか割り切れないのは。
同じように嫁ぐことが決まっていて、この季節に命を落とした上の姉を思い出すから。
夜盗に押し入られて、助かったのは、友人の家に泊まりに行っていた下の姉と、寝台の下の隙間に隠されていた自分だけ。
賊たちから末の弟を守るために、言葉通り身を挺して隠してくれた二人の兄。
隙間から見えた、力なく横たわる兄たちの身体……鼻をつく、むせかえるような血の臭い。
朝になって、寝台の下から這い出した菊丸が見たのは、家のいたるところに飛び散った血の紅と、冷たくなった家族の骸。
強すぎる衝撃は、心を麻痺させた。
不気味なくらい冷静に、役所に通報しなければ……そう思って。
外に出た。
秋の空は高く、青く。
陽の光は目に眩しかった。
翳した指の隙間。
家の中庭に植えてあった楓の葉は、痛いくらい紅くて。
そこで菊丸の意識はふっつりと途切れて。
あの日から、姉と菊丸の人生は流転を始めた。
同じように妓楼に身を置いていた姉は、客に悪い病気を移されて若くして亡くなり……
独りぼっちになってしまった。
手塚と出会い……彼と再会するまでは。
鼻腔を擽る花の香り。
一家が好んで飲んでいた金木犀のお茶を、家族の分だけ注ぎ入れ卓の上に並べる。
「年に一度くらい、こうしてしんみりしたっていいよな」
みんなの前では、笑っているから。
いつもの自分でいるから。
こんな風に、一人で迎える秋の昼下がりには。
「…………ひどいな、英二。それに俺は混ぜてもらえないのかい?」
「……大石」
いつからそこにいたのだろうか。
恋人の姿を認めて、菊丸は泣き笑いのような表情になった。
「先生がいなければ、俺の目は今も見えないままだった。奥様の料理はとても美味かったけど、煎じてくれた薬草はまずかったな。兄上たちは、たくさん遊んでくれたし、姉上たちは俺たちにおそろいの袍を作ってくださった。英二と、そのご家族に出会えたから、俺は医者の道を志そうと思ったし、今の俺がいるんだと思う。だから……」
言いながら傍らに立ち、そっと肩を抱き寄せてくれる。
その手のひらのぬくもりが胸に染みた。
「弟子入りしようと思って、あの町にもう一度行ったとき……事件のことを知って、とても驚いたし、憤ったし、悲しかった。もう一度きちんとお礼が言いたかった。もう一度、お前に会いたかった……」
「秀は……俺のこと、探してくれてたんだよね?」
「あぁ。探した。当時まだ大人とは言えなかった俺にできることなんて限られてたけど」
「うん……でも、嬉しかったよ。だから手塚は、俺を『俺』だって気付いてくれて、秀に引き合わせてくれたんだから」
一人ぼっちじゃなかったんだって。
自分を案じて、想ってくれている人はちゃんといたんだって。
知ることが出来た。
「いいご家族だったな。英二がそれを証明しているよ。そしてその証は、おまえと接する人たちにも広がっていくんだ。不二や、越前や……みんな。そして、俺にも。だから、お前の家族は決して失われてなんていないんだよ」
その言葉に。
涙が溢れそうになって、菊丸は目を閉じ、そっと頭を大石の身体に凭せ掛ける。
「…………うん。知ってるよ。だから俺は今、一人じゃない。みんながいるし、秀がいるんだからにゃ!」
ぱっと顔を上げたときには、涙はもう消えていた。
記憶は今も、痛いし、辛いし、哀しくて、寂しいけど。
でも、それだけじゃない。
それだけじゃないから。
傍らの身体を、温かいと、感じることができる。
労りを、慈しみを、愛情を……嬉しいと、思うことが出来るのだ。
最愛の人に、心からの笑顔を向ける。
すると、彼も優しく甘く微笑んで。
名残の残る目元にふわりとくちづけが降ってきた。
「俺にも、お茶を入れてもらえるかな?」
「了解!……でも」
「ん?」
「お仕事、大丈夫?」
「なぁに、たまにはかまわないさ」
多分、仕事途中で抜けてきたはずの恋人が、快活に笑ってみせるから……菊丸もそれ以上は、何も言わず新たに葉とお湯を入れなおし、茶杯にこぽこぽと茶を注ぐ。
部屋に満ちるのは、金木犀の香り。
まだ少し時間はかかるかもしれないけれど。
いつか秋を彩る『紅』を美しく思い、そして思い出せるときが来るだろうと。
恋人の顔を見つめながら、菊丸は、そう確信していた。
終幕
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